2016年04月04日

差別解消法と合理的配慮

いよいよ始まった障害者差別解消法。
単なる法律の始まりではない。
ここに至るまでの障害当事者を取り巻く様々な歴史の上にこの法律が出来上がっていると思う。
その歴史を振り返り、ここに至るまでに展開されてきた中身を振り返ることで、まだまだ不十分である事柄の展開が見えてくるように思う。

例えばそれを「合理的配慮」絡みていくと、
入所施設に閉じ込められていた身体当事者の自立生活運動があった。
施設を出て街で暮らすようになると、街には様々な障壁があった。
それらは皆、実際地域で暮らす事で明らかになった、「本人の意思」と「社会」とのギャップが目に見える形で現れ、ギャップ事態が障害であると周囲の意識が変えられていった。

多くの身体当事者が、電車に乗りバスに乗る。
いろんなお店で買い物をする。
彼らの存在を抜きに作ってきた街故に起こる障壁。
それは、多くの当事者たちが街に出ることで、車いすを担がなければならない場面が増え、
拒否できないとなれば、担ぐ側の腰痛対策のためにスロープやエレベーターが求める結果に至る。
「電車に乗ります」といった本人の意思を拒否できない状況に至る歴史。
街の構造を変える方が周囲の者にとって楽と言う話。
正に、
差別解消法は、「拒否できない」ならば「エレベーターを設置したほうが楽」と言う中で、どうすれば双方にとって良いかを考えなされる事だと思う。

その始まりである「施設入所」
「施設入所があたりまえ」であった時代。
そこでは本人の意思に関わず、周囲の価値観と状況分析によって「入所施設の方が本人にとって良い」とされていた。
彼らの存在が邪魔とする人もいただろうが、それよりも本人の意思に関わらず周囲が描く「かわいそう」「なんとかしてあげたい」という(本人の意思に関わらない)肯定的な思いから入所施設が作られていったように思う。
そんな周囲の想いに対する、「自らの意思」を発し、「施設を出て街で暮らす」と言う歴史が、自立生活運動であったと思う。

ようするに、
「本人の意思ではなく周囲の意思」によって施設に入所されられていた人々が、
自らの意思を持ち施設を出て地域で暮らす。
街で暮らす中で作り上げてきたのがこの法律の一面だと思う。

では、重度知的当事者たちはどうだろうか?
知的当事者が家族と暮らす率は高い。
しかし、年齢とともに入所施設が増える。

それは、家族のもとで過ごせるならば家族と
家族のもとで過ごせなければ入所施設。
その狭間で「親亡き後」と言う発想のもと展開される。

それらは、入所施設であれ家族の下であれ、
すべての場面で「本人に意思がない」とされ、家族ないし施設が本人にとっての「良かれ」を思い取り組まれているように思う。

すなわち、「施設を出て地域で暮らす」事を求めた重度身体当事者の、その時代と何ら変わらず、周囲の意思で暮らす重度知的当事者たちが存在している。

「本人に意思がない」ではなく、「本人の意思が見えない(解らない/判らない)」と言うところに立ち、本人の権利保障として「施設」に入れざるを得ないというなら、
差別解消法における合理的配慮は、
まずもって本人の意思をいかに知るか、本人が選択できる状況をいかに作るかが、判断するための支援をいかに作る必要があるように思う。

私も含め「自らの意思」はどのように形成されうのだろうか?
自らの環境やその環境から考えたり、他者の環境やその中での考え等々を知ることで、様々な選択肢を得て、その中で選択し、実現に向けた取り組みの中で、様々な事を思考して築いていく。
それら全てを奪われた重度知的当事者の意思(家族や専門家の意思や解釈のみに委ねてきた意思)は、
今、目の前にある事柄のみをとって語られるものではなく、その人の歴史そのものを周囲と共有し明らかにしていくことが必要だと思う。

「フリガナをふる」「簡単な言葉で説明する」といった、
目の前の対応だけではないものを考える必要があると思う。

もし、今起こっている事柄の判断のための対応のみが「合理的配慮」とされてしまえば、
その取り組みを周囲が懸命にすればするほど、
「それでも明らかにならない本人の判断」は「判断できない人」とされる。
そして、「一番身近な人」と言う事で家族に判断を求める。
家族が判断できなければ後見人に判断を求める。

「判断能力がない」とされた人々。
じっくりと本人の判断を求めていくことができない中、
暮らしを止めるわけにもいかず、
目の前で起こる事柄に対する判断を行うために成年後見制度を必要としていく。

しかし、一旦被後見人になれば、「本人の意思/判断」=「後見人の意思/判断」になってしまう。

本人が自らの意思を持って判断するためには、
様々な経験や周囲の様子を知る必要がある。
入所施設や障害者施設等で、障害当事者ばかり集めてやり取りすれば、経験は奪われ周囲は皆障害者故にそれ以外の事を知らずに過ごす。
そんな中で判断を求められても判断できない。

それなのに、
促進法なるものを作り、成年後見制度を進めようとする人々は、
「本人の歴史(人生)」や「本人と関わる人たち」の存在をまったく無視し、今目の前に起こる事柄の判断に対しての評価で、後見人に丸投げできる体制を整えようとしている。

障害者差別解消法の裏で進められる成年後見制度利用促進法。
表面的には、知的当事者等の権利を保障するかのように語られている。
しかし、その実態は正に「合理的配慮」なるものを、後見人という人たちに丸投げする法律。
「市民後見人」という「専門性ではなくより市民に近い人達に後見を担ってもらう」というその「市民」は、正に障害当事者を社会から排除してきた人々であり、その人たちの発想によってなされるものの恐ろしさははかり知れない。

差別解消法における「合理的配慮」は、
まずもってその「配慮」を求める当事者の意思をいかに明らかにするかという点を考えぬかなければ始まっていかない。

このブログで成年後見制度に纏わる話をあれこれ書いてきた。
私の立場は、現状の成年後見制度はその理念とは真逆で、
一旦利用を始めるとどんどん本人の権利が奪われるため、
恐ろしくて使えないと言う立場。

なので、
成年後見制度を使わす、様々な取り組みを行い、重度知的当事者の暮らしを支援してきた。

差別解消法が始まった今、
成年後見制度を促進するのではなく、
成年後見制度を使わない(被後見人にしない)とすれば、「本人の意思がある」と言う前提が生まれ、
では、その意思を明らかにするための手立てをこうじるしかなく、
そういう人がより多く存在すれば、
「合理的配慮」の中身を様々な人と積み上げていくしかない。

現れる様々な障壁や不具合に対し、取り組むところに「合理的配慮」の意味があるのは、
正に、入所施設を出て街で暮らし始めた重度身体当事者たちの歴史にも重なり、
障害種別を超えたところでの「差別解消」や「合理的配慮」が生まれてくるように思う。
posted by 岩ちゃん at 12:06| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 差別解消法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする