2017年02月27日

「障害者である前に一人の人間」と言えても・・・

やまゆり園の事件は、私たちに様々なことを問いかけている。
その問の答えを未だ見いだせずにいる私。

長年地域に存在する障害児や障害者たちと、
暮らしと言う面から様々な事柄を取り組んできた私としては、
「起こるべくして起こった」と思うし
「そうならないように取り組んできたつもりだが、間に合わなかった」とも思う。
又、
一度に多くの方が亡くなり、傷ついた事件ではあるが、
障害当事者たちから見れば、これまでも同様のこと数々あったとも思う。
それはただ、私達には見えないだけの話で、
事柄の大きさゆえに、否応なしに目にし耳にしただけとも思う。

最近、このことを目の当たりにした職員たちのPTSDが認められ、
労災申請が承認されたと言うニュースが流れてきた。
それは、まったくもって当然の事だと思う。
そして、それと同様にその場にいた入所者たちも多くのPTSDに罹って当然だと思う。
(障害当事者たちは、その日の出来事だけでなく、その後の職員の様子や態度が理解できず、様々な混乱を健常者以上に抱いているようにも思う)

「一人の人間として、あの悲惨な出来事が起こった場で生活する事は無理」と、
建て替えではなく、これを機に地域で暮らすことを求める人たちがいる。
「我が子を思えば、入所施設で暮らすしかない」「早急な建て替えを」と訴える人々。

前者は、後者を「障害者の人権を無視している」と否定し、
後者は、前者を「実際の暮らしを知らず理想に過ぎない」と否定する。

「一人の人間として」地域の中で、「あたりまえに暮らす」と言う事を、
どのような形であれ障害当事者たちと関わった人ならば思い描くだろうと思う。
その一方で、
「あたりまえでない暮らし」
すなわち、介護が必要。静止が必要。自分を傷つける人/他人を傷つける人を前に対応を迫れる。

「自立」とは、何でもかんでも自力でするのではなく、
「介護を使って暮らす」という事も「自立」であるということをしばしば耳にするようになった。
東京パラリンピックを前に、「がんばる障害者」の中に「介助を使い暮らす」事も含まれるようになってきた。それに伴い、必要とする支援があれば「後は、他の人達と変わりない一人の人間だ」という声が、
年々通りやすくなっているように感じる。

ただ、
それは、費用対効果という天秤が常にあり、
多くの費用がかかるならば、効率よく施設に入れた方が良いとすぐになってしまう。

やまゆり園の話は、
本人が語れない(語らない)分、理想と理想の空中戦のように思えてならない。
かくいう私は、今直ぐ現場に飛んで当事者たちとやり取りするだけの力量がないため、
今、この課題に直接取り組んでいる人たちを思えば、戦いもせず空中を漂っているだけかもしれない。

でも、
私は、私の足がついている場でこの事件を思いつつ、自らの場の中でやり取りし続けるしかないと思っている。

そんな私が思うことは、
今でこそ、私自身が担ってきた重度知的当事者の自立生活支援について、一定の評価を受けるようになったが、過去このような空中戦を何度も経験してきた。

すなわち、
将来という目には見えないものに対し、
「地域でともに生きる」事を信じ、
「地域で共に生きるなんて理想」とする人たちに、「我が子ではなく、一人の人として」私たちを信用し委ねてもらえるように努めてきた。

決して、全てが上手く言ったとはいえない。
信じてもらえず、我が子を施設に入れた親御さん達がいる。
中には、泣きながら「入れてしまった」と報告する親御さんもいた。

そのたびに、自分の力量の無さを悔い、どうすれば良いのか?と悩み続けながらやり取りしてきた。

ここ2週間ばかり脇腹に痛みがあり、腫れているようにも思うが気をつけていれば、我が身の暮らしはなんとかなっていた。
でも、痛みが取れそうにないから整形外科を受診すると、先週、肋骨にヒビが入っている事がわかった。
「ひねる力が加わると良くならない」とコルセットが巻かれた。
言われるまでもなく、ひねりを加えれば痛い。
その原因が判って一安心したのだが・・・

コルセットを巻いて、今朝行動障害を伴う自閉症の当事者たち宅に向かう。
私自身生活に支障ない程度の痛みであり、
彼が落ち着いていればなんてことない介助。

ところが、今朝は落ち着きがなく大暴れ。
「ほっといて!」という当事者だけど、
室内にある物がどんどん壊される状態。
彼の言動がそのまま彼の要望を表しているとは思わないし、
何かに混乱してのことだとも思う。
ただ、
その手前で、どんどん事が大きくなっていくことを止めなければ、
本来一緒に考えなければならないであろう事柄と向き合えない。
普段なら、とりあえず行動を止めるための力技も使うが、
今日はそうは行かない。

まだ、室内で自分の物を壊すだけなら良いが、どんどんエスカレートして私を引っ張り出す。
それは、さすがにつかもうとする手を避ける。
すると、ますます落ち着かなくなる当事者。
自室であれば、それはそれで本人と私との間のことでやり取りできるが、
この状態で外に出れば、第三者を巻き込むのは必至。
巻き込む姿をただただ横にいて見守るというわけにも行かない。

「私の都合」と何度も謝りつつ、
私の前に入っていた介助者に戻ってきてもらい、彼の介助を交代してもらった。

本来は、私と前の介助者と本人とでやり取りを重ねたいところだが、
介助者二人に本人一人。
それはそれで、又違った受け止められ方もするので、後のことを介助者に委ね帰ってきた。

何が何でも担い続ける事を追い求めてきた私としては、
怪我をしているとは言え、担い続けられなかった事にショックを抱いている。

しかし一方で、
私の状態と当事者の状態を知り、介助を交代してくれた人の存在はとても大きくありがたい。

大暴れしているその場面。
これが家族が全てになっていたなら、
そして、これが日々続いていく状態であれば、
家族として入所施設を選択すると言うのも解らなくはない。

でも一方で、
何ら解決されてはいないが、介助を交代してくれる人の存在は、
入所施設を選ばなくても、とりあえず暮らしが続いていく。
暮らしが続いていけば、今の状況を次の段階で変える機会に繋がる。

入所施設の是非。
建て替えか地域か。
制度のあるなし。

いろんな想いと現実が錯綜する中で、
未だ、私はやまゆり園の事を何を軸に語れるのだろうか?取り組めるのだろうか?と悶々としている。

ただ、言えることは、
「目の前に存在しなければ、私は考えないだろう」という点。

やまゆり園の事が気になるのは、同じく入所施設に入れられ日常空間の中で出会えなくなった人達がいるからであって、関わった当事者たちが皆地域で暮らし続けていたら、この件はまったく他人事になっていたと思う。

これを機に、施設から地域へと言うのは、ありなのかもしれない。
「一人の人間として」と言うのは間違いではない。
存在を否定するものに対して声を挙げなければならないと思う。
否定された者のためではなく、否定してしまっている(見えない場に送り込んできた)私自身を否定する必要があるとも思う。
それは、他者を否定することが我が身も否定されるという実感があるから。

そんな事を思いつつも、
まだ何も見えていない私。

たぶん、
今回の事件をスタートにした語りが、どこかそれ以前を見えなくしているように感じているからかもしれない。

施設に入れざるを得なかった現実。
それを許してきた現実。

家族が「しかたがない」と思う気持ち。
周囲が「しかたがない」と思う気持ち。
どちらも「しかたがない」と思うも、その中身はまるで違うと思うのだが、
そこに何もコミットしないまま過ごせる現実。

今朝の出来事から、悶々と考えている。

悶々と考えながら、介助を代わってもらった時間にこのブログを書いている。

そして、午後から別の自閉症を伴う重度知的当事者の介助に入る。
現時点でその人の代わりを担える人はいない。(暮らしの介助事態は誰かに代わってもらえるだろうが、私と当事者とでやっていることを担える人がいないという意)

今朝と同じ状況になればなったで、なんとかするしかないのだが、
決して私一人で一人の当事者を支えているわけではなく、
当事者自身も自らの暮らしを築き、様々な人が当事者と関わり合っている。

理想を追い求めているが、
その一方で、現実と向き合い続けている。
そして、
その現実は、一人ではないという実感の中にあり、
互いの関係性の中で続いているもの。

「障害」が本人を規定するものではなく、
「互いの関係の中で起こっているもの」であれば、
「障害があっても一人の人間」と言う表現は違うように思う。
「障害があっても」と言った瞬間に、起こる事柄は全て「障害者」の側に追わせることになり、
全てを相手に追わせた上で、私たちは何をするかになってしまう。

そうではなく、
関係の中で起こっている事柄であれば、
ともに解決する道を追い求めなければと思う。

私は、ともに解決を図る事を追い求める中に、何らかの解答が生まれるように感じている。
posted by 岩ちゃん at 10:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

自閉症をともなう重度知的の当事者の行動の意味

朝、日中活動の場に出かけようとしない自閉症を伴う重度知的の当事者Mさん。
重度訪問介護で前日から入っているヘルパーさんは先週も出るのが遅かったので、
今週もまた遅くなるかもしれないと思っている。
幸い、日中活動を休んだ際には重度訪問介護で対応できることになっているし、
その日は、次の予定がないので本人に則した対応ができるので状況を見護ってた。

そこへ、Mさん。
「ピザ!!」と言ってきた。
彼は毎月最後の日の夜はピザを注文し食べるのを楽しみにしている。
普段は夜に注文するピザだが、本人の要望として受け取るヘルパーさん。
そして、なかなか出かけようとしない彼に、「今日は休み(にするの)?」と聞く。
「今日は休み!」と返事するMさん。
先週もお昼近くまで家を出る事ができず、日中活動の場に相談すると「もしかしたら有休を使いたいのかも」という話になり、先週は結局使えなかったけど日を改めて「今日は休みにすると言えた」と受け止めた。

ほどなく、ピザが届き
しばらくすると、
出かける用意を始めるMさん。
「あれ!?〇〇に行くの?」とヘルパーが聞けば、「行く!」と言って家を出たので後を追う事に。
そして、お昼前に到着。

いったいなんだったのだろう?
その後はなんの戸惑いもなく一日を過ごし、
夜のピザは朝に注文したため、改めて注文する事もなく、
翌日に至って、淡々と過ごす彼がいた。

私たちの流れから考えれば、
「今日は、仕事に行きたくないし、有休も残っているから、ピザでもとって休みにしよう」と思い描き、
でも、ピザを食べて満足すれば、
「やっぱり、休むと給料が減るから今からでも行って仕事をするか」と気が変わったとなる。

遅刻する事の是非は置いたとしても、
自分の要望を出せるMさんとそれに応えて臨機応変に対応するヘルパーさんの凄さを思う。
又、
自閉症ゆえに段取りにこだわるMが、淡々と予定を変更できる凄さを感じるし、
そのような関係を築いてきたヘルパーさんの凄さも感じる。

二人の関係の凄さを思うと感心するばかりなんだけど・・・

話を「ピザ!」と言った時点に巻き戻してみる。

「(今晩は)ピザ(の日だね)!」とか
「(今晩の介助者に介助者に)ピザ(を注文するように伝言して)!」という意味だったらどうだろうか?

Mさんは、今晩の予定の話をしているのに、
ヘルパーさんは今の要望として受け止め対応する。
対応されてしまったMさんは、目の前に現れたピザを食べるしかない。
そして、
予定を変更したというのではなく、そもそも予定を語っただけなのに、ピザが届いてしまい、
それを食した後、予定通りに日中活動の場に向かったとしたら・・・

そこには、Mさんとヘルパーさんのズレが生じている事になる。

そして、
予定を告げただけなのに誤解され、
ヘルパーの対応に、段取りがくるってしまったことにパニックにならず、
その後、自分の予定を誤解のままに淡々とこなすMさんの凄さが際立って思えてくる。

そして、
ヘルパーさんは、誤解に気づかなくても決して本人の不可解な行動を否定しない対応の凄さを思う。

そんな話を別のヘルパーさんに話すと、
「Mさんって、先の予定を要望するという事があるんですか?」と聞かれた。
「たぶん今まではそんなことはなかったと思う。いろいろ想定して段取りして自分が了解できる事を伝えるのに必死で、先々の事を思い描いて語るという余裕はなかったように思う。でも、最近予定を聞いて行動を決めるという事があるので、もしかしたら予定を告げるという事もあるかもしれない」と応えた。

そう自分で応えた刹那、
「できるようになったのではなく、そもそもやっていた事を私の方が気づけるようになったのかも」と頭をよぎる。

もしそうであるならば、
気づけるようになったのは、最近ヘルパーとして関わり始めた人たちとの関係によって、本人の表現が判り易くなったのかも。
そうであるならば、
長年Mさんと付き合い続けてきた私は、長年気づかないままに彼と過ごしていた事になり、何とも恥ずかしい想いがしてきた。

本当のところは解らない。
でも、
解らないままではやり取りは進まないし、
解らないと言いつつもどこか勝手な解釈で本人たちの行動を判断している私たち。

ならば、
思いついた事柄をお互いが「もしかしたら・・・」と言葉にだし、
それぞれが描く「もし」を寄せ集めれば、どこかに正解があるかもしれない。

又、常に周囲の勝手な解釈で受け止められている当事者たちは、それを前提として周囲にいかに合わせるかが大きな課題となる。
でも、周囲が言葉に出してあれこれ語っていく、
「それそれ!」という事も出てくるかもしれないし、
解ってもらえた経験が増えていけば、
私たちも勝手に解釈して当事者に接し、当事者も自らを表現する事で一人でパニックになるよりも、やり取りの先に想いが伝わるという経験につながり、
双方向の関係が生まれてくるのではないかと思う。

とは言っても、実際のところ何を考えているのか解らない方が圧倒的に多い。
解らない故に、当事者たちにはとてもつらい思いをさせているかもしれない。(かもではなくさせている)

当事者たちは決して一人で生きているわけではない。
場面としては、ヘルパーと一対一の関係が多いが、それだけではない。
様々な人や様々な経験を経て今に至る当事者。
ヘルパーという職はどうしても、目の前の人とのやり取りに終始しがちだけど、
お互いが想いを出し合い当事者とともに事柄と向き合っていきたいと願う。
posted by 岩ちゃん at 11:07| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする