2015年06月22日

訪問時、ベルを鳴らす/鳴らさない?

「どうでもよいことかもしれませんが、介助交代の時ってベルを鳴らさない方が良いですかね〜?」と、
私と交代のヘルパーさんが尋ねてきた。

確かに、「どうでもよい事かもしれない」
人の家を訪ねた時は、ベルを鳴らすのは当然だろう。
鍵が開いているからと言って、こっそり入ることは良くない。
田舎の見知った関係ならば別かもしないが、
長年、介助に入っていてもあくまでも他人の家。
礼儀としてベルは鳴らすものだろう。

私は、そのヘルパーさんに「なぜ、そのようなことを聞くのか?」と尋ねてみた。
すると彼は、
「先日介助交代の際、次のヘルパーさんんがベルを鳴らさず入ってきたので驚いたんですよ」
と言う。
彼は、自らが入る介助の枠は定期的なのだが、その前後のヘルパーさんは事業所の都合もあるが、意識的に違う人を入れている枠。彼としては、必然的に様々なヘルパーさんと接することになる。
すると、
訪ねてきた時、ベルを鳴らす人と鳴らさない人がいて、
自分は、鳴らす派だけど、鳴らさない派の人がいる事に気づいたらしい。

「では、あなたが介助交代で訪ねてきた時、ベルを鳴らすのは何故?」と聞いた。
すると、
「ベルを鳴らさないと不用心だし、本人も驚くと思うので」という。

確かに。
それは当然の理由だと思う。

「では、鳴らさない派の人の理由を聞いてみた?」と聞けば、
「それは聞いていない」と言う。

彼にとっては、「どうでもよい事かもしれないが」と言う思いがあるからか?
サクッとそれぞれのヘルパーさんに理由を聞けない様子。
でも、私は「決してどうでもよい事ではなく、そこに、自立生活をしている当事者の支援が何かを意識する機会があるから、ぜひ聞いて欲しい」といった。

ヘルパー派遣と言っても、様々な形がある。
たぶん、週に何度か、日に何度か、短時間の介助に入るヘルパーさんの現場ならば、訪問時ベルを鳴らすというのは当然のように思う。
なぜなら、
当事者にとってはヘルパーという他人がいない時間からヘルパーという他人がいる時間へと切り替わる合図だから。

でも、
24時間介助を使い暮らしている重度障害者たちの場合は、常に介助者がいる状態。
介助交代は、ヘルパーが訪ねてくるというよりもヘルパー側の都合で立てられた(そればかりでもないだろうけど)交代時間になると次の人が訪ねてくる。
そこへ、やってくるヘルパーが毎度ベルを鳴らしていたら・・・
それは、当事者にとって他人が入る時間の知らせではなく、ヘルパー間の交代の合図と化す。

常にヘルパーが存在する暮らしをしている当事者のその交代のタイミングは、
もしかしたら、
寝ているという事もあるだろう。
トイレに入っているということもあるだろう。
入浴中や食事中という事もあるだろう。
TV番組に夢中という事もあるだろう。
休日の朝、ゆっくり寝たいと思っている時に、ベルがなれば基本家主である本人が対応しなければならない(ヘルパーなのか?訪問者なのかが判らず、ヘルパーに任せる人も多い)

自らの暮らしをベルによって分断されてしまう。

でも、実際のところは交代時間がある程度決まっているので、次の介助者に依頼することを決めていたり、前の介助者にやってもらうことをやってから終えてもらったりと段取りしている場面もあったりする。
例えば、
いつも夜から朝にかけて入るヘルパーさんには専ら家事や入浴といった家の中でのことを頼み、
翌日介助交代でやって来たヘルパーとはいつもお出かけしているなら、
ベルは、お出かけの合図となり本人のモードもベルとともに切り替わるということもある。

でも、出かけなければならない場面ではそれはとてもありがたい話なので、ベルを鳴らす方が双方にとって良いと思う。
ところが、休日で出かけても出かけなくても良い状況の場合は?
時には、のんびり家で過ごしたいと思うかもしれない。今日はテンション高めで出かける気満々かもしれない。のんびり過ごすつもりで前の日遅くまで起きていたとしたら、いつもの交代時間に寝ているという事もある。でも、ベルがなれば起こされる。
出かける気満々であってもうっかり寝過ごすということもある。ヘルパーがベルを鳴らすことで、飛び起きて慌てて出かける準備をすることもある。

実は、
「ヘルパーがベルを鳴らす/鳴らさない」という話は、
24時間介助を使い暮らす障害当事者にとっては、当事者自らの暮らしの連続性をいかに意識し、折々の状況をどのように考えるかという重要な機会だと思う。

これが、重度身体当事者の場合は、本人に聞けば良い。
そうすれば、時間や曜日でその仕訳を伝えてくれるかもしれない。
人によって変えるかもしれない。
事前に次のヘルパーに「今日は・・・」と連絡をいれるかもしれない。
今いるヘルパーに「ベルを鳴らさず入ってきて」と張り紙をさせることもできる。

でも、
重度知的当事者の場合は?
そこまで指示できる人はいない。
その人の状態や状況によって、ある程度周囲で対応を決めることはできるかもしれない。
しかし、その日その時の当事者の状態は判らない。

寝ているところを起こしては悪いと思うし、起きてもらった方が良いとも思う。
前の介助者とバトル中に私が現れたら、家主はバトルを収める事と私への対応が同時に起こり、ますますパニックになる場合もある。そんな時は、シラッとドアを開けバトルが片付くまで知らん顔をしていた方が良い時もある。でも、ベルが鳴ることでリセットされる場合もあったりする。

「訪問時、ベルを鳴らす/鳴らさない?」と言う問に対して私の答えは、
「鳴らした方が良い時もあれば、鳴らさない方が良い時もある」でしかない。

でも、
実際に訪ね、ドアを開けてみなければどちらが良いかは判らない。
なので、
私の対応は、「鳴らしてみる時もあれば、鳴らしてみない時もある」になる。

そして、
先のヘルパーさんに聞いてみた。
「いろんなヘルパーさんと交代する機会がある中で、それぞれのヘルパーさんがどのように対応しているか聞いてみた?」と。
すると、彼は
「鳴らす人もいれば鳴らさない人もいます」と言う。
では、「それぞれのヘルパーさんの鳴らす/鳴らさない理由は聞いてみた?」と言えば
「それは聞いていない」と言う。「ならばぜひ聞いて欲しい」と伝えた。

それは、
「鳴らす人/鳴らさない人」の統計をとるということではなく、
「鳴らす理由/鳴らさない理由」がとても肝心だと思う。
ヘルパーさん一人ひとりが想い描く事を知り、自らの対応を知り、そしてそこに現れる当事者を知る。

連続した当事者の暮らしにおいて、私たちは断続的に介助/支援を担っている。
個々の当事者たちは、
人が代わることで大変な想いをしている場合もあるだろう。
人が変わるからこそ楽に過ごせる場面もあるだろう。

そんな、当事者の暮らしに自分たちはどのように関与しているのか?
「訪問時、ベルを鳴らす/鳴らさない」と言う事柄は、
そんなことをちょっと考える良い機会かもしれないと思った。
ちょっとした機会だけれども、そこには支援にまつわる様々な事柄を意識する機会になるように思う。

追記
話をしていく中でふと想ったことは、
交代のためにやってきたヘルパーさんには、その時の本人の状態を知ることはできない。
でも、交代を待つヘルパーさんの方は今の当事者と関わっているから、
例えば、
ベルを鳴らした方が良い場合は鍵をかけておく、
鳴らさなくても良い場合は、鍵を開けておくと言う手もありかもと思った。
ただ、そうは思いつつも、
訪ねてくる人は、何もヘルパーさんだけではないので、
昨今の状況からすれば、鍵を開けておくというのも不用心かもとも思う。
posted by 岩ちゃん at 10:51| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月02日

意思決定支援の様々な場面について

「意思決定支援」という言葉を最近よく耳にする。
それに付随する形で「成年後見制度」という言葉も耳にする。

よく耳にするから使っている私だけど、
そもそも重度知的当事者たちの自立生活を支援する上では、
この「意思決定」と言うものは常に支援の内に入っていた。

よく耳にするから使うのは、それを使う事で自分たちが担っている事を認識する事や振り返る事でこれまで担っている事や煮詰まっている事を次へと展開するだけの話だと思っている。

でも、
言葉としては耳にしても、その言葉を語る人たちはどうやらこれから取り組むらしい。
なので、場末でちまちまとながらも考え続けてきた私たちの取り組みに興味を抱いてくれるのだろうと感じている。
逆に言えば、こんな弱小団体を訪ねてくるぐらいだから、ほとんど意識の中に上っていなかったのだろうと思う。

とは言うものの、
様々な立場から関心を抱いて、一緒に考える機会が増える事はとてもありがたい。
たとえこれから取り組もうとする人であっても、
これからのためにこれまでの事を聞いてくれる事は歓迎すべきことだと思う。

そして、
あれこれ聞かれる中で、私自身も只々漠然と描き、日々ひたすら感覚で担ってきた事が、
言葉で語る機会になり、聞かれた事に応える事で私自身の為にもなっている。

そんな中での一つの事を書き留めておこうと思う。

「意思決定支援と言うが、いろんなレベルでの意思決定の手法が違うと思うがどのように考えるか?」

そう聞かれて、「レベル?」と頭をひねった。
たぶん質問者の意図とは違うのだろうが、
私は「レベル」という分け方に対し、
「空間や時間や回数」と言ったものの広さや経過をあれこれ考えた。

そして、
「上・中・下」ではなく、「大・中・小」という感覚で考えてみた。

順番は逆になるが、
意思決定支援の「小」=日々繰り返し現れる事柄。(例えば、今日の夕食メニュー・休日の過ごし方等)
意思決定支援の「中」=何年かに1度・生涯1度現れる事柄(例えば、大きな物の買い物・旅行・就職・アパート探し等)
意思決定支援の「大」=社会全体のスタンダードを巡る話(普通学級への就学・高校進学・自立生活等)

意思決定支援の「小」は、
繰り返し現れる中で、当事者が選択するための選択肢の提供や選択するためのプロセスの支援、決定された事についての意識化やその上で一つ一つの選択が繰り返される中で日々検証する機会とする。
例えば、夕食メニューを当事者が決めるという事は、好きなものを食べるという事に始まるも、選択肢がなければ選べないし、本当に本人が選んだことなのか?選んだ結果もしかしたら次は別のものを選択するかもしれないし、好きになって何度も選ぶかもしれない。
選択肢の提供・選択するためのプロセス(選択肢に対する実感・本人の選択基準・選択した際の本人が引き受ける面と支援者が引き受ける面・それらにまつわる個々の支援者の価値観や常識等々の影響等等の検討)・選択したものに対する評価等。
そして、自らが選んだという実感に基づき次を選んだ時に、それが容易に実現できる体制をつくる。
まさに、自己選択・自己決定・自己実現そして再び自己選択が日々の暮らしの中で循環していくための支援。
それは、間違った選択も本人の実感として次に向けて修正する事や逆により確かな選択とできるような支援も日々の暮らしの中での事柄ゆえに、支援の側は様々な事柄を意識する事で、当事者との信頼関係や長年の経験を積み重ねていく中で生み出されていくものと考える。

意思決定支援の「中」は、
例えば、「小」の延長線上で言えば冷蔵庫を買うと言った場合、それなりにお金があれば選択肢は増える。
選択肢が増えても本人が決めることに難儀したり、本人がどのように欲しているかが解らない場合。
結局は、支援者間で決めるしかないのだけど、「小」の所で日々の意思決定支援を担っていれば、自ずとそれぞれの支援者たちが当事者との関係の中で意見を出し合い、協議する中で決めていく事もできる。
自立生活を始める際のアパートの選択(実際は重度知的当事者に貸してくれる大家さんは限られているため選べないけど)は、本人を良く知る中で私たちがアパートを決める際に検討する事柄の一つ一つを、様々な支援者とともに協議して選んでいく。
又、どのような仕事につくかという点でも、本人は実際にやってみないと実感を抱けないけど、本人を知る人がたくさんいれば、様々な意見を出し合う中で、本人により近いところでの決定がなされるように思う・
ただ、これは障害故に閉ざされている面が多い故に、失敗が許されないという事が多々ある。
一度決めた事を実現するだけでも非常に厳しい状況があり、その点も考慮する事はあると思う。
そうして決めた事を実現するまでの苦労が多ければ多いほど、一度なされた自己決定が絶対的なものとして襲ってきて収拾が不可能になってしまうという事もある。
例えば、高校進学を目指す知的当事者が、確実に入学できる専門校に入学した。
確実に入学できると言っても知的当事者故に、高校側は拒否をする。
それに対し、本人が決めた事として高校側に本人を受け止めるよう強く要望する。
支援体制を作り様々な人の支援の下で実際に入学してみると、
専門校故に実習等が多く、その実習がとても苦手で興味もなく、学校に行きたがらなくなった。
多くの人の手を借りて実現した事ゆえに、周囲は学校に行くよう懸命に勧める。
でも、1年後再度普通校を受検しその後は嬉々として学校に通ったという事がある。
「中」の意思決定支援においては、本人や周囲によって決定された事は、あくまでも「とりあえず」の決定であり、それが本当に当事者自らの決定というには、その後具体的に事が進んだところでしか判断できないという想いが大切だと考える。

意思決定支援の「大」は、
高校進学もそうだが、アパートでの一人暮らしや一般就労と言った、私たちにとっては普通に起こる事が、障害を理由に閉ざされてしまっている現実に対し、私たちはどのように向き合うかという点。
例えば、本人の意思を確認すると言うが、
障害児が「支援学校」を選択する際には、「何故、支援学校なのか?」を問わず、「普通学級」や「公立高校」に就学/進学する時には、なぜ「普通学級なのか?」「高校進学が本人の為か?」等と聞かれる。
困難な状況にある自閉症を伴う知的当事者に対して、「どうして施設に入れないのか?」とは聞くが「どうして自立生活をさせないのか?」とは聞かない。
「聞く」という事の中に、実は障害者に対する私たちの価値観や偏見がたくさんあり、「障害者は」という思い込みの中で、当事者の意思決定を求めている。
これは、本人や家族や周囲の支援者たちを巡る意思や意思決定やその支援というよりも、
社会が何をスタンダードとし、障害者故に当事者やその周辺に社会の価値観や常識に「決定させられている」という事に目を向ける必要がある。

私たちは、
意思決定支援を考える時「大」の場面で何を当事者たちに求められているかを考えなければならない。
でも、それを考えていくには「小」の場面で当事者と常に向き合い、日々失敗も成功も繰り返しつつ、常に意識化し、修正を恐れず、日々をつないでいく事が大事だと思う。

意思決定支援が何なのかはいまだ一言では語られないが、
とりあえず、そんな区分けの中であれこれ考えてみた。
posted by 岩ちゃん at 17:38| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする