2015年07月20日

FGCを日本の中で考える

「FGC」=「ファミリーグループカンファレンス」
オランダで取り組まれているFGCを巡っての研修が17日から開かれている。
本日は最終日。
オランダでの取り組みが語られてきたが、本日の目的は
「日本でFGCをいかに実践するか」という事。

その目的のために3日間を費やしてきたとも言えるが、
これまでの研修を振り返ると参加者の皆さんは非常に消化不良状態のように思われる。

その原因の一番は、
「ファミリー」の捉え方となる前提が異なる点が明らかにされないから、
そこから生まれる了解不能さがあるように思う。

また「ファミリー=家族」は「血縁」としての「家族」ではなく、「当事者を取り巻く周囲の人々」とした場合においても、
日本では、「個人の権利を守る」ことよりも「家族」と言う単位を守る事に終始している状況の違いが明らかにされておらず、
日本では、「家族」という「輪」が崩れることが「問題」となってしまう点がなんとも研修の邪魔をしているように思う。(「家族と言う単位を守る」という事は、ご近所や地域という輪も守るひいては国という単位を形成する秩序を守る事が大きく、それを破る者を排除するか改めるによって解決を図ってきた歴史が講師や参加者一堂と共有されていない)

私自身も研修の場で数々の質問をしてきた。
それに対する回答がない中で悶々とする事もしばしばある。
でも、悶々とするのは私の日常なので、研修自体に悶々とするよりも、
自らが発した質問や他の人達が発した質問に対し、
私自身の中で回答を探ることに努めている。
(よって、私にとっては研修の場や講師の話そのものに何かがあるというよりも、考えるきっかけとして描いている)

「日本でFGCが可能か否か?」
と言う質問に、私は可能と答えてきた。
但し、私の頭のなかでは、それを実施するには30年かかると思っている。
その一方で、私が担っている現場は30年かけてこれに取り組んできたと思っている。

私がこの研修に参加した目的は、
@自らの活動を振り返るため。
Aこの取組に関心を抱いている人たちとつながるため。
と言える。

そして、Aについては休憩時間等でいろいろやりとりしてきたし、
他の人達から出される質問に講師が回答しなくても、
私は、その人達の考え方や想いや状況を知る機会として有意義な機会になっている。

そして、
@について
オランダのFGCは、ともかくとして、
私たちが取り組んできた事がFGCなのか否かという点において、
同じであり違うということがこの3日間で明らかになってきたように思う。

FGCでは、家族も含めたグループによって問題を解決するという。
「輪」をもって「解決」を図る。
「解決」を図るために「輪」を広げると言う。
その点では、
まさに、私が取り組んできたことと同じだと思う。

しかし、
私の取り組みにおいて、「家族(血縁者)」は、半ば排除してきた。
排除と言うと誤解されるけど、
「輪」の中に「家族(血縁者)」を入れず、血縁者については別途フォローに努めてきた。
なぜなら、問題は家族にあるのではなく、問題となってしまう(問題としてしまう)私たちの側に解決の責任があり、その解決を常に当事者とともに図ることを求めてきたから。

「プロセスを信じる」という事もとても大切だと思う。
私も常に結果ではなく模索し続けることだと思っている。
競技し続けることだと思っている。
なので「プロセスを信じる」という点は、人を排除しないということとして十分理解できる。
しかし、
当事者たちや私が「信じ」ても、
少数派として常に排除しようとする人たちに抗しなければならない状況はあった。
なので、「プロセスを信じる」と言われてもにわかに鵜呑みにはできない。

そんなことをあれこれ考えつつ、
その回答をオランダで取り組む講師たちに求めて行くのは違うと思う。
私は私が置かれている状況の中で、このFGCの考え方をどう参考にして取り組むかということだと思っている。
そして、
私はこの必要性を感じている。

だから、日本にいる人達同士で考えていくことが必要だと思う。

そして、
現段階で想い描いていることは、
「FGC」なるものが、「問題を解決する」ために開かれるならば、
それは大きな間違いだと思う。
なぜなら、
日本の中で起こる「問題」は「家族という単位が成り立つか否か?」「家族という単位を成り立たせるための課題は何か」ということにすぐつながり、
常に当事者を排除する異なる考え方を排除する形で解決を図ってきた。
それ故に、FGCが「問題を解決する」ために開かれるのであれば、
当事者や少数者の側にいる人達は、恐ろしくて導入を阻止する動きになる。

私も、FGCが「解決」を目的にするなら、阻止する(意味のないものにする)方向に考えると思う。
でも、
日々の忙しさを押して4日間の研修に参加しているのは、
これから新たな流れを作るものとして、
新たな流れを作るために大きく役立つ可能性を感じるから。

そして、
その実現のためにとりあえず今考えていることは、
「カンファレンス」という「問題解決を図る場」ではなく、
「ネットワークを構築する」という事。

問題が起こってからだと常に当事者の側に責任を負わされてしまう状況。
研修の中でも「輪の中心に問題を置く」と講師が言っても、
「当事者を中心に置く」と聞いてしまい混乱をきたしていたように思う。

どう考えても日本という場の中では、「問題」が起こると当事者の側の問題にされてしまう。

だから、
「問題解決のためのFGC」ではなく、
「問題が起こったとしても、一緒に取り組めるネットワークづくり」として考えるほうが良いと思っている。

そのためには、コーディネーターの意思というのがとても大きいと感じる。
オランダのFGCにおいては、「ファミリーグループ」が解決する事が重要と置く。
それは、「ファミリーグループが解決を図らなければ、行政や専門家が強制的に決めてしまう」という状況が待っているから。
ところが、
日本においては、「ファミリーグリープは、問題の解決を行政や専門家に求める」「行政や専門家が動かないために、家族が困難に陥っている」という立て方がされているように思う。

オランダのFGCコーディネーターは、ファミリーグループが問題を解決するためにコーディネーター自身は専門性を持たず、ひたすら当事者の周囲の人達に集まってもらうことのみに努めるという。
しかし、
それでは、問題解決のために当事者が排除されたり寄ってたかって本人を変える方向へと進んでしまう。

ならば、
「問題」として現れる前にFGという枠組みを作り、
日常的に関わる状況を生み出すことで、日々の中で起こる課題と日々の中で解決していく道を探る必要があるように思う。

最近思うことは
「問題が起こっていない所に問題がすでに起こっている」という点。
実は、上手く言っている時当事者たちは放って置かれ、
上手くいかなくなると寄ってたかって解決を図るという状況。

問題が起こっていない内に、様々な人とのつながりを作っておく事。
が重要だと思う。

なので、
まず必要なのはカンファレンスではなく、ネットワークだと思う。

それは、
特に意思決定にこんなんだを持つ知的当事者たちにおいてとても必要なんだと思う。

そして、専門家によらない解決を求めるFGCであるならば、
専門家以外の人達をどのように集めるか?という課題が生まれる。

昨今、障害を持つ子どもたちは、
教師や専門家たちによって別々にされ、
地域のつながりを奪われている。
「ともに生きる」という事が奪われている。

教師たちは「ともに生きる」事を願っても新たな関係を生み出す余裕がなく、
排除せざるを得ない状況に追い込まれている。

ならば、
普通学級で誰もがともに学べるようにFGCを開き、
日常的にその環の中で起こる事柄と向き合えば良いと思う。

そして、
学校を卒業した後、
その輪が当事者の自立生活を実現するための核となればと願う。

親が抱えている状況を親自身が解決する事が当然のように語られ、
孤立化する家族を教師や専門家が支えるのではなく、
地域として、クラスメイトの関係において支えていく。

長年付き合いを重ねるなかで、
当事者が親元を離れ自立生活を始める際の意思決定に参加し、
支援の核となって様々なサービスを使っていく。

ファミリーグループカンファレンスという名称そのものが与える誤解はさておき、
当事者が輪の中心にいるのではなく、当事者も輪の上にいて、
互いの関係の中で起こる様々な事柄を共有していく枠組みとして、
グループネットワークを構築する事をあれこれ最終日に指向したいと思っている。

※会場に向かう電車の中で思いつくまま書いているので細かい点はご了承を。





posted by 岩ちゃん at 08:36| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする