2015年08月31日

「失敗は成功のもと」にならない当事者たち

「失敗は成功のもと」というのは、
どこか成功したものが、過去を振り返って言う言葉のように思う。
でも、
私たちは幼い頃から小さな失敗を積み重ねて今日に至っているというのも実際だと思う。

ところが、
これが障害者と呼ばれる人たちにとってはどうだろうか?
自閉症圏にある重度知的当事者たちに対しては、
「失敗よりも成功体験を」と言われる。
それも決して間違いとは思っていないけど、
これがこうじて、
「失敗させない支援」となってしまうと話が違ってくるように思う。

「失敗をする権利」という事を言う障害当事者もいる。
それも間違いではないと思う。
他の人たちと同様に、障害があっても失敗をする権利はあると言うのは、
「失敗から学ぶ権利」だと言っているのだろうと思う。

ところが、
一度の失敗が形となって同じことを繰り返し、事をどんどん大きくする人たちがいる。
一度の失敗が極端なトラウマとなり、私たちが思い描く以上に後々まで事を引きずってしまう人たちがいる。
だから、
「失敗させない支援」というのも解るような気がする。

でも、
なにか腑に落ちない。

過去、警察沙汰になるほどの大騒ぎとなった自閉症を伴う知的当事者は、それ以後その場所へはいけなくなった。又、大好きだった博物館には、騒ぎになるも出かけていたが、
繰り返される騒ぎに「出入り禁止」とされてしまった。

正しく、
「失敗が成功のもと」にはならず、
事が起こる毎に世界が狭められてしまう現実が彼の人生にはあった。

そんな彼は、年月を経る中で、
以前大騒動になった場所に行けるようになり、
「出入り禁止」となった博物館にも行けるようになった。

ガイドヘルパーを使い、おっかなびっくりで数年ぶりに訪ねて行った。
そして、
ガイドヘルパーとして同行してみると、
騒ぎの原因が、
本人が理解しているルールとそこでのルールが違っていて、
その違いに本人もそこにいる人たちも気づかないまま事を進めた結果騒動になったことに気づいた。
又、
文脈なく語る彼の話の内容が相手には理解できず、
なんとか理解してもらおうとする彼の語りがますます理解されず、
逆に「こだわり」「しつこさ」という評価になってしまう。
理解されない彼と理解しようとしない人との結果が「出入り禁止」という事態を生み出したようにも思えた。

原因が判れば、対処の仕様も変わってくる。
ルールが違うならばルールが違うことを本人に伝えれば良い。(単に言葉の上で伝えるのではなく、実際にやってみたり、ルール通りのお店とルール通りでないお店を利用するとか)
相手に内容が伝わらなければ、相手が理解できる程度の話を補足すれば、あとは本人との会話が成立し、
会話が成立すれば、なんてことない話と本人も相手も理解する。

この件においては、
たまたま原因が判ったから対処もできた。
原因を想定できたとしても、本人がトラウマとして二度といかなければ確かめようもないし、
相手の誤解も解きようがない。

その手前で様々な関わりを作った上で、本人が訪ねて行く気になったから実現したこと。

でも、その手前の関わりがなければ、
一度の失敗は二度と取り組むことはない。
「出入り禁止」というルールを自らが変更するための取り組みをすることもない。

結局、
自閉症圏にいる知的当事者にとって、
「失敗は成功のもと」といえるのは、
身体当事者たちが「私たちも失敗から学ぶ権利」を求める事の上に、
「学ぶ権利」を実行するための支援が必要なんだと思う。

そして、
「失敗しても、支援があれば大丈夫」という事があってこその「成功のもと」なんだろうと思う。

ただ、
そんなことを言っても、何が失敗で何が成功なのか?という問いが常にある。
支援者が考える成功を本人に導くことが支援だと誤解する人達は多い。
又、
そもそも、失敗は全て本人の責任なのか?
世の中には様々な人がいて、様々な人がいるから常におりあうことが必要なのに、
一方的な「世間の常識」を当事者に押し付け、それが守れない時に「失敗」としてしまう価値判断が歴然とあったりする。

「支援・支援」と偉そうにいう私の中にもそれはある。

「失敗」が「成功のもと」になるとは、
言うは易しく行うは難しということになり、
まだまだ、当事者たちに様々な事柄を押し付けている私がいるように思う。
posted by 岩ちゃん at 13:25| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月24日

知的当事者に対する合理的配慮「わかりやすさ」って?

全国手をつなぐ育成会連合会のHPに
「知的障害のある人の合理的配慮」検討協議会報告書、およびわかりやすい情報 提供のガイドライン」が載っていた。

「合理的配慮」という言葉が巷で聞こえるようになってきたが、
知的当事者に対する「合理的配慮」ってなんだろうと常々思う。

そして、
記事の内容を見れば「わかりやすさ」という言葉で様々な事柄が報告されている。

確かに、「知的」障害故の「わかりにくさ」は巷にあふれている。
私たちにとっては何ら問題なく理解できる単語でも、
知的当事者にとっては難解で意味不明な言葉であり、
日本で生まれ日本で育ち日本語を使って入るが、外国にいるかのような状況が巷にあふれていると思う。

だから、
「わかりやすくする」というのは、「合理的配慮」なんだろうと思う。

しかし、
ふと湧き上がる疑問。
「わかりやすさ」って何?

様々な当事者と日々関わっていると、
確かに、「その人にとってのわかりやすさ」というものはあると思う。

例えば、計算が苦手な知的当事者がコンビニで買い物をするとしよう。
Aさんは、いつも千円札を出して買い物をする。
Bさんは、財布に手を入れ掴んだ小銭を順次だし、代金に達した時に店員が受け取る。
Cさんは、お財布を差し出し代金分を店員にとってもらう。
Dさんは、計算ができないので一つずつお金を払う。
Eさんは、お金の概念自体が解らず、ガイドヘルパーが代金分を本人に渡し、本人が支払う。
Fさんは、欲しい物を手に取り店を出るので、ガイドヘルパーは本人を静止しつつ代金を支払う。
Gさんは、Hさんは、Iさんは・・・・
と、
個別「買い物をする」「代金を支払う」ということにおいての「わかりやすさ」は様々で、
Fさんについては、ともすれば窃盗に間違えられてしまう可能性もある。

「わかりやすさ」と一言で済ませられない何かがそこにある。
「わかりやすさ」のガイドラインそのものが、かつて当事者たちとのやり取りの経験したことのない者にとっては大きな負担であり、「合理的配慮」の必要性を説かれ、懸命に対応を考えるも、
その相手は様々で、考えたやり取りが通じないという事もある。

でも、
AさんからFさんの例に上げた事柄を、
我が事務所のご近所にあるセブン-イレブンでは、それなりにやりとりしている。
長年、私の知人たちが利用してきたコンビニで、
新しいバイトの店員でさえ、そこそこの対応をしている。
(そのファーストコンタクトは、いろいろ大変なこともあるけど)

必ずしも常にうまくいくとは限らない。
常に配慮がされているとはいえない。
全ての知的当事者に対応できるとは思わない。

でも、
それなりに当事者たちは買い物をして来る。

「ここに合理的配慮がなされている」と言えなくもないが、
常にうまくいくとは限らない中で、
「合理的配慮」の有無で語ると無理がある。
又、
上手くいかない時に、
その責任はお店の側を責めることになりはしないかとも思う。

それでも、買い物ができるセブン-イレブンの存在は、常日頃から凄いと思っている。

それは、決して長い年月をかけ先駆的に「合理的配慮」を追い求めてきたのではなく、
長い年月をかけ「合理的調整」がなされてきた結果のように思う。

「配慮」とひとくくりでは語れない、個別様々な当事者にとっての「わかりやすさ」
他者にとっての「わかりやすさ」をあてはめても、
決して「わかりやすい」とは限らない。
個々の「わかりやすさ」はやり取りしなければ解らない。
様々な人とやり取りする中で「わかりやすさ」の想定は増える。

「わかりやすさの想定」を増やすためには、
「合理的配慮」という言葉で「結果(形)」を先に提示するのではなく、
私たちには理解できない「わかりにくさがある」という前提を持ち、
お互いの世界感の中で「調整」を図り続ける事が重要なんだろうと思う。

例えば
エレベーターを設置する。
と言うのは、
車いす利用者がエレベーターと向き合っているのではなく、
その場を所有する人と向き合い、何をもって「排除しない」かを考え、
「配慮」という名の「エレベーター」を設置する。

しかし、
知的/発達の当事者たちが抱えている困難さは、
ガチで相手とのやり取りの中で起こっている。

「人それぞれ」とは、
知的/発達の当事者と一括りではできない個別性がある。
それと同様に、
やり取りする私たちの側にも、様々な考えや価値観や段取り等々がある。

それぞれ同士の関係の中では、
何気にフィットする場合もあれば、
いくら考えても対応しきれない場合もあったりする。

だからこそ、
そこには「配慮」ではなく「調整」という形で、互いの状態や状況を出し合い、
次を生み出すことが必要なんだろうと思う。

「わかりやすさ」のガイドラインは、
関わるきっかけや関わり方のヒントにはなると思う。
しかし、
きっかけやヒントとしてのガイドラインではなく、
「エレベーターを設置する」と同様に、
そこに正解を求めていくと、
懸命になればなるほど、
うまく回らない状況は、当事者の側の責任になってしまうように思う。

だからこそ、
「配慮」ではなく「調整」なんだと思う。

そして、
「調整」にはプロセスが必要で、
「調整」を行うために様々な手立てを考える。

本人とじっくりとやり取りするのもしかり。
ガイドラインに示された「わかりやすさ」を試してみるのもしかり、
身近にいる人に当事者のことややり取りの方法を聞いてみるのもしかり、
出会うお客さんとのやり取りを店員同士で共有したり、
店員と当事者の支援者とが一緒に考える機会を設けたり。

「調整する」ことのためにやれることをやる。

そして、
「合理的調整」というものは、
正解がどこにあるかがなかなか見えない。
見えなくても、何らかの個別の正解がどこかにある。

「個別の正解がどこかにある」という想いを持つことが一番重要なことだと私は思う。

そして、
「必ずある」と自然に思えるようになるには、
幼い頃からともに学び/ともに育つ中で、
日々様々な事柄があっても排除されない。
排除されない中で、日々の事柄を解決していく。
そんな日常を子どもの頃から持ち続ける必要があると思う。

私は、
大人になってから「ともに生きる」とか「障害当事者に対する支援」等と考え担うようになった。
なので、
「どこかにある」というのはおとなになってからの経験としては持っているが、
「必ずある」とは思えない。常に「無理かもしれない。否そうではない」と自問自答している。

だからこそ、
幼い頃から「ともに生きる」「人を分けない」という事が必要なんだと思う。
そして、
「そうは言っても現実障害を持つ子どもが普通学級にいると・・・」という現実から「調整」を始めていかなければならないのだろうとも思う。
posted by 岩ちゃん at 10:43| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

24時間ダラダラ介助

朝9時少し前。
一人暮らしをしている重度知的当事者宅にヘルパーとして訪ねる。
普段の週末なら家主はまだ寝ている時間。
前に入っている介助者に様子を伺い、今日の段取りを組もうと思っていた。

ところが、
すでに起きていて、朝食も済ませている。
「これは、今日もお出かけモードかも」と普段の様子から思い描く。

前の介助者が帰るとすぐさま
家主「どこ行くの?」と聞いてくる。(おっ!予想通り!と思う私)
私「どこ行こうか?」と応える。(「◯◯へ行く」等と明確な答えは返ってこないのは常。なので、こちらであれこれ提案する事になるが、あくまでも本人の要望に応えるというスタンスで、半ば儀礼的に応えている。そして、次の応えが返ってくるわずかな時間にあれこれ考える私)
家主「・・・・・・・」
私「あれ?」と思う。(普段なら、何らかのリアクションがあるのに全くない)
私「どこ行こうかね〜?」(この時点では、1週間の夏休みも残り2日。いろいろ出かけただろうから、新たな出かけ先を提案するか?それとも、気に入った出かけ先にするかを考え中)
家主「・・・・・・」と黙ったまま、自室のTVを見だす。
私「・・・・・・・」(考えがまとまらないのだろうと様子を見る)

しばらくすると、
家主「どこ行くの?」と再び聞いてくる。
私「外は暑いからどこか涼しいところでも行こうか?」「映画でもどう?」と返す。
家主「うん!」
私「じゃぁ〜。出かける用意をするか!」
家主「・・・・・・」(普段ならあれこれ動き出すのだが、「うん」がどうも空返事っぽい)
私「・・・・・」

そして、
カーテンを締め、ベットに入り、横になる家主。
私「朝、早起きしたから逆に動きが鈍い?」などと思って彼のペースに任せていると、
「ZZZZZ・・・」といびきが聞こえてきた。
私「二度寝????」

そして、そのまま二度寝からの熟睡。
お昼すぎに、もそっと起きてきた。
私「寝ちゃったね〜」「出かけますか?」
家主「うん」と言いつつTV前に座る。
私「昼ごはんにする?」とTV前にいる彼に声掛けすると
家主「うん」と言って出てきたので、昼食を作る。

昼食を摂りながら、
私「ご飯を食べ終わったら出かける?」
家主「うん」「どこ行くの?」
私「どこ行こうか〜?」「映画とかどう?」
家主「おぉ〜!」

昼食を終え片付けていると、
家主は再びベッドに上がりTVを観だした。
ベッドのそばに座り、一緒にTVを見る。
結構、真剣に観だしたので、私も横になって観ていると、
再びいびきが・・・
私「昼寝?」と思いつつ様子を見る。
食欲はあるし、起きている時の雰囲気から疲れは見えない。体調不良という様子もない。

結局、私もそのまま寝てしまい、気づけば16時。
私「どうするのだろう?」と思いつつ、とりあえず夕食の準備をしていると、家主が起きてきた。

私「おはよう〜」
家主「おぉ〜!」
私「どうする?出かける?」
家主「出かける」
私「晩御飯はどうしようか?」
家主「食べる」
私「作って食べる?外に食べに行く?」
家主「食べる」

そんなやり取りをしていると夕立が・・・・

慌てて洗濯物を取り込みつつ
私「雨だよ〜。どうしようか?」「家で食べてから出かけるか?」
家主「うん!」
と言う事で、夕食作り開始。
あれこれおしゃべりしつつ夕食を作って一緒に食べる。
時はすでに19時半。

食べ終わると、
家主「どこ行くの?」
私「この時間から?」
家主「どこ行くの?」
私「どこ行こうか?」
家主「バス!」

彼が「バス」というのは、「出かける」の意。
この時間になって、出かける気になったのか?

私「じゃぁ〜。バスで出かけよう」
家主「おぉ〜!」

と言う事で夜のお出かけ。

バス停に向かう道すがら、
家主「どこ行くの?」
私「バスに乗って出かけて、どこかでお茶でもして帰ってこよう」
家主「おぉ〜〜!」

と言う事でバスに乗り、駅へ出る。
駅前の商店街をウロウロしてお店を探していると、
家主「どこ行くの?」
私「どこかお店にでも入るか〜」
家主「どこ行くの?」
私「お茶でも飲もうよ」
家主「・・・・・」

しばらく歩くと再び
家主「どこ行くの?」
私「どこ行く?」
家主「どこ行くの?」
私「じゃあ帰る?」
家主「うん!!」

と言う事で、駅前をブラビらして再びバスに乗って帰りました。
時間にして2時間ほど。

家に着くなり
家主「風呂。どうすんの」
私「入ろうか」
家主「うん」

すぐさま風呂に入って楽しく過ごす家主。

風呂から上がり、その後もダラダラと過ごす家主。
時折、声をかけてくるので応える私。

普段ならすでに寝ている時間。
でも、昼間あれだけ寝たんだから眠れないのは必至。
彼のダラダラに付き合う。

そして24時過ぎ。
電灯を消して、扉を締めた家主。
しばらくしていびきが聞こえてきた。

そんなわけで結果、
一日中ダラダラと過ごした。

一人暮らしを始めてまもなく3年。
私の場面でこんな日は初めてかも。

よくよく振り返れば、
夏休み5日目(終了2日前)。
いっぱいお出かけして満足していたのだろう。
「どこ行くの?」はもしかしたら、「どこかいかなければならないの?」の意か?
もしかして、
夜のおでかけは、私に付き合ってくれた?

「本人の要望に即して介助をする」と言うのは簡単。
行動が激しい人の場合やいろんな言葉を持っている人の場合は、
行動や言葉が本人の意思をそのまま表現しているとは思わないけど、
本人の想いを知るきっかけにはなる。
でも、
「どこ行くの?」という言葉「うん」「おぉ〜」のみでのやり取りでは、
なかなか相手の思いが読み取れない。

読み取れないからあれこれ提案するも、
そもそも「出かける気がない」という意思なら、
提案そのもの意味をなさない。
だからといって
「今日はのんびり過ごす」と決め付けるわけにもいかない。

そんなことを考えつつ入る24時間の介助。
ダラダラと過ごす介助は、意外に疲れるという事を知った。
posted by 岩ちゃん at 10:56| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする