2015年05月30日

「ファミリーグループカンファレンス」を巡る話を聴いてきました。

5月23日に、成年後見制度を見直す会主催の公開学習会で、
ファミリーグループカンファレンス(FGC)」を巡る話を聴いてきました。

本来期待していたものとは違いましたが、
それは講師が担っている現場と私が担っている現場の違いであり、
話の内容自体は、とても有意義な話でした。
そして、
現場が違うからこそ、私自身はこの話を聞いてこの先何をどのように展開すれば良いのかを考えていきたいと思っています。

さて、
今回の学習会は、
「成年後見制度」を「見直す」会と言う事で、
このFGCの発想を、意思決定に困難さを抱える人達に対する支援を考える材料として得るために持たれました。

・専門家集団に拠らない意思決定支援
・後見人等の特定個人に拠らない意思決定支援

本人の意思は尊重されなければならない。
本人の権利は保障されなければならない。
とは言うものの、
では、どうなれば尊重されている事になるのか?
どうなれば権利が保障されている事になるのか?

自らの意思の表現が異なる人たち。
自己決定のプロセスが私たちと異なる人たち。
自己決定の前にある選択肢が奪われてきた人たちの意思決定支援とは?

「分ける方が本人のため」
「厳しい娑婆で生きるよりも入所施設の方が本人にとって安心できる」
という声が、まことしやかに語られる重度知的当事者の周辺。

「困っている障害者には手を貸すが、困らせる障害者は保護するのがあたりまえ」という社会。

誰かの判断・特定の価値観によって当事者の意思が認められる状況に対し、
様々な人が関わり、様々な視点で本人とやり取りし、
明らかになった当事者の想いを様々な形で実現していく。

その一助としての
FGCにしていくにはどうすれば良いか?

又、その担い手をどのように形成していくのか?

まだまだ何も始まっていないと思う。
でも、始めていきたいと願う。

ファミリーグループカンファレンス研修会というのが、
7月17日〜20日の4日間で開かれる。

これに参加しようと思っている。
posted by 岩ちゃん at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月27日

介助を使って暮らす

一人暮らしをしている自閉症を伴う重度知的当事者のお宅に介助者として入る。
24時間何らかの形で介助/支援者がいて成り立つ彼の暮らしの一場面。

泊まり介助者との引き継ぎ。
前の介助者は交代直前に食事作りを頼まれたらしく、
私は作りかけの調理も引き継いだ。
前の介助者が帰り、あらかた出来上がっていた食事の仕上げをする私。
出来上がったので家主に伝える。
台所にやってきた家主は、
「入れるの!!」「お皿!」という。
普段盛り付けは家主自身がやっていたように記憶しているが、
言われるままに進め、盛りつけたものの確認をとる。
依頼通り事が完成したのだろう。
盛りつけた食事をすぐさま自室に持って行って食べ始めた。

いつもの場面ではやらない介助ではあるが、
依頼された事に応える私。
なんてことない風景だと思う。

一人暮らしを始めて10年が過ぎた当事者。
介助者を使い自らの暮らしを作っている。
そんな場面でしかない。

しかし・・・
こんな状況になるまでに10年以上かかっている。

なぜなら、自閉症を伴う重度知的当事者にとって、
事を他人に頼む事の難しさ故に、
大パニックを頻繁に起こしていた彼。

自立生活を始めた当初、私は頻繁に介助に入っていたので今朝の風景は、「普段通り」と思える。
しかし、他の人に介助の場面を委ねるにつれ、彼の側には新たに表れる人に対し、
「依頼する」という事が生まれてくる。
言葉できちんと説明できれば良いが、
相手に伝わるように依頼できず、
依頼できないゆえにストレスが溜まる。
溜まったストレス故に、余裕を無くしますます伝わるように依頼できない。

依頼できなければ依頼しないという時期もあった。
何でもかんでも自分でやる。でも、できない事も何とかやろうとすればストレスが溜まる。

「できない事はヘルパーに頼めば良いよ」と言っても、
「頼む」という事ができない彼。

そんな彼が、ここ数年変化してきた。

10年前。
(彼にとっては)突然現れる人がヘルパーという人であると認識するのに必死だった。
そこから始まり、
ヘルパーは家事をやってくれる人と認識し、
自分の暮らしのためにやっていると認識し、
自分の要望を聞いてくれる人と認識し、
伝わればやってくれる人と認識する。

頼む事柄とやる人とがセットで存在していた彼。
やってくれる人が帰る前にやってもらわないとと必死になる彼。
でも、食べたい時間ではないので頼みたくない。
でも、今頼んでおかないと次の人はやってくれる人ではない。

頼む事とそれをやる人とがセットになって依頼できるようになってきた。
定期的にやってくるヘルパーに対し、
セットとなっている人の所ではまとめていろんな事を頼めるようになってきた。
しかし、ヘルパーなんだから誰に頼んでも良いとはならず、
頼めないヘルパーの時は頼まず、ご飯も食べず、頼めるヘルパーが現れる時まで待つ。
という事も彼の中にあると思う。

そんな事を日々繰り返しつつ、一人暮らしが10年過ぎる。

そして、
今朝のサクサクこなしている状況。
そこだけを取り上げればなんてことない出来事だけど、
私にとってはまったくの奇跡に思える。

そして、彼が歩んできたその軌跡をたどれば、
私たちが当然と思うことが彼らの世界観の中では決して当然ではないという事に気づく。
又、異なる世界観を持ちつつ私たち多数の側の世界観の中で彼は必至に自らの暮らしを組み立ててきた凄い人に想えてくる。

「介助を使って生きる」という事。

使って生きるのは私ではなく彼の側であり、
「介助を使って生きる」という事が、
彼の世界観の中でなされなければ、

「生きる」という事にはならないと思った。

又、
そうなるために私たちはまだまだ何も取り組めていない。
取り組めていない中で、彼の側が懸命に生きる中で築いてきたものであると感じる。
posted by 岩ちゃん at 12:54| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

「ファミリーグループ・カンファレンス」に興味を抱く

最近、「ファミリーグループカンファレンス(FGC)」という言葉を知った。
その内容は、まだ全くと言って良いほど知らない。
でも、なんとなくその内容に惹かれるものがあり、今後の日本での展開を追いかけたいと思っている。

ではなぜひかれるのか?
それは、
意思決定や意思表明に困難さを抱える障害当事者を支援するにあたり、当事者個人にのみ焦点をあてて考えるのではなく、本人を取り巻く小さなコミュニティ(ファミリーというが、日本でいうところとの「家族」ではない)をも射程に入れた支援を考える所に、これまで私自身が考えてきた「関係性による支援」とか「地域」といったことが盛り込まれているように感じるからです。

この言葉を知る前に、このブログに書いた「<一つの妄想>市民後見をさらに進めて、市内後見ってどうだろう?」という想いに近い所にあるように感じるからです。

今月23日(土)に成年後見制度を見直す会が、
ファミリー・グループ・カンファレンス
――発祥の地・ニュージーランドや諸外国での実践、日本での展開――
」という公開学習会を開く。

又、
ファミリーグループカンファレンス研修会というのが、
7月17日(金)〜20日(月)に開かれる。

私はそのどちらにも参加したいと思っている。

ただ、この手の外国から届くものというのは、どうも胡散臭さを感じる。
届けられるそのものが胡散臭いというのではなく、海を渡り日本に入ってくると、本来のものとはまったく異なるものになってしまう感がある。

韓国料理や中国料理やベトナム料理等々が海を渡って日本に入ってくる時、
日本人の好みに合わせて味付け等が変わる。
それは、とてもありがたく思う。

でも、専門的な事柄や思想や実践等々が海をわたって入ってくる時、
それを日本人の好みに合わせ変える時、
結局は使えないものになってしまう。
海外の最先端を強調されると、
地元でコツコツと取り組まれてきたことがどんどん否定されていく。

そんなことを思うと、
この「ファミリーグループカンファレンス」なるものもさほど関心をよせるものではなく、
事の経過を見守りつつ、使えそうなことなら使う程度の話だと思う。

でも、
そうではなく、関心を抱いているのは、
まだまだ知られていない状況があるということ。
小さなコミュニティーの必要性を掲げていること
が私自身の興味を引くところです。

そして、
小さなコミュニティーの必要性と言うのは、それを形作るというよりも、
「小さなコミュニティーを良しとする」展開が今後拡大していく事に期待を寄せるからです。

障害者支援の世界特に知的当事者の世界においては、
本人の意思が明確でない分、一般化や普遍化や事業所化等々どこにでも通じるものをつくろうとすると、常に変質し、常に支援の側の意思に当事者が従うしかない状況になっているように感じます。

「小さなコミュニティーを良しとする」というのは、
「そのコミュニティーが成立していればよしとする」発想であり、
そのコミュニティーや他のコミュニティーから侵されるものではないし、
互いに異なるコミュニティーを認め合うことで、新たなつながりが生まれるように思います。

そんな大雑把な想いからこのFGCなるものにひかれています。

そして、もう一つ私が期待しているものは、
就学運動と自立生活運動とがこのFGCの考え方の中でつながりを生む可能性を感じています。

すなわち、
私たちが今自立生活支援を担っている当事者の多くは、大人たちの就学運動によって、地域の中に様々な関係を生み出しています。
そして、幼い頃から築き上げてきた地域の中での関係性があるからこそ、
大人になって「自立生活」という自らの暮らしをそれぞれに営まれているように感じます。

幼い時期に地域から外され、養護学校等の障害者のみが集められる場をくぐってきた人たちも自立生活はしています。
しかし、ある日突然何らこれまでの関係がない中で重度知的当事者の支援を担う時、
彼らがくぐってきた世界を第三者(記録とか親からの情報)から知ることができません。
支援を得て暮らす当事者たちも、どこか自分と支援者という関係のみに終始し、自分の周りに多様な人がいる(自分を肯定的に見る人もいれば否定的に見る人もいればどっちでもない人もいる)という事が、なかなかつかめず、混乱しているように思います。

自立生活運動においては、ヘルパー等の支援者を使い自らの暮らしを成り立たせる。
「最大の敵は親」と言われていた時代からかなり経っているのですが、
重度身体当事者たちの自立生活を見ていると、親の思いは親の思いとして自らの暮らしをヘルパー等を使い実現している。
就学運動の担い手たちの多くが親や教師という状況と、
自立生活運動を担ってきた人たちが、その関係から離れることを求めるが故に、
就学運動と自立生活運動とが繋がらない。

でも、幼い頃から地域の中で過ごす。
幼い頃は当然親の関与は大きい。
でも、その関与は親が全面的に子どもの面倒をみるのではなく、
親は、将来につながるコミュニティーづくりに関与する。
(別に親でなくても良いです)
幼い頃から将来を意識して作られたコミュニティーをもって自立生活をする。

小さなコミュニティーでは、当事者にとって必要となる24時間の暮らしの支援は到底担いきれません。
しかし、その小さなコミュニティーが核となり、
様々なサービスを当事者とともに利用していく。

特定の誰かの意見が本人の意思ではなく、
長年当事者を取り巻く人達と作ってきた関係の中で、
それぞれの現場にある状況の中で、
本人と意思と本人の意思に基づく支援とそれを保障していくための取り組みとして、
ファミリーグループカンファレンスという発想があれば、
これまでと違う何かが生まれてくる可能性を感じています。

そして、
FGCは海を渡って入ってきた取り組みでしょうが、
実は、
日本というところは、常に関係性をベースとした地で、
外国での展開以上のものがすでに存在していると私は思います。

ただ、そう簡単に思えないのは、関係性とかコミュニティーというものを維持するために、誰かを排除する事で成り立っている状況もあるからだと思います。

就学運動は常に排除されようとする者に抗してきた運動であり、
自立生活運動は排除された者達が本来の場に戻る運動として捉えれ、
私が今日になっている自立生活支援は、正に排除されずにきた子ども達が大人になり、
自らが暮らすことに対して様々な形で支援を担っている。

排除しなければ見えてくるものがたくさんあると私は思っています。

でも、
就学運動のみを担っていた時、
「将来」というまだ見ぬ地に対して、ひたすら信じて突き進むしかありませんでした。
でも、すでに少なからず「自立生活」を獲得した当事者たちと日常的に付き合っていると、
幼い頃から共に育ってきたことの大きさは様々な場面で実感しています。

昨今「自立生活」を実現するための制度がそれなりに確立し始めています。
しかし、それを本人が利用するという点では、意思決定に困難さを抱える当事者たちは、
制度の担い手によってどのようにもされてしまう状況があります。

だからこそ意思決定支援はとても重要な事だと思います。

しかし、その意思決定支援さえも成年後見制度等で特定の人の判断が本人の意思とされようとしています。
又、制度が進み「福祉はカネになる」という人たちが、障害者を制度によって囲い込もうとしています。
又、事業所等お金を介し付き合う者たちだけで支援をになっていると、
その力量によって虐待等が起こり、その虐待が起こっている現実が見えない状況があります。
そして、虐待が起こっても同しようもない状況の中で他の施設へと当事者たちが回されていく。

当事者たちの意思が明確でない分、周囲の者の判断によって進められていく現実。
それを小さなコミュニティーによって本人の意思を明らかにする。
小さなコミュニティーの中で協議調整されることをもって、様々な制度につなげ、
当事者を含む小さなコミュニティーが維持されていく。

そんなことを思いつつ、
FGCの集まりに参加してみたいと思っています。

もし皆さんもよろしければ、ご参加してみてください。
専門家や行政等によってこの先変質させられる前に、
新たな取組としてこの日本の中でどのように展開していくかを一緒に考えていきましょう。、
posted by 岩ちゃん at 17:08| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする