2015年07月25日

自閉症スペクトラムの当事者にとってグループホームは最善か?

多くの人は、重度知的当事者の自立生活(親元を離れて地域で暮らす)といった時、
グループホーム(GH)と描いているかもしれない。

私の周辺においては、GHを利用して暮らしている人もいれば、ヘルパー等を使い一人暮らしをしている人もいる。
私にとっては、どちらの形態が本人にとって良いかという疑問はあたりまえにある。
基本、本人の意向に即して選択すれば良いのだが、
重度の知的障害故に本人の意向は、親元を離れる段階ではわからない。

中には、一人暮らしを始めてみたところその状況が了解できず、GHに移った人がいる。
でも、GHでの共同生活を初めてみると、他の利用者との折が合わず、再び一人暮らしになる。
その後、「やっぱりGH」となるのだが、
その時の本人は、一人暮らしとGHの両方を経験しており、
折が合わない他の利用者がいても、一人暮らしよりも楽な面があるということの判断があるように思う。
又、周囲の支援者たちもその両方の経験に現れる当事者の様子から、GHでの暮らしにおける支援を積み上げていく事の方が、本人にとっても有益だと思えた。

しかし、
そんなことを丁寧に取り組める状況はなかなか無い。
GHしかないと思っていたら、本人が選択するための取り組みさえ意識に上らない。

一人暮らしかGHかという選択がない多くの支援者たちは、
たぶん、入所施設火GHかという比較の中で考えていると思う。
それに対して私は、
重度身体当事者たちが自立生活運動の中で「一人暮らし」を実現してきた事を見てきた。
そして、当事者が子どもであった時から地域の中で様々な関係を作ってきて、
極あたりまえに「(地域で)親元を離れて暮らす」という形を模索する中で、
一人暮らしかGHの選択があるように思う。
(さらには、障害当事者ばかりを集めるGHだけでなく、ルームシェアと言った昨今社会の中にある新たな暮らしの形態の方に関心を寄せる)

多くの人がGHとしか描かない原因は、
その支援体制によるところが大きいと思う。
私たちの状況においては、24時間何らかの形で支援体制を組んで一人暮らしが実現されている。
しかし、その道程を振り返ると様々な形で行政と話し合い、様々な形で支援者を募り、日々の支援において数々の失敗を繰り返しつつ、当事者に対し自らの不十分さを詫びつつ今日まで取り組んできているから。

実際、今日明日すぐに実現する事は正直いって難しいと思う。

特に「行動障害」を伴い常時介助を必要とする人たちにとっては、
常時の介助をいかに確保するかという点を思うとGHの方が現実味があるのだろうと思う。

そんな状況はとりあえず横において、(と言うのは、現状の不十分さはいづれにしてもあるのだが、それらの一つ一つをどの方向に向かって解決していくかという点で、純粋に本人にとってどちらが良いのかを考えたいから)

自閉症スペクトラムの当事者しかも重度の知的障がいを抱く人にとって、
グループホームは最善の形態なのか?という疑問を抱く。

彼らにとってとても重要な支援の取り組みは、
「本人の意思をいかに明らかにするか?」に加え、
「本人にとって暮らしのわかり易さ」すなわち「構造化」の取り組みが必要と思う。

「構造化」とは、決して障害当事者に取ってのみ必要なものではなく、私たちの周囲にもあたりまえに存在している。(例えば、駅の案内表示板とか)

私たちと異なる世界観の中にいる自閉症スペクトラムの人々は、
私たちにとっては当然のことでも、彼らにとってはまったく了解不能なことがたくさんある。
又、了解しあっていることにおいても、まったく異なる意味付けが双方にあり、目に見える点では上手くいっているということもあったりする。(この場合、ほんの些細な変化によって本人が大混乱を招くという事もあったりする)

そんな、私たちと異なる世界観に生きる当事者たちを支援する際、
GHという共同生活の場面では、
当然ながら他の当事者の存在が大きく影響してくる。

先日聞いた話では、
これまで何ら問題がなく過ごせていた当事者が、新しい利用者が入ってきた途端、
その人に対して非常に攻撃的で、それを止めに入る支援者たちにも攻撃的になり、
そのような問題を起こす当事者は「退所してくれ」と言われたとのこと。

対人相互の関係に困難さを抱く当事者にとって、周囲にいる複数の関係は非常にややこしい。
何に行き詰まっているかを本人に聞いてもうまく説明できない人は、当然態度で表現するしかなくなる。

それは、ヘルパーを使い一人暮らしをしている当事者にも現れる。
しかし、そこに現れている状況は、本人とヘルパーとの一対一の関係の中で起こっていることであり、
本人のみをみて(本人が置かれている状況や歴史等も含む)支援に当たることができるように思う。

そして、
これまで自閉症を伴う重度知的当事者の一人暮らしを支援してきた経験上、
様々なヘルパーが当事者の前に現れ、その事で混乱する面もあるが、
様々なヘルパーとの関わりの中で、本人の状態の違いが現れ、
上手くいく時/上手くいかない時の両方を本人の状態や思いとしてみることが、
一対一という単純な関係の中で観て取れやすい。
そして、起こっている事柄を支援者間で共有し、対応困難なことの原因とその対応を様々な角度から検証していける。

ただ、
ヘルパー間で共有する情報には、個々のヘルパーのフィルターがあり、
例えば
あるヘルパ―は「最近騒がしかったです」というも、別のヘルパーは「最近静かです」という。
個々のヘルパーと本人都の関係によって騒がしくもなり静かにもなるという事はあるが、
実際同じ状態であっても、神経質なヘルパーとおおらかなヘルパーとでは、判断基準が変わってくるということもある。

その点を考えると、
GHという形態の中で、同じ時間同じ空間を複数の支援者で支援するということは、互いの判断基準も明確にされ、当事者にとっての暮らしやすさを考えやすくもなるように思う。

ただ、
「知的当事者はGH」と短絡的に想い描く人たちは、その点をどう見ているのかは不明。

それよりも、
「親元にいた時には暴れていた子どもが、GHに入ると落ち着いた生活をしている」という時、
それは一安心と思いつつ、
共同生活をする人が変わった時はどうなるのだろうか?という不安を抱く。
又、
「構造化」の取り組みが実は「管理化」に走っていないかという不安を抱く。
当事者の暮らしではなく、GHのルールやその他の形や支援の体制に利用者全員を合わせていくという点。
それは、GHという名のミニ施設かしていないかという思いになる。

共同生活なのだからそれなりにルールは必要と思う。
でも、「対処できないので対処してください」と言えてしまうGHと言うのは、
そこで暮らす人達の支援をしているのではなく、自らの支援に当事者をあてはめようとしているのだろうと思ってしまう。
そして、それに抵抗して暴れたりすると、
次は入所施設へと当事者を追いやる。

私にだって支援の限界というものはあると思う。
なので、共同生活が成り立たないということの状況も理解できる。
でも、本人の暮らしを支えていると思うならば、その後の暮らしに対しても支援者は責任を追うべきと思うのだが・・・

と話は、ちょっとズレてしまったが、
そもそも、対人関係に困難さを抱く自閉症スペクトラムの人たちにとっては、
逆に一人暮らしの方が様々な面で解りやすいと思う。
本人が暴れたりする時に、なぜそのようなことが起こっているのか(起こさせてしまっているのか)を考えやすい。
さらに、
GHでは、その表現が他の利用者に向かっていった時、支援者は別の当事者の支援をも同時に行わなければならない。
でも、ヘルパーと一対一の場面で起こることは、その当事者と向き合うことのみに集中できる。

そんなことを経験上思う私だが、
自閉症スペクトラムの専門家の皆さんの専門性において、実際はどうなのだろうか?
支援の体制や支援のあり方や支援者の能力的なことを横において、
純粋に当事者本人にとっての解りやすい生活と言うのは、
グループホームなのか?
ヘルパーを使っての一人暮らしなのか?

その辺りのご意見を聞かせて欲しい。
posted by 岩ちゃん at 11:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月24日

日本版FGCって何?

先日のFGC(ファミリーグループ・カンファレンス)の研修会と自らの現場との間であれこれ考えている。
4日も現場を離れた分、現場に戻った途端に次から次へと課題が舞い込んでいる。
そして、舞い込む課題の一つ一つを解決する上で、FGCの必要性を感じてもいる。

研修会の中で、
FGCは、課題をグループ(輪)の中心に起き、課題を解決するための具体的な方法を見出すと言っていた。
オランダのFGCは、「専門性によって決められるのではなく、状況を解決するために関わりのある人達の中で検討し具体的な策を見出す」と理解した。

でも、
それが日本版FGCを考える時、果たしてそれで良いのだろうかと思う。
「専門性に依拠しない」と言うのは良く解る。
専門性というのは「◯◯士や◯◯師が考える解決方法ではなく、又行政等による強制でもない」というのはその通りだと思う。
「ファミリー」とか「グループ」という言い方は誤解を招くのでどうかと思うが、
「当事者の日常生活空間にいる人々」と理解すればそれなりに納得できる。
又「グループ」=「輪」の中心に「当事者」を置きたがるが、
「当事者」ではなく、日常の中で起こっている「事柄」であるなら、
その関係は何も「当事者」だけの問題ではないはず。
なので、当事者も他の人たちも「輪」の線状にいて、それぞれの立場から事柄に向き合うという考えで理解でる。
さらに、
「カンファレンス(=会議)」というものは、
どこか「課題」を解決するために開かれるという印象を抱く。
でも、
「課題はなくても」又「課題が解決した後でも」開かれるものならばどうだろうか?
すなわち、
日常的な「集い」「よりあい」的なものも含めていけば良いと思う。
なぜなら、地域で人々が暮らすという事は、様々な事柄が横断的に存在していて、「問題となる事」と「その解決」というのは、特定の誰か/特定の何かということではなく、様々な場面で起こっており、地域という中にある出会いや関係も含めて解決されていくと思う。

そう考えていくと、
実は「カンファレンス」ではなく「ネットワーク」なのではないだろうかと思えてくる。

FGCに対する一番の疑問は、
「問題を解決する」「解決のための具体的な方法」というものをどのように捉えるかという点。
日本で言うところの「ファミリー」=「家族」の存在は、
障害当事者にとっては、
「親こそが最大の敵」という状況があったり、
意識ある親御さんは、
「親が最大の支援者」と言う。
そして、最大の課題が
「親亡き後」という言い方がまことしやかに語られる。

それらは、普段重度知的当事者たちと付き合っていると、
どれも間違いではないと思う一方で、どれも間違いと思う。

なぜなら、誰が誰に対して思っているかという点に置いて、
そう想う状況が問題であり、それぞれが思うこと自体は間違いではないと思うから。
すなわち、どれも重度知的当事者本人の弁ではないという事。

それならば、
それぞれの考えをもって「輪」を形成する事が重要になると思う。

ところが、
日本の社会は、「輪」を維持するために「それを壊す者」を排除して成り立たせてきた。
又は、輪の中に存在できるように改める事を求めてきた。

そんな「輪」に抵抗し、都会を出たり核家族化していく状況も理解できる。
でも、輪を離れ自分の能力だけで展開できる人は良いが、
そうでない人たち特に、日常的に何らかの形で支援が必要な人たちにとっては、
自らが「輪」に抵抗したり「輪」を離れたりする事ができず、
結果、「家族(血縁)」によって対応する事になる。

「個人をもって輪」をつくる西欧の考え方と
「輪を維持するための個人」という日本では、
「輪」の一文字はまったく違う意味を持つ。

よって、
日本版FGCは、この「輪」をどのように作るのか?どのような「輪」にするのか?重要になってくるように思う。

つづく・・・
 (たぶん)
posted by 岩ちゃん at 14:13| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月23日

夏休みとFGC

夏休み!
それは多くの人にとってうれしい日々だと思う。
普段できない事を思いっきりやったり、
日頃の疲れを癒すためにのんびりと過ごす。
普段会えない人に会うという事もある。
又、
風習や習慣によって予定が決められてしまう人もいるだろう。
学校が休みになり子どもの世話に追われる人もいるかもしれない。
又、
「企業の長期休み=仕事がない=収入が減る」と切実な人もいて、
休みの他の仕事を探すという人もいるので、手放しでは喜べない面もある。

それぞれにとっての夏休み。
すなわち、日々の流れとは違う状況にどのように対応すれば良いか?
自らの想いはあったとしても、自らがその想いの実現に向け対応できない、
実現するためには、普段とは違う支援が必要になる人たちの事を考えると、

実は私にとって夏休み前は非常に憂鬱で判断不能状態になる。
それでも何とかしなけれならないので、例年なんとかしているのだが・・・
いつも後味が悪い。
上手くいく場合もあるけど、
それは、その人のその夏の出来事でしかなく、
同じパターンで上手くいく事は決してない。

それは、
うまくいったんだから例年そのパターンでやれば、
当事者にとっても良い事と思い込みたいけど、
私自身を振り返れば決して同じ夏ややってこない。
なのに、
当事者に打かくいったパターンで支援の体制を組むというのは、
押し付けになってしまう可能性も生れる。
でも、
人でもない中で、早々に決めてもらわなければ困ると昨今各事業所から催促され、
そこから生まれる焦りと「勝手に決めちゃえ!」という誘惑とが常にあったりする。

人それぞれの非日常に対し、
自らが希望を描き、自らが準備して、自らが実行・実現する人たちではなく、
重度知的障害の故に、やりたい事が描けず、やりたいと思っても発する事ができず、かといって自分で準備から実行・実現という流れのすべてに人の関与が必要な人の場合。
何をどのように実現すれば良いのか?
明確な依頼があれば非常に楽だけど、
本人からの依頼がまったくない、自立生活をしている重度知的当事者たち。

又、それは重度知的当事者に限った事ではなく、
中軽度の支援を必要とする知的当事者たちにおいても同様。
例年、それなりの夏休みを過ごし、本人も満足しているように見える。(実際に満足してもいるだろう)
ところが、
ある年新たな提案を当事者に振って一緒にやってみると、
翌年の夏休みから要望の幅が拡がるという事はしばしば見てきた。
それを裏返せば、自分が想い描ける範囲の外に自らの希望が会ったにも関わらず、
それを実感する機会を奪われきたともいえる。

そんな風に考えていくと、
なんとも憂鬱な夏休み前。

しかし、
本人自身が過ごす夏休みを、本人を取り巻く人たちと一緒に考えていく。
日々の暮らしから当事者の関心をそれぞれの目で語り、
夏休みでなければできない事をそれぞれが提案してみる。
様々な提案を実行に移すための取り組みを考える。
提案が多ければ、翌年に持ち越すことだってできる。
みんなで提案を検討し、実行に移せば、
単に言われるままに介助したというのではなく、提案したことの結果をみんなで共有する事もできるだろう。

そんな場がFGCだとすれば・・・

おもしろいと思っている。



posted by 岩ちゃん at 11:23| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

FGCを日本の中で考える

「FGC」=「ファミリーグループカンファレンス」
オランダで取り組まれているFGCを巡っての研修が17日から開かれている。
本日は最終日。
オランダでの取り組みが語られてきたが、本日の目的は
「日本でFGCをいかに実践するか」という事。

その目的のために3日間を費やしてきたとも言えるが、
これまでの研修を振り返ると参加者の皆さんは非常に消化不良状態のように思われる。

その原因の一番は、
「ファミリー」の捉え方となる前提が異なる点が明らかにされないから、
そこから生まれる了解不能さがあるように思う。

また「ファミリー=家族」は「血縁」としての「家族」ではなく、「当事者を取り巻く周囲の人々」とした場合においても、
日本では、「個人の権利を守る」ことよりも「家族」と言う単位を守る事に終始している状況の違いが明らかにされておらず、
日本では、「家族」という「輪」が崩れることが「問題」となってしまう点がなんとも研修の邪魔をしているように思う。(「家族と言う単位を守る」という事は、ご近所や地域という輪も守るひいては国という単位を形成する秩序を守る事が大きく、それを破る者を排除するか改めるによって解決を図ってきた歴史が講師や参加者一堂と共有されていない)

私自身も研修の場で数々の質問をしてきた。
それに対する回答がない中で悶々とする事もしばしばある。
でも、悶々とするのは私の日常なので、研修自体に悶々とするよりも、
自らが発した質問や他の人達が発した質問に対し、
私自身の中で回答を探ることに努めている。
(よって、私にとっては研修の場や講師の話そのものに何かがあるというよりも、考えるきっかけとして描いている)

「日本でFGCが可能か否か?」
と言う質問に、私は可能と答えてきた。
但し、私の頭のなかでは、それを実施するには30年かかると思っている。
その一方で、私が担っている現場は30年かけてこれに取り組んできたと思っている。

私がこの研修に参加した目的は、
@自らの活動を振り返るため。
Aこの取組に関心を抱いている人たちとつながるため。
と言える。

そして、Aについては休憩時間等でいろいろやりとりしてきたし、
他の人達から出される質問に講師が回答しなくても、
私は、その人達の考え方や想いや状況を知る機会として有意義な機会になっている。

そして、
@について
オランダのFGCは、ともかくとして、
私たちが取り組んできた事がFGCなのか否かという点において、
同じであり違うということがこの3日間で明らかになってきたように思う。

FGCでは、家族も含めたグループによって問題を解決するという。
「輪」をもって「解決」を図る。
「解決」を図るために「輪」を広げると言う。
その点では、
まさに、私が取り組んできたことと同じだと思う。

しかし、
私の取り組みにおいて、「家族(血縁者)」は、半ば排除してきた。
排除と言うと誤解されるけど、
「輪」の中に「家族(血縁者)」を入れず、血縁者については別途フォローに努めてきた。
なぜなら、問題は家族にあるのではなく、問題となってしまう(問題としてしまう)私たちの側に解決の責任があり、その解決を常に当事者とともに図ることを求めてきたから。

「プロセスを信じる」という事もとても大切だと思う。
私も常に結果ではなく模索し続けることだと思っている。
競技し続けることだと思っている。
なので「プロセスを信じる」という点は、人を排除しないということとして十分理解できる。
しかし、
当事者たちや私が「信じ」ても、
少数派として常に排除しようとする人たちに抗しなければならない状況はあった。
なので、「プロセスを信じる」と言われてもにわかに鵜呑みにはできない。

そんなことをあれこれ考えつつ、
その回答をオランダで取り組む講師たちに求めて行くのは違うと思う。
私は私が置かれている状況の中で、このFGCの考え方をどう参考にして取り組むかということだと思っている。
そして、
私はこの必要性を感じている。

だから、日本にいる人達同士で考えていくことが必要だと思う。

そして、
現段階で想い描いていることは、
「FGC」なるものが、「問題を解決する」ために開かれるならば、
それは大きな間違いだと思う。
なぜなら、
日本の中で起こる「問題」は「家族という単位が成り立つか否か?」「家族という単位を成り立たせるための課題は何か」ということにすぐつながり、
常に当事者を排除する異なる考え方を排除する形で解決を図ってきた。
それ故に、FGCが「問題を解決する」ために開かれるのであれば、
当事者や少数者の側にいる人達は、恐ろしくて導入を阻止する動きになる。

私も、FGCが「解決」を目的にするなら、阻止する(意味のないものにする)方向に考えると思う。
でも、
日々の忙しさを押して4日間の研修に参加しているのは、
これから新たな流れを作るものとして、
新たな流れを作るために大きく役立つ可能性を感じるから。

そして、
その実現のためにとりあえず今考えていることは、
「カンファレンス」という「問題解決を図る場」ではなく、
「ネットワークを構築する」という事。

問題が起こってからだと常に当事者の側に責任を負わされてしまう状況。
研修の中でも「輪の中心に問題を置く」と講師が言っても、
「当事者を中心に置く」と聞いてしまい混乱をきたしていたように思う。

どう考えても日本という場の中では、「問題」が起こると当事者の側の問題にされてしまう。

だから、
「問題解決のためのFGC」ではなく、
「問題が起こったとしても、一緒に取り組めるネットワークづくり」として考えるほうが良いと思っている。

そのためには、コーディネーターの意思というのがとても大きいと感じる。
オランダのFGCにおいては、「ファミリーグループ」が解決する事が重要と置く。
それは、「ファミリーグループが解決を図らなければ、行政や専門家が強制的に決めてしまう」という状況が待っているから。
ところが、
日本においては、「ファミリーグリープは、問題の解決を行政や専門家に求める」「行政や専門家が動かないために、家族が困難に陥っている」という立て方がされているように思う。

オランダのFGCコーディネーターは、ファミリーグループが問題を解決するためにコーディネーター自身は専門性を持たず、ひたすら当事者の周囲の人達に集まってもらうことのみに努めるという。
しかし、
それでは、問題解決のために当事者が排除されたり寄ってたかって本人を変える方向へと進んでしまう。

ならば、
「問題」として現れる前にFGという枠組みを作り、
日常的に関わる状況を生み出すことで、日々の中で起こる課題と日々の中で解決していく道を探る必要があるように思う。

最近思うことは
「問題が起こっていない所に問題がすでに起こっている」という点。
実は、上手く言っている時当事者たちは放って置かれ、
上手くいかなくなると寄ってたかって解決を図るという状況。

問題が起こっていない内に、様々な人とのつながりを作っておく事。
が重要だと思う。

なので、
まず必要なのはカンファレンスではなく、ネットワークだと思う。

それは、
特に意思決定にこんなんだを持つ知的当事者たちにおいてとても必要なんだと思う。

そして、専門家によらない解決を求めるFGCであるならば、
専門家以外の人達をどのように集めるか?という課題が生まれる。

昨今、障害を持つ子どもたちは、
教師や専門家たちによって別々にされ、
地域のつながりを奪われている。
「ともに生きる」という事が奪われている。

教師たちは「ともに生きる」事を願っても新たな関係を生み出す余裕がなく、
排除せざるを得ない状況に追い込まれている。

ならば、
普通学級で誰もがともに学べるようにFGCを開き、
日常的にその環の中で起こる事柄と向き合えば良いと思う。

そして、
学校を卒業した後、
その輪が当事者の自立生活を実現するための核となればと願う。

親が抱えている状況を親自身が解決する事が当然のように語られ、
孤立化する家族を教師や専門家が支えるのではなく、
地域として、クラスメイトの関係において支えていく。

長年付き合いを重ねるなかで、
当事者が親元を離れ自立生活を始める際の意思決定に参加し、
支援の核となって様々なサービスを使っていく。

ファミリーグループカンファレンスという名称そのものが与える誤解はさておき、
当事者が輪の中心にいるのではなく、当事者も輪の上にいて、
互いの関係の中で起こる様々な事柄を共有していく枠組みとして、
グループネットワークを構築する事をあれこれ最終日に指向したいと思っている。

※会場に向かう電車の中で思いつくまま書いているので細かい点はご了承を。





posted by 岩ちゃん at 08:36| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月08日

サービス等利用計画と相談支援事業と支給決定

サービス等利用計画の作成が義務となり、私の周辺で自立生活を営む知的当事者たちは特定相談支援事業所に計画の作成を依頼している。

これまでは、行政交渉と担当職員とのやり取りの中で、当事者の暮らしに必要な支給量を確保してきた。
重度と呼ばれる人たちが多い中で、それなりの支給量を確保してきたが、当事者とともに支給量の話し合いの望む
支援の側はサービスを担う側でもある。
行政は、交渉の中で「必要な量を支給します」とは言いつつも、
それは「行政が必要と認めたもの」でしかなく、
ある程度の支援量は確保できたものの、それ以上に支援の側が必要とするものはなかなか認めようとしなかった。
さらに、
支援を担ってきた側が事業所としてサービスを担うようになると、構造的に「事業所のお手盛り」状態となり、支給量を巡ってはこう着状態にあった。

そこに来てのサービス等利用計画の作成。
これまで直接行政とやり取りしてきた事を、特定相談支援事業所に対して伝え、第三者の判断として計画案を行政に提出するようにした。

行政に対しても相談支援事業所に対しても、こちらは同じことを伝えるが、第三者が立てた計画という事で、行政はそれを否定する根拠を示さなければならなくなった。

そのため、これまで突破できなかった支給量の壁が、軒並みサクッと突破できたという結果を生み出している。
(とは言っても、行政の裏も表も知っている私は計画段階であれこれ画策した計画にしている)

今回やり取りした重度の知的当事者は、
短時間の居宅介護や移動支援や日中活動を組み合わせて自らの暮らしを成り立たせている。

相談支援員と現状の支援と希望する支援を巡りやり取りした結果、
これまで支給されていた時間数もサービスの枠も上方修正され、
支給量が決定された。
(本来、必要としている時間であっても事業所の都合で派遣が受けられない分も、支給量として認められた。これは、実際利用できない/されていない支給は認めないという行政もある中、結果的に余してしまう時間が、事業所不足や人材不足を表すものになるため大切だと思う)

これで一安心と思い、実際支給決定通知を受け取って気づいた。

「居宅家事援助 160時間/月 1回あたり4.5時間」

時間数はOKなんだけど、この「1回あたり4.5時間」という数字。
その根拠は、
計画案の週間プランに書かれた、
家事援助の派遣時間のMAXの時間を表している事に気づいた。

通常はそれでも良い。
しかし、
例えば病気になった時。
予定外の支援が必要になった時。
4.5時間と派遣時間を決められてしまっては、
本人の暮らしは派遣時間に縛られてしまう。

私の周辺では、この週間プランと言うものは月の派遣時間数を積算するものでしかなく、実際の派遣時間はその人の暮らしに委ねるという事が了解されている。
ところが、1回あたりの時間数を決められてしまうと、突然必要となる長時間の介助に対応できない。

直接行政とやり取りしてきた時は、
この「1回あたり」の数字を、6時間とか12時間とか24時間という形で出させてきた。

今回の当事者もこれまで「1回あたり6時間」としていた。

しかし、計画を立てる段でそのような話は全く出されていない。
私もこの間重度訪問介護での支給を巡るやり取りに終始してきた感があるので忘れていた。

届いた通知に初めて気づいた。
すぐさま相談支援事業所を通じ変更申請を行った。

その申請は認められると思う。

ただこの件から思うのは、
サービス等利用計画は、本人の想いを実現していくために立てられるもの。
ところが、様々な場面でそれを阻害する仕組みが隠されている。
そのため、利用計画によって当事者の暮らしが縛られてしまう。

知的当事者たちの自立生活の実態を知らない相談支援事業所。
利用計画通りに派遣しようとする事業所。
机上のやり取りで決定していく行政。

いづれも当事者が暮らす事を支援するために存在していると思うが、
それぞれが気づかないまま、当事者の暮らしが制度やサービスによって縛られる。

「1回あたりの派遣時間」という枠組み。
本来は必要のないものと思う。
でも、それを設けられている状況に、
改めて、当事者にとっての支援を意識的に指向しなければと思った。
posted by 岩ちゃん at 12:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする