2012年05月25日

次長課長の河本氏会見に思う

今朝、やたらと重力がきつく昼近くまで寝ていた私。
何気にテレビをつけると、お笑いタレントの河本準一氏の会見をやっていた。

NHK NEWSWEBによれば
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120525/k10015368971000.html

「人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一さんが、一定の収入があるにもかかわらず、母親が生活保護を受けていると批判されたことについて、河本さんが25日、記者会見を開き、「甘い考えだったと深く反省している」と謝罪したうえで、母親が受け取っていた生活保護費の一部を返金する考えを明らかにしました。」とまとめられすぐさま発信されていた。

そして、ここに至った原因として
「この問題は、テレビや舞台などで活躍する河本準一さんが一定の収入があるにもかかわらず、母親が生活保護を受けていると、先月、週刊誌で報じられ、批判されていたものです。」
と書かれてあった。

会見終了後のワイドショーでは、河本氏の話に留まらず生活保護制度にまつわる話へと発展した。
私がツイッターでつぶやいたことに反応し返信を寄せてくれた方々も、同様に生活保護制度にまつわる話へと発展。

私自身も生活保護制度についていろいろ思い巡らす事はあるが、
起き抜けにまず驚いたことはその事ではない。
又、これから書こうとしている事も一義的にそこが問題と言うのではない。
ただ、当然ながら問題にしなければならない事もあるので、それはまたの機会にする。

それで、何に驚いたかと言えば、
「子どもの親に対する扶養義務」と言う点。

今回は河本氏の方に収入があると言う事で「子どもの親に対する」と言う図式になっているが、
ようするに三親等の親族による扶養義務について、その義務を果たしていなかった有名人を糾弾すると言う会見になっている点が、はたしてそれで良いのか?こんな記者会見が許されるのか?と憤りを覚えている。

「収入があるのに親の面倒を見ていない」と言う周囲の目。

これを逆に障がい当事者の親たちが河本氏の立場にいたとしたら、彼が涙目で語る言葉は世の「障害者の親たち」が自分の至らなさや甘さを世にさらしていると言う事になる。

昔、障がい当事者の自立生活にあたり生活保護申請に同行した時、
「なぜ、生保を使って自立生活をするのか?」
「施設ではだめなのか?」
「生活保護は税金だから、そんな勝手を言わせない」
↑(入所施設も税金なんですがね〜)
「親の援助を受けられないのか?」等々
聞かれ、その一つ一つに反論し申請を受理させてきた。

しかし、申請を受理した後に出てくる言葉が、
「受理はします。決定に際しては扶養調査をします」
「扶養できる親族がいる場合には認められませんから」と言う。
すなわち、親に対し本人が生活保護を利用しないように親の側から説得させる風に仕向けようとする。

親はたまったもんではない。
「生活保護は身内の恥」とまで言われる日本の社会。(この点について週刊誌で河本氏が「貰わな損」と言ったのは、親が生活保護を受給している状況をそうでも言わなければ辛くなる状況にあると私は理解していて、決して「不正受給」と言うものではないと思ている)
親は子どもの自立を願ってもそれがかなわぬ今日の社会。
親が生きている間は親が財政的に支えられても、親が亡くなった後はどうするのかと言う不安。
その不安をなんとかしようと選択する施設入所。
それが、せめて生活費の面で生活保護を受給し暮らしを成り立たせていこうとする当事者に対し、親に調査と称し先の事を同様に聞かれたら「私が面倒を見ます」と言わざるを得なくなる。
でも実際には面倒が見れない中で、親は施設から出る事を拒否する。

生活保護を申請するために、親とけんかし「縁を切る」とまで言わなければ、又親にも言わせなければ生活保護を受給する事ができなかったと言う時代がある。

個人の生活権としての生活保護を「扶養義務」と言うもので縛り生保を取らせない事を、過去行政は何度も繰り返してきた。

親は親として、子どもは子どもとして、お互い成人したものとしてそれぞれがそれぞれの生活を成り立たせていく事。
誰かがいなければ誰かの生活が成り立たないと言うものではなく、
「自らに拠って立った生活つ」と言う「自立生活」を実現するために、
長年障がい当事者たちは戦ってきた。

そして、私の周囲にいる人たちは重度知的当事者と呼ばれ、彼らは自らが自らの想いを発する事ができず、
先の行政職員の問いに加え、「本当に本人はそれを望んでいるのか?施設で暮らす方が本人にとって良いのではないか」と言われる。

本人の意思は本人が語らなければ私にだって本当の事は解らないので揺れ動く。
しかし、すでに保障されている事柄その保障を勝ち取ってきた上にあるはずの生活保護が、再び「親族によって扶養するのが当然」と言う流れになってしまっては、重度知的当事者の地域の中で自立生活をすると言う事はできない。

折りしも国は、地域移行とか退院促進とか言っている。
前々からなんで突然国はそういう事を言い始めたのかと言う点に、
入所施設を国で保障するよりも、ヘルパーやグループホームを民間に任せる事で安くなると言う事で言い始めたと私は思っている。
そして今回の報道。

介助/支援にかかる費用を安く上げようとするだけでなく、
その人の生活費さえも国は支給せず、親族に払わせようとしているように思う。

当然、それはおかしいからと、再び施設入所を求める動きが生まれてくるように感じる。

私は、私の周りにいる障がい当事者の事とその支援の事を思いこのブログを書いている。

でも、ホームレスや寄場の日雇い労働の人たちとのつながりもある中で、今回の報道は彼らのこれからの生活を奪っていく話でもあると思っている。

いろいろ書きたい事は山とある。
生活保護制度の実際を知らない人たちが単にその金額だけに注目し、嘘や誤解を積み重ね、それに対し国は何も動かない。
そもそも超プライベートな生活保護受給に関し国家議員が名指しで取り上げるなんて「法令」違反だと思う。
そして、記者たちが「他の親族も受給していたようですが、それは誰でその人たちの分の返還も行うのですか?」等と聞く事自体生活保護制度の事やそれを取り巻く状況をまったく理解していない事に腹が立つ。

いろいろと書きたい事は山とあるが、
とにもかくにも、
「親族による扶養」と言うものが巻き起こす様々な問題が今回の会見には含まれており、
会見するような話ではないのに、応える必要のない事なのに、無節操な質問に対し河本氏が応えている姿にいたたまれなくなった。

「生活保護制度のありよう」と言う議論は必要なんだろうけど、
その前に、
「親族による扶養」と言うものがいったい何を引き起こすのか?
その事によって、個々人の生が閉ざされている事に目を向けなければならないと思った。

と言う事で、
障害者団体やホームレス支援や寄場労働者を支援する人たちや弁護士等々の皆さんへ
ぜひ今回の取り上げられ方に関し、声明等を出して欲しいと思います!!
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posted by 岩ちゃん at 16:17 | 東京 雨 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月18日

140字では表現できないのでブログに書いてみた

何日か前にtakonokibotから流れてきたつぶやきは、

「家族のレスパイトのために使うショートステイ。麻薬を使うのに等しくその時は楽になる。それ故根本的な状況を解決しなければ、常習化すなわち施設入所するしかなくなる。
#takonoki

と言うもの。

その後、このつぶやきをめぐりtakonokibotのRTが幾度となく流れてきた。

断片的に流れてくるつぶやきに「なるほど」と思う事もあれば「???」と言う事もあれば「そうでないだろう」と思う事もある。
でもつぶやく人たちの背景が何となくしかわからないので、すべてのつぶやきに「なるほど〜」と読んでいる私。

ただ、私はこの言葉にはいろんな事が含まれていると思うので私なりに考えてみたい。

私は支援者と言う立場から常々考え、自らの想いを展開している。
この言葉に一番共感できるのは、
私自身の不十分さ故と言う前提はあるものの、私たちに委ねるよりも施設のショートステイを選び、その先入所施設へといった人たちがいて、これまで積み重ねてきた当事者との関係を一気に奪われてしまう現実があったと言う事。
又、行政職員が「いづれ施設に入るんだから今の内にショートステイに慣らしておく方が本人にとっても施設にとっても良い」と言う言葉を何度も聞いて、「その手前にある支援を抜きにそんな発言は許さない」と何度も激怒したことがある。
又、一方でショートステイを活用し生まれた余裕をその次に活かしていく人たちもいる。
休日はショートステイを使いつつ、今日に至っては自立生活を実現した重度知的当事者もいる。
又、精神の当事者の中には、日々廻る暮らしの中で収拾がつかなくなり、「休ませてほしい」とたこの木に相談してかぼちゃ畑で2〜3日泊まって休み再び我が家に帰ると言う人もいる。
なので、ショートステイが一概に悪いとは思えない。

流れてくるつぶやきを見ると、
どうも本人抜きの話が多いように思う。
本人がその選択をどのように考えているのか?といつも私は考える。
自己表現をしても違った捉え方をされてしまう人たち。
周囲が与えたものがすべてとなってしまう人たちを思うとどこかそれで良いのか?と考えてしまう。
(考えたからと言って私は当事者でないので実際の想いは解らないけど)

流れてくるつぶやきの中で、たぶん違うだろうなぁ〜と言うか私には解らない事が一つ。
高齢者に対するショートステイと障害者に対するショートステイとは分けて考える必要があると思う。
長年様々な経験を積んできた方たちがその「余生」でどう過ごすかと言う話と家族介護中心で家族にのみその負担を負わせてしまっている状況の中で、ショートステイや入所施設と言う選択はあるかと思う。
一方、経験を奪われ出会う人も限られている当事者たちがいて、そのような状況を必死に変えていこうとする当事者がいて長年の運動として取り組み、又支援者たちの中でも、家族にのみ介護の負担を負わせるのではなく「当事者に対する支援」を懸命に生み出そうとしている事とを一旦分ける必要があると思う。

又、「入所施設がなぜ悪いの?」
と言うつぶやきについても、それをつぶやく人の背景はある事を承知の上で、
私の立場から「入所施設もあり」とは言えない。
それを言ってしまいたくなるような日々は常にあるが、言えてしまうと言う事はすなわち、私の許容範囲でしか当事者の「支援」を担わないと宣言する事に等しいので、それも違うと言わざるを得ない。
(ようするに、入所施設の是非ではなく入所施設に追いやる私の側の問題として常にとらえている)

それで思うに、
まず「麻薬」と言う表現が「犯罪者」というレッテル貼りと受け止められている事に何となく違和感を感じる。

モルヒネ等超劇薬は医療の現場で医師の管理のものと使われている。
ガン末期患者に対し痛みと戦う事ではなく、痛みを和らげ終末期をいかに過ごすかにかける事はとても大切な事だと思う。
すなわち、ショートステイを「麻薬」にたとえることは、その目的を明確にしなければならないし、やたら使うものではないし、逆に使う事で次をいかに生み出すかが大事で、「麻薬」=「犯罪者」と言う話になるのはどうも違うような気がする。

そして、
「麻薬」=「犯罪者」と結び付けられる度に、
薬物依存症となってしまった人たちの事を思い巡らす。
私の周りにもそういう人たちが何人かいる。
彼らの話を聞けば、一時期薬物を使い依存症となったことで想う様々な気持ちに触れる。
取り戻せない後悔と再び手にしてしまってはすべてを崩してしまう恐怖。
それでもなお一日一日を積み重ねる中で「回復」すなわち自らを取り戻す事に懸命になっている人たちがいる。
「さんない運動」といった形で薬物を人々から遠ざけるために、犯罪行為として強調される事が、
依存症であることに気づきその自分と付き合う人たちを「犯罪者」「元犯罪者」として追い込んでしまう状況が今日の社会にたくさんある。
そんな想いを知ると「麻薬」=「犯罪者」と読み取ってしまう人たちとも私は違うと思う。

よって、
私としては医療としての麻薬については、その取扱いに十分気をつけなければならないし、
使ってしまった事を責めるよりも、根本的な課題の解決がなくてはならないと思っている。
と、このつぶやきは言っていると思う。

さらに、依存症の人たちと付き合う中で、「薬物の使用をやめる」「薬物がやめられないからダメな人」と言う単純な話ではなく、もっと根本的な問題、「薬物」を使わざる負えない状況を何とかしなければならないと思う。しかし、それは本人でない私にとってはまず第一義として支援者自身の課題であると思っている。その中で本人も又「回復」と言うものを日々積み重ねているのだろうと考える。
そう考えないと、アルコール依存症の人の場合、お酒を飲んでいるとダメで呑まなきゃいい人になってしまい、根本的な問題は呑まなきゃやれない私たちの側の問題にいきつかない。

takonokibotの本来の意味は、
もしかしたらショートステイを選択する親を責めているのかもしれない。
支援者の考え方が絶対正しいと思っているかもしれない。
つぶやきを見ているとこのつぶやきによって傷づつけられた人がいるようだ。

私も、時に親たちを傷つける発言をして修復不可能な事をしでかす場合もある。
でも、私も親たちによって当事者との関係を奪われつらい想いを何度となくしてきた。

支援者と親との関係の多くは、支援者の方が強いと言う場面が多い。
支援者に逆らってしまっては自らも又子ども達もその先を奪われてしまう故に決して逆らえない存在だったりする。
でも一方で、「究極の親のレスパイトは自立生活でしょ」等と言って、自立生活への取り組み始め、親が抱く不安の一つ一つに懸命に応えていっても、親が描く通りのものでなければ、親に認められる支援でなければ、すぐにでも信頼を失いある日突然施設に入れてしまう。
そう言う事が日々の中にあると、自立生活の支援を担う人たちは親の指示に従い当事者の介助に努め、いつ施設に入れられるのか?にびくびくしながら介助にあたっていたりする。
私は「当事者の支援を」とどれだけ言っても
現場を担う介助者たちは、現れる親を前に本当に本人の支援なのか親の支援なのかで悩む。

このつぶやきがこれほどまでにRTされるのは、
支援者の立場と親の立場。
本音と現実。
とかの境界線上に現れる言葉だからだと思う。

この言葉に対し何を考えるかによって自らの立場が明らかになり、願いと現実が引き裂かれる事になるの様な気がする。
それは、親は言うまでもない事だろう。

しかし支援者の立場にある私たちは同様に思い描くだろうか?
現実使わざるを得ない事はあったとしても、その先をどのように取り組むのか?
親が子どもを施設に入れてしまった時、支援者は親を責める。
でも、それは時間の経過とともに収まるのは、施設に入れてしまった責任を全部親におっかぶせているからではないだろうか?(すべての支援者がそうだとは思いませんが)自分たちに委ねてもらえなかった支援者の側の不十分さを考え続けていないからだと思う。
親と言う立場にいる人たちとショートステイの問題と言うよりも、支援者たちとショートステイの関係を深く考える必要があるように思う。

いろいろつぶやかれているが、その一人一人の状況がどういう状況に置かれているか私にわからない。
解っているともいえない。
でも、
私は支援者の立場として、ショートステイを勧める事はしない。
なぜならそれは自らの限界を親や本人に押し付けるものになるからであって、ショートステイを使わなくても地域の中であたりまえに生きられる状況を生み出さなければならないと思っているから。

でも、それは一足飛びに実現するわけではなく、
その過程の中で、ショートステイを選択するしかないと言う親に思わせてしまう自分たちの至らなさとして捉える。
私もすべての当事者たちとやり取りできているわけではなく、私の知らないところで私が出会った人たち以上の困難な状況にある人たちがいると思う。
だから一般論で語るつもりはない。
私の周囲にもショートステイを選択する親たちはいる。
でも、私自身のふがいなさをわびつつ、どうしたらショートステイではない方法が取れるかをやり取りする。
(やり取りさせてもらえない人たちの方がたくさんいるのだが)

事実最近増えてきた様々な相談のすべてに対応できない私がいる。

なので、親たちがショートステイを選択したそして施設に入れたと言う話ではなく、
そうなってしまう状況を私たちがいかにしていくのか?

「ショートステイも仕方がないよ」と支援者たちがするのはおかしいと思う。
又、自分たちの不十分さを棚に上げ、さも親たちが選択したかのように語り、その親を擁護するようなつぶやきにも違和感を抱く。

takonokibotが支援者としてのつぶやきであり、支援者の側の課題としてつぶやいているとするなら、
この言葉も親たちの事ではなく、そうさせてしまっている支援者の側の問題として捉える必要があると思う。

そして、私自身も私の現場の中で「楽」になりたいと言う想いを常に持つつ、それを親の責任に転嫁することなく支援者の側の不十分さとしてこのつぶやきを読んだ。

そして、このつぶやきをめぐりこれほどまでRTされることは、
それだけ当事者本人を介し、親も支援者もと言いつつ、両者の間にはまだまだ解消されていない事柄があるのだろうと思った。


その辺りでどうなんだろうか?





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posted by 岩ちゃん at 14:56 | 東京 曇り | Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月14日

「インクルーシブ」って?

最近、「インクルーシブ」という言葉に引っ掛かりを覚えつつ、いろいろ考えている私。
なぜかと言えば、
来月依頼されている講演で、幼稚園に子どもを通わせる親たちを対象に「インクルーシブをテーマに語って欲しい」と言う依頼があったから。

たこの木が誕生して今年で25年を迎える。
最初の10年は、子ども達にまつわる活動を担ってきたので、「共に学び・共に育つ」と言う課題は、今日のたこの木を支える大きな経験でもあり、そこから多くの事を学んできた。

なので、古い友人からの依頼にちょっと遠出する余裕はないけど、改めて考える良き機会と思って引き受けた。

そして、引き受けた後に「しまった〜!」と。

当時「インクルーシブ」なんて言葉はなかったし、今も普段まったく使っていない言葉で、まずは辞書を引いてその言葉の意味を考えるところから始めなければならないと言う自分の状況に気づいた。

あれこれ考えている時に、ツイッターで流れてきたつぶやき、
『「インクルーシブ」では「障がい者」は「包含される」側なのか。健常者社会/文明への順応と、「〜される」側であるという点で同じ。「健常者」への同化は目指されないにしても「障がい者」役割か?「共に生きる」はそれとは異なる気もするが』(@fujiwara_ryota)

私が子ども達を取り巻く課題を日常的に担っていた時に使っていた言葉は、「ともに」
そして今は、「インクルーシブ」

「ともに」=「インクルーシブ」と言えるのかどうか?
その引っ掛かりを持っていたのですが、

@fujiwara_ryotaさんのつぶやきにあるように、
「インクルーシブ」と言う言葉が、「障害者は包含される側」で「私たちは包含する側」となっているなら、私が長年想い描いてきた事とはまるで別のものになってしまうと思ったのです。

私に言わせれば
「ともに」=「ごちゃ混ぜ」で、
「すでにあるもの」で、
「ともに」の課題は「ともにない」事への訴えでしかなかったのです。

それが、
今や行政が作る福祉計画にも「インクルーシブ社会をめざして」と載っかっている。

おいおい、
そもそも「障害者を排除してきたのはお前たちだろう!」「その総括もせずに、よくそんなことが言えたもんだ!」と怒ってしまうわけです。

私が求めてきたのは、
「ともに生きる関係」そしてそれは、「ともに生きていない/ともに生きる事が許されない」社会に対して訴える言葉として、又自らがそのような社会を生み出し支えている事を変えていくために使っていた「ともに生きる」と言う言葉だったように思います。

「ともに」にも「誰と誰が?」と言う疑問は常にあります。
ただ、「誰」と「誰」の存在がどこか対等である事を常に求めてきたし、常に交換可能な関係であったように思います。
お互いが存在する事だけは奪われないよう必死になり、その中身のたくさんの不十分さは、その次で挽回する事を願ってきました。

しかし今日、制度がある程度進む中で、
対等になろうとするために「制度を利用する側」と「制度を担う側とに明確に分けられ、そして交換できない固定された関係が生まれ、
その中で「インクルーシブ」と言うカタカナ文字が幅を利かせ始めている。

「インクルーシブ」と言う言葉を使う時、その言葉を使わなければならない現状を抜きに語られることに対する引っ掛かりが私の中にあったと気づいたわけです。

現状、「ともに生きる」と言う言葉は使い古され、「インクルーシブ」と言う言葉が変わって登場してきて、周囲に何かを伝えようとする時、同じ言葉を使って伝えていく必要ってあると思います。
でも、言葉だけが独り歩きしないよう自らの自戒も込めここにメモっておこうと思います。

そして、
依頼された講演のタイトルは、
「インクルーシブの先にあるもの」にしようかと。

「ともに生きる」事にこだわり続け今日まで活動し続けてきたたこの木が今何を生み出し担っているか?
そこから「先にあるもの」についてあれこれ語ってみたいと思います。
そして、私自身も今の取り組みの先にあるものを改めて考えてみたいと思っています。
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posted by 岩ちゃん at 12:09 | 東京 晴れ | Comment(3) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月07日

ちょっとした・些細な事で・大事件に・なったかも!

今日の午後は、送迎支援&家事援助&通院介助&余暇活動に携わるヘルパーとして活動。
と言うか、
一人暮らしをしている自閉症を伴う重度知的の当事者のヘルパーとしての活動なので、なんでもありありの時間を約4時間半担ってきた。

久しぶりのブログ更新。
これから書く記事がもしかしたら今後の展開の役に立つかもしれないとメモ代わりに書き留めておこうと思う。

さて、職場へと当事者Aさんを訪ねていくと、何やら不穏な雰囲気が・・・
介助ノートを見ると「弁当箱を開いた後からドンドン床を踏み鳴らしていてうるさい」と書いてあった。
ここで一つ目の些細なことが、しかしその意味が解るのはずっと後なので又後ほど。

彼の食事終わるのを待つことになった私。
うるさいのは確か。
ドタバタ・キーキー騒ぎながら食事を摂っている。
別の部屋からは、職場仲間のBさんが「うるさいねぇ〜」と何気に言えば、ますます騒ぎ出す。
そして、「ドシン!!」と言う音とともに一瞬静かになったAさんだがすぐさまさらに騒動が大きくなる。
様子を何気に見ていると、台所からハサミを持っていき、何やら「ギコギコ」と音が聞こえてくる。
「もしかして、何かやってるの?」と声かけようものならさらに激しさが増す。
それは「何も言うな!何も聞くな!おれの傍に寄るな!」と言う風にも思えてくる。
それでも、しらっと部屋に入り素知らぬ顔であたりを見渡すと、「ドシン!」と鳴った音は、どうやら彼が木の扉を蹴飛ばし少し壊してしまった音だったと判明。
さらに、彼がハサミを持っていったのは、
どうやらハサミで何とか処理をしようと懸命に考えた結果だったよう。
「修理しているの?」「交代しようか?」と言うとさらに大声をだし暴れだす彼。
でも、私はガムテープを用意し、サクサクと修理を済ませた途端に、静かになった彼。
ようやくこちらの声かけの意図が伝わったみたい。

彼としては、単に勢い余って壊してしまった扉で、彼としては何とか修復を図ろうとしたのだがうまくいかず、とにもかくにも「何とかせねば」と言う責任感からの行為であろうが、ほんの一言「ごめん!手伝って」とか「どうしようか?」と言えないために、一人抱え込み大騒ぎしていたのだと思う。

もしこれが、「何やってんの!」「ダメでしょ!」とだけでやり取りしていたら、たぶんガムテープでは修復できないぐらいの破壊行為に至っただろうし、その辛さを抱えたままに外へと出れば、ますます周囲の人を巻き込み、大事件になったかもしれない。

そうして、しばし落ち着いた彼。
でも、一番最初の些細なことが解決しないままなので、再び落ち着きをなくす。
あれこれ内容を考えているうちに2時間が過ぎ、病院の予約時間も近づいてきたので、「そろそろ帰ろうよ!」と声掛けし、とにかく落ち着かないままいったん自宅へ帰り、クリニックへと向かいました。

落ち着きはないままでも、私とは何とかやり取りできる彼。
それは、落ち着かない原因が私と関係ないところにあるのだろうと思いつつあれこれ考える。
受診が終わり、その後買い物に行く事へ。
落ち着きのない中、夕方の人ごみは少々気が引けたが、サクサクと買い物を済ませた。

そして、二つ目のちょっとしたことが・・・
慌てる彼は、足早に階段を上り踊り場のところで上から降りてきた女性と鉢合わせ!
ほんの少しお互いが軽く接触。
彼女の方は「すみません」と会釈し走り去ろうとした途端!
彼の方は「すみません!すみません!」と彼女を追いかける。
びっくりし、何事かと思って立ち止まる彼女のバックに手をかける彼。
凄い血相でカバンに手をかけようとすれば、誰だって驚くだろう!
逃げようとすればするほど、彼はカバンをめざして手を出そうとする。
カバンを盗られまいとする彼女。

その時私はひらめき彼女に一言!
「彼は今、あなたと触れた場所を確認したいだけみたいです」
「あっ!そうですか〜」と言葉を交わすうちに、彼は彼女のバックにちょこんと触れて、それでおしまい!

もし、彼女の悲鳴でも上げれば・私が彼をひたすら静止していたら、事は警備員が来て警察が来て大事件になったかも!
と思ったけど、彼女も彼もそして私も事なきを得てその場をすれ違っていった。

その後、二人は車に乗り込み、
「いつもの場所!」と言う彼に「了解!」と応え「いつもの場所」に車を走らせた。
そして、私は一言「今日は時間がかかったから介助者の交代時間に間に合わないよ〜。まぁ〜とにかく(車を)飛ばしていくかぁ!!」と。
すると、信号機で二つ目ぐらいのところで、「帰る!」と言う彼。
こちらの想いが伝わったか?とニンマリする私。

で、方向を自宅の方に向ける。
すると、イライラし始めた彼。車の中で暴れだす。
「帰る!」と言ったのは本意でない?
それを「確かめようとして失敗すれば次の介助者は大変になるだろう。でも、帰ると言う彼もいるわけだし・・・」等と頭の中で思い巡らしていると・・・

Aさん「コンビニ行く!」
私「えっ!?コンビニ?」
Aさん「コンビニ!!」
私「コンビニって隣町の?」
Aさん「ハイ!」
私「それってコンビニに行きたいんじゃなくて、その先にある〇〇ってところに行きたいんでしょ?」
Aさん「はい!」

この「〇〇」実は仕事で取引している場所で、以前彼が大騒動を起こして、彼を出入り禁止とする事でかろうじて取引が続けられていると言ういわくつきの場所。

彼は、その名を口にすれば絶対に「ダメ!」と言われると思っているらしく、その手前にあるコンビニに行くと言って何度か介助者と一緒に行き、コンビニに着くなり走ってその場所まで行くと言う手を使っていた。
しかし「コンビニに行く」と言う言い方も最近通用しなくなっていた。

そこでひらめいたのは!
ははぁ〜ん。今日最初のドタバタはこれが言えなかったのだろう。
又は、言ったらどうなるだろう?
行けるのか?行けないのか?行けないならどうすれば良いか?と一人考えていたのだと解った。

そして、「そう言う事か!それならそれで言えば良かったね。言えなくてそれは辛かったね〜」「でも、行ってはダメって言われているんでしょ?」「たぶん中には入る事はできないけど、外からだけなら何とかなると思うから行こうか」
「中には入れないけど、外だけなら行くよ」と彼に言い、「ハイ」と言う返事をもらってその場へ向かう。

道すがらドンドン落ち着きを取り戻す彼。
かなり確信めいた想像と思いつつ車を走らせる私。

そして、現場へ

彼はそこで何をするかと思えば、
外にある水道の蛇口を一ひねりして、駐車スペースのコンクリートにタッチして、再び水道の蛇口を一ひねりするだけ。
再び車に乗り込む。

敷地の中に車を停めたので当然ながらそこの従業員が顔を出す。
「アレ?Aくんじゃん!」と言われ、慌てる様子もなく車に乗ったままのAさん。
その方に私の方から「以前大騒動があったと聞いていますし出入り禁止と言う事も聞いていますが、今日の彼を見て解った事は、彼としては只、水道の蛇口をひねりたかった事と駐車スペースのコンクリートにタッチしたかっただけのようです。それを制止されたのでかえって大騒動になってしまったようです。又来ることがあると思いますが、その時はどうぞよろしくお願いします」と説明させてもらい、
落ち着いている彼を見て、「そういう事か〜。それならば、」と言う顔をいただいた。(ただこの後代表さんがどいう対応になるかは不明ですが)

彼にしてみれば、気になる場所の気になる水道の蛇口とコンクリートをちょっとひねったり触ったりするだけが目的の様子。
そして、それが目的だと解れば、本当に些細な事であろう。
しかし、それが周囲には解らないため、周囲は様々な予防線を張り、その予防線の故に彼はますます追い込まれてきたのだろうと思った。

でも、彼のその場その場の行動を見ているだけでは何もわからないし、その先本当に大事件となるかもしれないと思えば予防線を張る事も当然と言えば当然のように思う。

只、その先は大事件ではなくほんの些細な事であったと発見する事もあると言う事を、今日の介助で考えさせられた。
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posted by 岩ちゃん at 20:35 | 東京 晴れ | Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月21日

最近…

最近どうもツイッターにはまっていて、ブログやMLの方がご無沙汰。
日々書きたい事がないわけではない。
逆にいろいろありすぎて自分の文章力がついていかない。
又、ツイッターのTLのごとく、今考えている事も次から次へと書き改まっていくぐらいに日々あれやこれやとありすぎる。

そんなわけで、
とあるところから「ツイッターできない私には状況が解らない」と言うお叱りを受けたので、
それなりにブログを再開したいと思うが…

どこまでやり取りできるか?
とりあえず、言い訳がましく
つぶやいておく(オッと!ブログさえツイッター化している私)
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posted by 岩ちゃん at 16:41 | 東京 晴れ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする