2017年09月15日

2014年の重度訪問介護の対象拡大についての確認

2014年。厚労省は、これまで重度身体当事者のみが対象となっていた重度訪問介護を、
下記の通りに改めた。

重度の肢体不自由者又は重度の知的障害若しくは精神障害により行動上著しい困難を有する者であって、常時介護を要する障害者
→ 障害支援区分4以上に該当し、次の(一)又は(二)のいずれかに該当する者
(一) 二肢以上に麻痺等がある者であって、障害支援区分の認定調査項目のうち「歩行」、「移乗」、「排尿」、「排便」のいずれもが「支援が不要」以外に認定されて
いる者
(二) 障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等(12項目)の合計点数が10点以上である者


最近、卒論のインタビューを受けたり、重度知的当事者の自立生活支援についての講演依頼を受ける機会が増えている。
又、対象拡大から3年が経つも今尚自立生活を営む重度知的当事者の数が増えていかない現実。
その中で、この重度訪問介護の拡大も含めた今後の展開について考えようとする人たちが増えている。
さらには、
やまゆり園を巡るやり取りにおいても、この重度訪問介護の対象拡大が様々期待も込めて注目されているように思う。

その事自体は歓迎するのだけど・・・

ただ、重度訪問介護の対象拡大と重度知的当事者の自立生活を巡る話や情報や呼びかけが流れてくる中でいつも気になっている事がある。

それは、
「2014年重度訪問介護の対象が重度の知的障害者にも拡大された」という話。

でも、
実際に拡大した対象は、「行動上著しい困難を有する」重度の知的障害者や精神障害者なのだ。

すなわち、
重度の知的障害者や精神障害者に拡大されたわけではない。
「障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等(12項目)の合計点数が10点以上である者」なのだ。

昨今「社会モデル」という言葉が巷で聞えるようになってきたが、
この認定調査項目の中にある「行動関連項目」なるもので明らかにされるものは、
本人の「問題行動」「行動障害」
それが、たとえ周囲との関係や置かれている環境や関わり方の不具合という周囲の課題であったとしても、
現れる本人の行動に拠って「判定」される。
逆に、それら周囲と本人との関係が充足し、本人が「行動障害」に至らなければ、重度訪問介護の対象にはならないという事。

そんな「個人モデル」「医療モデル」に拠って立つ、対象を拡大した重度訪問介護。

「重度訪問介護の対象が知的や精神初会社にも拡大されました」という認識では、
重度知的当事者や精神当事者の自立生活に対する支援や自立生活に至る様々な課題は見えてこないように思う。

例えば、厚労省は精神科病院にいる当事者達に対し、入院中から重度訪問介護や行動援護が使えるようになるという。
しかし、入院中の精神障害の当事者たちで利用できるのは「行動上著しく困難を有する者」のみ。
そういう人が重度訪問介護を使い退院していくという事を医師や病院関係者は認めるだろうか?
逆に、落ち着いた生活をしていて、地域移行支援事業を使い退院を目指す人は、「行動上著しく困難を有していない者」なので、重度訪問介護は使えない。
厚労省は、さも地域移行を推進しているかのように思うが、実際は使いたくても使えない制度になっている。

又、
地域で暮らす重度知的当事者たちが重度訪問介護を使い自立生活を始めようとする。
すると、
相談支援事業所によるアセスメントや利用計画案の作成が必須となっている。
重度身体当事者たちが重度訪問介護の利用申請を行う時、専門家によるアセスメントを求められることはない。又、セルフプランが認められている。
しかし、
重度知的当事者には求めてくるアセスメントや利用計画案は、まさに「行動上著しく困難な者」だからだと思う。

その他、
行動援護事業者の活用やそもそも「問題行動」「行動障害って?」という疑問。
さらには、行動障害支援課程という新たに新設された重度訪問介護従事者研修内容の問題点。

そのように様々な課題があるにもかかわらず、
「重度知的障害者にも拡大された」と言われると、実際の事柄が見えてこないように思う。
そして、見えてこないままに不安だけが募り、重度知的当事者の自立生活が進まないというに終わるように思う。

重度身体障害当事者たちによって築かれてきた重度訪問介護。
私は、東京都の事業として行っていた「脳性まひ者等介護人派遣事業」を巡る交渉の頃から重度訪問介護という名称に至るまでをリアルに見てきた。
重度身体障害当事者たちは、ある面制度の支給が行われれば、実際に使いながら自らの暮らしに適した制度やその利用の仕方に組み替えてきた。
しかし、
重度知的当事者や精神の当事者は「行動障害」なるものを対象とする事で、「社会で生きていけるのか否か」を判定される。
そして、対象となったらなったで、別の方向から自立生活は無理と言ってくる行政や相談支援事業所があったりする。

そんな様々な状況も含め、
まずは、どう対象が拡大されたのかをきちんととらえる必要がある。

決して、「常時介護を必要とする重度の知的障害者や精神障害者」にも対象が拡大されたのではない。
どちらかと言えば、
「行動上著しい困難を有する者」にも対象が拡大されたという方が正しい捉え方だと思う。

そこをしっかりとらえた上で、
「重度訪問介護が、常時介護を必要とする重度知的障害者等に拡大された」と言える状況を生み出したい。

2014年の改正から3年後の見直しについて、
厚労省が委託した団体から「重度訪問介護を使わず一人暮らしをしている重度知的障害者の実態調査」を受けた。
こちらにお鉢が回ってきたのは、行動障害等を伴わない重度知的障害者が自立生活をしている実態を把握していないから」というもの。
調査しようにもその上な状態状況にある人を国が把握できていないから。

重度訪問介護の対象を
「常時介護を必要とする重度知的障害者」として欲しいから引き受けたのだが、
結局は、見直しの議論の遡上にも上らない状況。

なので、
願いとして「重度の知的障害者等に対象が拡大された」というのはありだけど、
願いは願いで、実際ではない/今後の課題として認識をもって発信して欲しい。
posted by 岩ちゃん at 14:48| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

相手との関係で変わる日本語に

日本語には、相手との関係が含まれている。
目上の者に対しては、尊敬語や謙譲語や丁寧語を使う。
目下の者に対しては、横柄な言葉使いをしたりする。
立場が同じ者に対する言葉もある。
そして、
敬語なるものが警語として、相手と自分の立場を推し量ったりする。

この「相手との関係」を認識する事に困難さを抱える自閉症や発達障害の当事者が言葉を発する時、相手との関係性が含まれる日本語は、様々な摩擦を生む原因になっているように思う。

重度の知的障害を伴い、発語がない場合はまだしも、
軽度の知的障害を伴う人にとっての言葉は、自らに語りかけられた言葉をもって学習し、
自らが得た言葉を発すると、時に目上の人に対し失礼な・横柄な人に映ってしまう。

又、中度の知的障害を伴う人は、常に周囲から蔑まれたり横柄な言葉づかいで対応をされ続ける中で得た言葉をそのまま他者に語る事で、当事者の存在を理解しようとする者であっても、感情を逆なでする事になる。

ところが、当の本人は自分の発する言葉を相手がどう受け止めているかを知る由もない。
ごくごくあたりまえに使う。
決して相手を蔑んだり横柄な態度をとっているわけではないが、自分が学んだ言葉を相手との関係を考えずに発するため、当事者の真意が見えなくなっていく。

私が当事者たちと話をする時、
「私は〜」とは言わす、
「自分の名前」に「さん」をつけて「〇〇さん(私)は〜」と語りかける。

その理由の一つは、
「私」という人称代名詞は、いったい誰の事を話しているか理解し難いのであえて代名詞を使わない。
もう一つの理由は、
「〇〇(私)は〜」とした時、相手から「〇〇は」と返ってきて、呼び捨てにされる事で起こる感情を回避するため。

初めっから自分の名前に「さん」を付けて相手とやり取りしていれば、いらぬ感情が生まれないから。

これは、名前に限らず様々な会話の中に含まれているので、慣れていないととてもややこしいし、感情を逆なでされると冷静に本人の意図や意思が聞き取れなくなる。

そして、聞き取れないままに「言葉」に感情がこもっていると解釈して聞くことにより、ますます両者がズレた想いになっていくように思う。

そんな事をあれこれ考えて当事者たちと付き合うも、
私自身相手の言葉づかいに「イラ」っとする事はある。
「何であんたにそこまで言われなければならないの!!」という感情を抱く。
その感情を相手にぶつけても、相手は自らが得た言葉をもって語っているだけだから、
何のことを言われているのか解らない。

「自閉所や発達障害の言語学」なるものがあれば良いなぁ〜と思う。
私たちと異なる言葉の獲得や使い方をもっとうまく整理できれば良いと思う。

そんな学問があるかどうか知らないけど、
相手から受けた言葉によって私自身に起こる感情。
起こってしまうのだからある面仕方ないのだが、

そういう感情が起こった時、
彼らが発する言葉は、私たちが彼らに発している言葉から学び取り使っているのだと思えば、
彼らが発する言葉は、私たちが彼らをどう見ているのか?彼らはどう見られてきたのかを知る手立てになる。

彼等の発する言葉の中に、立場性ではなく、私は彼をどう見てきたのか?彼はこの社会の中でどう見られてきたのか?という経験に対する疑問が含まれているとすれば、
私の中に湧き上がる感情もほんの少し、違う方向へ目を向ける事ができるのではないだろうかと思う昨今。
posted by 岩ちゃん at 12:40| 東京 🌁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

地域移行を実現するために移動支援を使わせて!!

昨今、精神科病院から「地域移行支援事業に協力して欲しい」という依頼が増えている。
過去、強制的に入院させられた当事者に面会に行くと、出入り禁止にされた事がしばしばあったので、
病院からの依頼は隔世の感がある。

とは言え私は、精神病や精神障害と言うものに詳しくない。
又、精神障害の当事者に対する支援の専門性も持ち合わせていない。
でも、
目の前に存在する人たちと付き合い続け、
当事者たちの自らの暮らしや想いや願いに耳を傾け、
お互いがこの社会の中でごくごくあたりまえに暮らせない現実を課題とし、
課題解決のために様々な取り組みを、
ひたすら積み重ねてきただけ。

そんな経験によって、
少なくとも精神科病院や精神障害の当事者達への偏見は少ないと思う。
それ故に専門的見地よりも、目の前に現れる「その人」といかにやり取りするかという点では長けているとは思う。

昨今社会的入院を強いられている人たちを地域に戻す動きがある面進んでいる。
地域移行支援事業というものが生まれ、
福祉計画においても地域移行者数を計画に盛り込んでいる。

しかし、
その動きを見ていると、私のような素人が入り込むような隙はない。
PSナンチャラにOTとかPTとか何の事だか聞いてもすぐに忘れるような肩書の人たちが、
寄ってたかって「地域移行を実現するために」と喧々諤々とやっている。
その果ては、病院内にGHを立てたり、病棟をGHにして地域移行を果たしたという数値だけをたたき出す動きもある。

「精神病」という何らかの「病」はあるのかもしれない。
「病」に対する「治療」は、医師や病院の範囲かもしれない。
でも、
そういう「病」をもって暮らしているのは「その人自身」であり、
「その人自身」は、「その人だけ」で暮らすわけではない。
「専門性に囲まれて暮らす」というわけでもない。

「地域移行」という「地域」には様々な人がいて様々な場があって、様々な人の関わりの中で暮らすという事になる。

でも、
様々な人や場は、「精神障害者」とであった事がない人がほとんど。
出会ったとしても、身内だけで、その身内で抱え込まなければならない社会の状況下で、辛く大変な想いしか抱けない人が多いように思う。

だから今、
「地域移行」を実現するには、地域移行支援事業者が懸命に病院以外の場を探す事に努めている。
そしてその場というのは、通過型GHであったり、訪問看護事業所であったり、精神障害に詳しい居宅介護事業所や精神障碍者を対象とした日中活動の場になってしまう。
しかも、とことん当事者本人と付き合い本人の意向を聞きだし、本人の意向に沿った暮らしをともに構築していくなんて余裕はない。
一方当事者の方も、「退院できる」となれば懸命に病院内にいる人たちの願いに応えようとする。
閉ざされた空間の中であっても、「できるようになる」「やってはいけない事はやらなくなる」事にエネルギーを注ぐ。
紹介された場や紹介された人を拒否すれば、次はないから懸命に相手に合わせることになる。

そして、
相手に合わせられるようになれば「退院」=「地域移行達成」となるのだが、
相手に合わせた暮らしばかりを強いられていては、当事者自らの暮らしは成り立たない。
辛くなって再び入院すれば、「時期尚早」とみられ次の挑戦まで再び長い入院生活を強いられる。
本人も自身を失くす。

そんな事あれこれ思っていたら、
「入院中の重度訪問介護並びに行動援護の利用を認める」という厚労省の通達が届いた。

「これは画期的な事だ!」と一瞬喜んだのだが・・・

長年重度身体当事者たちによって築かれてきた重度訪問介護は、「常時介護を必要とする重度身体障害者」となっている。
これが2014年から重度の「知的障害」や「精神障害」のもので常時介護を必要とする者にも認められた。
なので、これを活用すればと思うところだが・・・

重度の知的や精神当事者に対象が広がったのではなく、「行動障害を有し」「常時介護を必要とする者」に対象が広がっただけ。
我が市では、これまで家事援助や身体介護や移動支援といったものを組み合わせ一人暮らしをしてきた人たちにとっては、ありがたい対象拡大なのだが、
これが精神科病院に入院中の人の場合はどうだろうか?

「行動障害を有する者」に対し医師は退院に向けたやり取りを始めるだろうか?
決して退院させないだろう。
今「地域移行」と称し退院を目指す人たちは、症状が安定していて、服薬管理もある程度できて、コミュニケーションもそこそことれて、意思がはっきりしている人たち。
そういう言う人たちには、重度訪問介護や行動援護は支給決定されない。

結局は、
話は戻って、相談支援員が移行先を見つけてきた所に何はともあれ当事者が了承していくしか地域移行は実現できない。
意識ある相談支援員も、一人にかかりっきりにはなれないのでそうせざるを得ない。

で、
ここでぜひとも実現して欲しいのが、
「入院中から移動支援を使えるようにする」という事。

入院中から移動支援が使えるようになれば、
移動支援を使えば、
・外の世界に触れる事ができる。⇒モチベーションが高まる
・自らが求める場を探しに行ける。⇒自分で実際みてから決められる
・移動支援を使い様々な体験ができる⇒長期入院による浦島太郎からの脱出
病院内にいる間にあれこれシュミレーションしても実際の暮らしと違う場合が多い。
シュミレーションと実際とが違っても、退院してしまうとあれもこれも一度に解決しなければ暮らしが廻っていかない。
入院中にヘルパーと街を歩き、様々なプレイバックをする事で、いきなりの大混乱を避けられるのは単純に考えても解る話。
日中活動の場も実際に何度か体験してみて気に入れば決めれば良いし、気に入らなければ他の場所を探せばよい。
生活に必要なものをヘルパーと一緒に準備する事もできるだろうから、退院後いきなりあれもこれもしなければならないという事が避けられる。

そんな事を当事者の側に立って考えると有効に思えてくる。

でも、それ以上に有効に思うのは、
受け入れる側が本人と緩やかに出あえるという事。
数回面会しただけで、受け入れの可否を考えなければならない状況。
本人の混乱状態に懸命につきあえれば良いけど、ある面完璧な当事者であるなら受け入れても良いと考える場は多い。
そして、いざ退院した後大混乱の下失敗すれば、次の受け入れに躊躇するのは必至。

「何度でもやり取りして、お互いを知った上で決めてもらって構わない」となれば、かなり受け入れのハードルが下がる。
又、何度もやり取りすれば初対面や言葉の上だけでは見えないものも見える。
又、退院前から信頼関係を築いておけば、退院後はいろいろ課題はあっても一緒に解決を図れる。
今の状況は、信頼関係よりも専門性ばかりが目につき、当事者の行動や思考を分析して対処するような状況。
移動支援を使い「習うより慣れろ」的な関係が築けたなら、実はなんてことないやり取りが始まる。

という点から見れば、
実は当事者本人よりも受け入れる側が移動支援を利用する事で受け入れが容易になるように思う。

そして、
移動支援の事業所は・・・
精神科病院で暮らす様々な当事者に出会う機会が生まれる。
いざとなれば、病院にお任せもできる安心感の中で当事者たちと出会える。
出会ってみればなんてことない人の方が多いけど、
閉鎖病棟の中まで入り込む機会はそうそうない故に、様々な偏見や憶測の方が膨らんでいる。
それを払しょくするには「習うより慣れろ」なんだと思う。
そして、
一人暮らしを始めたりすれば、そこに居宅介護のヘルパーも派遣できる。
いきなり「派遣してもらえますか?」と相談支援員に依頼されるよりも、
入院中からやり取りしていれば「その人ならば大丈夫」という事もあると思う。

普段地域で暮らす障害当事者たちとやり取りしていると、
移動支援は、当事者と社会をつなぐ役割だと思う。
単に当事者の余暇につきあうだけでなく、
そこで出会う人たちとのつながりを求めていく事で互いの世界を拡げていく仕事だと思えてくる。

それを、精神科病院で暮らす人たちにあてはめて見れば、
正に、病院と社会をつなぐ役割を果たすのが移動支援なんだろうと思えてくる。

という事で、
移動支援が入院中から認められたなら、
いろんな可能性が拡がる。

それは、行政においてもしかり。
いきなり見知らぬ人(紙ベースでしか知らない人)を支援するのはとても大変な事で時間とお金がかかる。
でも安心感をもってやり取りできるなら、さほど多くの時間とお金は必要なくなる。
万が一失敗したら、それをカバーするための費用は極端に膨らむ。
出も徐々に社会に出てくる状況があれば、失敗のリスクは下がり、
その事によって支援を必要としない部分も増えるだろう。

という事で、
地域移行を実現するために移動支援を使わせて!
と、声を大きくしたい!!
posted by 岩ちゃん at 17:55| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月09日

無くて七癖有って四十八癖

【意味】人は誰しも多かれ少なかれ癖があるということ。

癖というものは、自分ではなかなか気づかない。
人に言われて気づくことが多い。
それが人に評価される癖ならうれしいけど、
恥ずかしい癖だったり、周囲に嫌われる癖を指摘されると、
懸命に修正を図ったりする。でも、身についた癖はなかなか取れずに悩んだりする。

そんな「癖」というか自分では気づかない振る舞いについて。

自閉症の人は、事細かな点に気づくと言われている。
ならば、支援者や介助者の事細かな「癖」にも気づいていると想像する。
そして、支援者や介助者自身は気づかないままに当事者と向き合っている。
そのため、
何となく上手くいく人となんとも上手くいかない人の違いが、
実は支援者や介助者の側には気づかない振る舞いに当事者の側のみが気づき、それをみて当事者が判断しているのかもしれないと描いてみた。

でも、
自分の癖ってなかなか解らないので、
他の支援者や介助者が当事者とやり取りしている姿を見て、
自分が当事者とのやり取りしている時と比べてみる。
すると、ちょっとした違いが当事者にとって判り易かったり、判り難かったりする事に気づく機会もあるかもしれない。
posted by 岩ちゃん at 11:38| 東京 ☀| Comment(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

「忘れないではなく、思い起こせる関係を」

あれから1年。

月日が経つのが早すぎる。
何も整理できないまま、何も語れないまま1年が過ぎた。

「あの悲惨な事件を忘れない」と声をあげる人たち。
私の中では、そういう声をあげる人たちの多くが過去にあった出来事を忘れていく状況を何度も見てきた。
人は、なにがしかを忘れないと生きていけない。
何も解決されないままに。
何も整理されないままに。
忘れ去られた事件というのは数多くある。

マスコミが取り上げる事件以外にも、同様の事件は数多く存在する。
「一人一人の尊厳」というならば、19人も1人も変わりはない。
私自身が置かれている状況下では、同様の事件が数多く入ってくる。

当該の人々には申し訳ないが、
その一つ一つを「忘れずにいられる」かと言えば「絶対に無理」と思う。

ただ、「思い出す」事はできる。
そして、ふと思い出した時に「あのことで・・・」と問い合わせる事ができる人とつながりは続けている。

そして、この「思い出す」という状態が生まれるのは、同様の事が我が身の日常にあるから。
我が身の日常で起こった事を解決するために、様々な人からヒントをもらう。
ヒントをもらうために懸命になる。
そんな時「そう言えば、あの人がこれと同様の事に関わっていたなぁ」と思いだし、
我が身の日常で起こった事の解決に向け、何をどのような形で問い合わせれば良いかと考えれば、
自ずと過去の出来事が思い起こされる。

「決して忘れない」などと私には言えない。
過去、たくさんの事を忘れてきたから。

でも・・・。
思い起こす事はできる。
思い起こす必然はたくさんある。

必然がたくさんあるというのは良いことではなく、
それだけ数々の同様の場面があり、
わが身の周辺にも同様の場面が現れると状況。

そんな状況は改善したいと願い日々を暮しているわけだから、
思い起こす必然がたくさんあるという事は、決して良いことではないだろう。

「忘れない」ではなく「思い起こせる」という事

今の今1年前の件で多くの方々が関わっている。
様々な立場からの言説が流れてくる。
言葉にならない事や言葉と言葉の間にある様々な想いがそこにあると思う。
私自身は、その一つ一つを丁寧に読み取り/聞き取り、この件で自らの想いや願いを展開するだけの力量はない。

だからと言って、取り組んでいる人たちと私とが遠く離れた人とは思わない。

私は私で、
ただただ、同様に起こっているわが身の周辺の事柄と向き合うしかないと思っている。
願わくば身近にある入所施設から当事者を地域に取り戻したいと思う。
それさえ叶わない我が身の力量。
せめて、入所施設や社会的入院に至らないと願う。
長年思い描き取り組みを積み重ねているが、それさえも確実なものにできずにいる。

地域に取り戻すというよりも地域から奪われないという取り組み。
そんなささやかな取り組みしかできない私にしてみれば、
全国ネットで流れる大きな出来事に対し向き合うことは、遠い彼方の事のように思う。

でも、
つながりのつながりのそのまたつながりの中で、懸命に取り組んでいる人たちがいてくれる事の幸い。
そういう人たちがいるからこそ、わが身の日常の中にある課題に取り組む事ができる。

ただ、辛いと思うのは「今!結集を」的な呼びかけに応えなければなにも取り組んでいない事にされてしまう呼びかけ。

まったくもって無関心な人がいるので、そのような形で呼びかけなければならない心情は解る。
でも、私と同様に小さな世界の小さな事柄を大事にしている人たちの取り組みがいる。
「結集」ではなく「つながり」を求め、互いの課題を認め合わなければ、いずれ大きな出来事は忘れ去られ、思い起こし次に活かす事さえなくなるように思う。

私にとって大切なのは、この大きな出来事を「忘れない」ではなく、
思い出される日常の必然と、
自らの課題解決のためにやり取りできる関係。

そんな事を加速する日常の流れの早さの中で思う。
posted by 岩ちゃん at 11:07| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

行動障害の原因は?

ガラスを割る。
壁を壊す。
人を殴る。
人に向かって突進する。
人の物を奪う。
大声で叫ぶ。
大暴れする。
等々。

いわゆる「行動障害」と評される障害当事者たちの行動や表現。

その原因をあれこれ探る。
目の前で起こる事柄に原因がある場合もあるが、
その後の事が気になって起こす事もある。
前に会った出来事を思い出しての事もある。

原因(理由)に対する行動であれば、
なかなか見えない原因(理由)であっても、やり取りを重ねる事で見えてくるものもある。

しかし・・・
積もり積もった事柄の中で起こっている事であれば、その原因(理由)はなかなか解らない。

コップに入った水に喩えてみる。
コップを本人の安心感。
水を本人にとってのストレス。

コップに水が半分も入っていなければ余裕で運べる。
コップに八分目ほど水が入っていたなら、ちょっと慎重に運ばないとこぼれる。
コップに摺り切り一杯の水が入っていたら、「お口でお迎え」しなければコップを動かす事ができない。

さらに、
水の表面張力によってさらにもう一サジ水を入れて大盛りの水が入ったコップ状態。
そこに、スポイトでほんの1滴水を足した途端に、たくさんの水がこぼれだす。

このこぼれる状態が「行動障害」と評されるものであったとしたら・・・

最後のスポイト1滴の水さえなければ「行動障害」と評される行動や表現にはならなかったあろう。
そもそも、ストレスとなる事柄が八分目や半分以下になっていたら、スポイトの1滴なんて全く気にも留めない。

私たちは、こぼれそうでもこぼれないコップの水に対し、慎重に扱い対処する。
でも、一旦こぼれてしまうと大騒ぎ。
もしかしたら、又こぼすのではないかとやり取りさせてもらえないかも。

原因(理由)が最後の1滴にあると思っていると、
「この1滴がなければ」となる。
でも、それも一つの原因(理由)かもしれないが、それ以上にたまりにたまった水(ストレス)の方を、ごっそり取り除けばだいじょうぶという事もあると思う。

コップを当事者の許容量。
水をストレスの量として見た時、
最後の1滴のストレスにのみ目を奪われる事なく、
当事者自身がため込んでいるストレスに対し、
本人自身で収められるようなやり取りに心掛けたいと思う。

posted by 岩ちゃん at 15:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

連続性の中での自己決定

以前、彼女と2泊3日の旅行に出かけた時のこと。
海辺の民宿で格安の宿。
格安故にあまり料理には期待を持っていなかったけど、宿屋の主人は漁師さんで自分の船も所有しているので、
その日に取れた地魚で料理を作ってくれるとのこと。
1日目の夕食。
それはそれは豪勢なメニュー。
刺し身に焼き魚に天ぷらに煮付け等々。
地の魚をふんだんに使った料理の数々。
「この値段で、この料理」「追加料金を取られるのでは?」と心配するほどの魚料理に大満足した。
2日目の朝食。
大きな干物と魚の内蔵で作った見知らぬ料理等々。
これまた、朝から何杯もご飯をおかわりするほど豪勢な料理に大満足。
2日目の昼食。
朝からたくさん食べたのでちょっと控えめに、
でも漁師町故に、変わった名前の料理名が目に入り昼も魚系料理を食べる。
2日目の夕食。
昨夜とはちょっとメニューは変わったけど、基本魚料理。
魚料理は大好きなのでこれまた大満足。
3日目の朝食もしかり。
そして、3日目の昼食はこの場を去ることを惜しみ、
普段食することのない魚料理を求めウロウロ。
魚で作ったファーストフードを食す。

大満足の3日間。
そして、帰路についた時、家に帰ってから夕食を作るのも億劫だからと、
旅の最後の外食先を探しつつ車を走らせた。

彼女と「何食べようか?」と相談しながら車を走らせる。
そして、入ったお店は・・・
「焼肉屋」

3日で6食魚料理。
魚料理は好きだし、変わった魚料理も食べることができて大満足。
そもそも、それがお目当てで海辺の宿を選んだし、
格安でこれほどまで魚を堪能できたので言うことは何もない。

でも、
6食も十分なほどに魚料理が続けばさすがに飽きる。
決して魚料理が嫌いになったわけではない。
(逆に新たなメニューが加わり、自宅でどう再現するかと言う話も盛り上がる)
なので、単に魚料理が続いたから飽きただけ。
魚料理よりも肉料理の方が好きということでもなく、
どちらも好きなんだけど、
魚料理が続けば、次は肉料理と言う感じ。

「自己選択」「自己実現」を十分に果たせた旅行で、
自らが選択したことに間違いはない。

でも、
たとえ大好きなことでも、それが続けば飽きる。
そればかりだと嫌になるかもしれない。

重度知的当事者たちの自己選択・自己決定・自己実現の支援を担う時、
そもそも本人たちの想いがどこにあるかが解らないので、その解明から懸命に担う。
本当のところは判らないけど、日々やり取りしていると本人の好みがなんとなく解ってくるし、
本人の要望と思って取り組んできたことが、
実はそもそも違っていたという事を実現した後に気づくということもある。

なので、ひとたび確信めいた本人の思いを知るとその実現に向けて懸命に支援を担うということもある。

でも、
そればっかりだと「本人は飽きる」ということだってあるだろう。
「単に続いたから飽きただけ」なのに、「飽きた」状態を見て飽きたことを「本人はそもそも望んでいない」と周囲が認識すると、再び欲しても誰も支援しないということが起こってしまう。

「自己選択・自己決定・自己実現の支援」と言うも、
その中身については、まだまだ何も解っていない支援の側にいる私。
という事を、ふと思い描いた。
posted by 岩ちゃん at 12:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする