2017年03月29日

行動障害の原因は?

ガラスを割る。
壁を壊す。
人を殴る。
人に向かって突進する。
人の物を奪う。
大声で叫ぶ。
大暴れする。
等々。

いわゆる「行動障害」と評される障害当事者たちの行動や表現。

その原因をあれこれ探る。
目の前で起こる事柄に原因がある場合もあるが、
その後の事が気になって起こす事もある。
前に会った出来事を思い出しての事もある。

原因(理由)に対する行動であれば、
なかなか見えない原因(理由)であっても、やり取りを重ねる事で見えてくるものもある。

しかし・・・
積もり積もった事柄の中で起こっている事であれば、その原因(理由)はなかなか解らない。

コップに入った水に喩えてみる。
コップを本人の安心感。
水を本人にとってのストレス。

コップに水が半分も入っていなければ余裕で運べる。
コップに八分目ほど水が入っていたなら、ちょっと慎重に運ばないとこぼれる。
コップに摺り切り一杯の水が入っていたら、「お口でお迎え」しなければコップを動かす事ができない。

さらに、
水の表面張力によってさらにもう一サジ水を入れて大盛りの水が入ったコップ状態。
そこに、スポイトでほんの1滴水を足した途端に、たくさんの水がこぼれだす。

このこぼれる状態が「行動障害」と評されるものであったとしたら・・・

最後のスポイト1滴の水さえなければ「行動障害」と評される行動や表現にはならなかったあろう。
そもそも、ストレスとなる事柄が八分目や半分以下になっていたら、スポイトの1滴なんて全く気にも留めない。

私たちは、こぼれそうでもこぼれないコップの水に対し、慎重に扱い対処する。
でも、一旦こぼれてしまうと大騒ぎ。
もしかしたら、又こぼすのではないかとやり取りさせてもらえないかも。

原因(理由)が最後の1滴にあると思っていると、
「この1滴がなければ」となる。
でも、それも一つの原因(理由)かもしれないが、それ以上にたまりにたまった水(ストレス)の方を、ごっそり取り除けばだいじょうぶという事もあると思う。

コップを当事者の許容量。
水をストレスの量として見た時、
最後の1滴のストレスにのみ目を奪われる事なく、
当事者自身がため込んでいるストレスに対し、
本人自身で収められるようなやり取りに心掛けたいと思う。

posted by 岩ちゃん at 15:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

連続性の中での自己決定

以前、彼女と2泊3日の旅行に出かけた時のこと。
海辺の民宿で格安の宿。
格安故にあまり料理には期待を持っていなかったけど、宿屋の主人は漁師さんで自分の船も所有しているので、
その日に取れた地魚で料理を作ってくれるとのこと。
1日目の夕食。
それはそれは豪勢なメニュー。
刺し身に焼き魚に天ぷらに煮付け等々。
地の魚をふんだんに使った料理の数々。
「この値段で、この料理」「追加料金を取られるのでは?」と心配するほどの魚料理に大満足した。
2日目の朝食。
大きな干物と魚の内蔵で作った見知らぬ料理等々。
これまた、朝から何杯もご飯をおかわりするほど豪勢な料理に大満足。
2日目の昼食。
朝からたくさん食べたのでちょっと控えめに、
でも漁師町故に、変わった名前の料理名が目に入り昼も魚系料理を食べる。
2日目の夕食。
昨夜とはちょっとメニューは変わったけど、基本魚料理。
魚料理は大好きなのでこれまた大満足。
3日目の朝食もしかり。
そして、3日目の昼食はこの場を去ることを惜しみ、
普段食することのない魚料理を求めウロウロ。
魚で作ったファーストフードを食す。

大満足の3日間。
そして、帰路についた時、家に帰ってから夕食を作るのも億劫だからと、
旅の最後の外食先を探しつつ車を走らせた。

彼女と「何食べようか?」と相談しながら車を走らせる。
そして、入ったお店は・・・
「焼肉屋」

3日で6食魚料理。
魚料理は好きだし、変わった魚料理も食べることができて大満足。
そもそも、それがお目当てで海辺の宿を選んだし、
格安でこれほどまで魚を堪能できたので言うことは何もない。

でも、
6食も十分なほどに魚料理が続けばさすがに飽きる。
決して魚料理が嫌いになったわけではない。
(逆に新たなメニューが加わり、自宅でどう再現するかと言う話も盛り上がる)
なので、単に魚料理が続いたから飽きただけ。
魚料理よりも肉料理の方が好きということでもなく、
どちらも好きなんだけど、
魚料理が続けば、次は肉料理と言う感じ。

「自己選択」「自己実現」を十分に果たせた旅行で、
自らが選択したことに間違いはない。

でも、
たとえ大好きなことでも、それが続けば飽きる。
そればかりだと嫌になるかもしれない。

重度知的当事者たちの自己選択・自己決定・自己実現の支援を担う時、
そもそも本人たちの想いがどこにあるかが解らないので、その解明から懸命に担う。
本当のところは判らないけど、日々やり取りしていると本人の好みがなんとなく解ってくるし、
本人の要望と思って取り組んできたことが、
実はそもそも違っていたという事を実現した後に気づくということもある。

なので、ひとたび確信めいた本人の思いを知るとその実現に向けて懸命に支援を担うということもある。

でも、
そればっかりだと「本人は飽きる」ということだってあるだろう。
「単に続いたから飽きただけ」なのに、「飽きた」状態を見て飽きたことを「本人はそもそも望んでいない」と周囲が認識すると、再び欲しても誰も支援しないということが起こってしまう。

「自己選択・自己決定・自己実現の支援」と言うも、
その中身については、まだまだ何も解っていない支援の側にいる私。
という事を、ふと思い描いた。
posted by 岩ちゃん at 12:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする