2017年09月28日

「地域移行支援」って何?

そもそも、地域で暮らす当事者たちが障害を理由に地域から奪われない取り組みを担ってきた私としては、
「地域移行」という発想がない。
地域で暮らし続けるために当事者が幼い頃から長い年月をかけ、様々な出来事を共有し、関係を築き、地域の人たちの理解をも求め担ってきた。

昨今、「地域で暮らすための支援」の実績が買われてなのか?
精神科病院から「患者さんの退院に際して関わって欲しい」という依頼が舞い込んでくる。

私自身が担っている取り組みの現状さえ常に危うい状況なのに、
全く見ず知らずの人の地域での暮らしを支援するなんて到底できないと思う。

でも、
そもそも精神科病院で暮らす必然がない人たちの存在を思えば、なんとかしたいと思う。
それは、
社会的入院を強いてきたのは私自身であり、私たちの社会が変わらなければ永遠に入院を強いられている人たちは社会に戻れなくなると思うから。
そして、
その状況を許してしまうという事は、
今地域で辛うじて暮らし続けている当事者たちが、
一旦事が大きくなれば、すぐさま精神科病院に「収容」されてしまうという危機感を抱いているから。

なので、
なんとか応えたいと思う。
でも、なんともできない状況。
それでも、とにかく患者さん本人に会って、
どのような支援があれば良いか、
どのような支援や人とつなげれば良いか、
と言った、
これまでの経験の提供と地域でのつながりを提供するぐらいならと思って出かけていく。

私にとって「支援」とは、
「支援」という以前に、その人との関係を築く事から始めなければ意味がないと思っている。
ただ、
築いた関係の上に、様々な人や関係機関とのつながりを築いていかなければ、関係性だけでは担いきれないと思っているので、
全ての人が、「本人との関係性の上に立って」などと求めるつもりはない。
明らかになった本人が必要とする支援を四の五の言わず、仕事として担ってくれる人や事業所の存在はとても重要に思う。

でも・・・

地域移行に際して集まった方々。
16人もの「肩書」のある人たちと会議を開いた時、
本人と日常的なつながりのあるのは病院関係者のみで、
他の人は、日常的に本人とのやり取りがない。

そんな中で開かれる退院(地域移行)を巡る話。

過去の状態・今ある本人の状態・将来のリスク回避。
やってみなければ判らないことだらけなのに、
なぜか、支援計画は決めないと進められない。
それぞれの役割を明確にし、
こぼれ落ちるリスクは誰の責任で回避するのか?という確認。
何か起こった時の連絡体制や連携の方法。

そして、
計画案に盛り込まれる本人の意思と努力。

そんな会議に同席していて思うことは大きく2つ。

一つ目は、
障害当事者が地域で暮らせなくなる状況は、
どれほどの支援があっても、本人並びに支援者が気づかない想定外のところで常に起こるという事。
(想定されていれば退院もさせないでしょうが・・・)
それを地震予知に喩えると、
どれほど研究や実績や統計が集められたとしても、
いつ、どこで、どういった自身がどれぐらいの規模で起こるのかは誰も予知できない。
予知できないのに膨大なお金を注込んできた我が国の方策と同じ。
そして、
予知できずに起こった大きな災害は「想定外」の一言で済ませ、
取り組んできた事の責任を問わない。
それを地域移行支援なぞれば、
何がどのようになっていくかが解らない中で、
懸命に支援計画を立て、
可能な限りのリスクを回避し、
本人の努力を求めていく。
専門家たちにより計画は、地域の人には訳が分からず、
ただただ地震速報のごとく「退院しました」「このアパートで暮らしています」
という形でただただ示されるだけ。
そして、
支援の隙間で起こった事は、本人の責任として再び入院という形になっても、
支援の責任は問われない。
「想定外だった」
「どうしようもなかった」となるか。
「医師をはじめとする病院関係者の退院の判断」を責任とするという話になる。

もう一つは、
本人の事を書面程度にしか知らない人たちが、退院後の支援計画に関わるという話。
先の話、想定外の事が起こっても本人との関係が既にあれば、リカバリーは容易だと思う。
でも、本人との関係がない中で起こる想定外は、更なる想定外を想定し、出来事がトラウマになってその先の事に委縮し、どんどん当事者との関係を閉ざすという悪循環を生み出す。

ならば、
病院にいる間から関係を築いていく(せめて本人に何度もあって知り合いになる)事が保障されていかないと、地域で支援を担う事業所は恐ろしくて関わり切れない。
又、地域で支援を担っていた事業所は、まかりなりにも地域で暮らす支援の取り組みを積み重ねている。
その積み重ねとつなげていくには、本人を理解し事業所側が持つ者とつなげていくことにあると思う。

ただ、事業を担う側は手弁当でそんな事をしない。
そこに何らかの手立てが必要だと思う。
でも、
関係者会議に参加するだけがせめてものという状況で、
ますます、紙面のみで本人を把握することになってしまう。

事が起こった時の解決をともに担うという経験がない中で、
いきなり引き受け、事が起これば引き受けた事業所の責任にされるのだら、
どこの事業所も引き受けなくなる。

それを象徴するのが、
「退院日」という大きな一日。

病院を一歩外に出れば地域での暮しのスタート。
当事者本人は、希望が叶い喜びの瞬間でもあるが、
長年病院で暮らしてきた故に不安の方が膨大にあったりする。
「病院⇒地域」という日の「⇒」の時間と状況は、
とても重要で、そこに地域の人(事業所)が関わる事で
移行というものが実現していくように思う。

ところが、
行政は、退院日に現れる「病院⇒地域」は、「病院」の管轄で地域で暮らすための制度は支給しないという。
そして行政は、「次の日から使えるよう努力します」と、さも自分たちが頑張ってやってあげるみたいな雰囲気を醸し出す。
でもこれは、地域の側からすればいきなり「地域」での支援になり、本人の暮らしの変化にはつきあえず、
何がどう変化しているかもわからないままに、「いきなり」支援に関わる事になる。
これは正に、
荷物の受け渡しと同様で、送り手は相手に渡すまで責任があり、渡した後は受け取り手の責任。
荷物を運ぶ道中は送り手の責任。みたいな感じ。

こんな事で「地域移行」はどんどん実現されていくのだろうか?
本来歓迎すべき事柄で、みんなで意気揚々と取り組める事柄だと思うのだが、
現実は決してそうではなく、誰がどのように責任をとるのかみたいな話ばかり。

そして、
誰か一人、とにもかくにも「何があっても責任をとる」というキーパーソンが現れると、
実は話はどんどん進んだりする。
地域で暮らしている人たちが自立生活を始めようとする時、長い年月をかけてキーパーソンとなる人が現れともに育っている。
しかし、
地域移行という新たな人と新たな場での暮らしにおいて、キーパーソンとなる人がいないのが現実。
キーパーソンがいなければ、引き受けてくれる「場」探しに終始するしかなくなる。

「専門家や事業所等の連携」という話を良く耳にするが、
その方向性は、
肩書のある人たちがつながって、リスクを回避するみたいな話ばかり。
リスクが回避できたなら、余暇等の楽しみ等も含め本人にとって有益と判断された物や場を提供するみたいな話ばかり。
暮しのプラスアルファの提供は、リスクが伴わない事が前提。
すなわち、当事者の暮らしが拡がればリスクも高まる。連携先も増えるので大変になる。
本人が一人でやれないなら提供もない。
すなわち、提供するカードは常に支援の側が持っていて、
当事者の側が自ら追い求めていくという支援ではなく、
支援の側から提供されたカードの中で選択を迫られる。
それでも選択できるカードがあるなら良いが、
あれこれ条件を付かられたり、選択という名での強制だあったりする。

こんなこと以外にもあれこれ見えた事柄があるのだけど・・・

過去、精神科病院の閉鎖病棟に友人として入る事が許されなかった時代。
親御さんの依頼があっても医師が許可しなければ認められなかった。
又、辛うじて認められ本人と面会した後、本人の状態が悪化(と病院側が判断)すると、
それがたまたま出会ったり、何かを訴えている状態であったとしても、二度と面会が許されなかった。
又、精神鑑定等で措置入院が決まると移送先の病院さえ教えられないという事もあった。、

そんな時代を思うと、
様々な不十分さがあったとしても、地域に戻そうとする病院関係者の取り組みは凄い事だと思う。

そして、
本来、地域で暮らす人なのに入院という名の収容状態にある人の退院を巡り、地域の人が関われる機会が生まれているというのは地域の側としては歓迎すべき状況だと思う。
精神当事者を囲い込んできたのは病院関係者だと思う。
でも、
その病院に入院させた/入院せざるをない状況を作ってきたのは私たちだと思う。

いろんな不十分さはあるにせよ、
病院側が門を開こうとするなら、
「地域でともに」という行政の側は、そこに応えて取り組み、市民を巻き込んでいく事が「地域移行支援事業」だと思う。

ところが、
ようやく門を開き始めた精神科病院に対し、
「余計な事をするな」という雰囲気を醸す行政。
「本人の意思というなら本人の責任」「それを認めた病院の責任」「勝手にやるんだから行政に頼るな」みたいな対応で、地域で暮らす制度をどのように活用するかという発想ではなく、いかに地域で暮らす制度を使わせないかという発想に立っている人々。

行政がそのような態度であれば、
制度を引き受ける事業所は応えようもない。
日々の暮らしに関わる事業所が応えなければ、
周囲にいる人たちはどう関わって良いかさえ分からず、福祉という名の専門家たちに任せるしかない。
必要となる支援が十分でない故に起こる不具合は、全て本人の責任とされる。
すなわち、支援の提供の有無に関わらず、本人自身の努力がなし得なければ、
再び「入院」という話になってしまう。

そして、退院に向けた支援会議であるはずなのに、
「病状が悪化した際再び入院する時の同意は、保佐人がしてもらえますよね」等と聞くしまつ。

怒りがこみ上げてくるも、怒れば怒るほど私自身が引き受けるしかなくなる。
私だって既に飽和状態にある。

でも、
本来、入院している人ではないと思うから、
なんとかしたいと思う。

本来「地域移行」は、歓迎すべき事柄だと思う。

でも、
世の中はまだまだ「人に迷惑をかける輩は収容しろ」という感覚。
「やるなら勝手にやれ」という感覚。

それは、まさにこれまで関わってきた当事者達に向けられる社会の目。
この状況を見過ごせば、いづれ私が関わっている当事者たちお同様にどこかへ収容されていく。

なんとも自分の力量のなさを痛感している。

でも、
世の中には、私以上に様々な知恵と力量を兼ね備えた人たちがいると思う。
ほんの少し発想を変えれば、無理なく地域移行が実現できるように思う。

その一つが、
入院中から関係を築いていくという事に思う。
病気や障害を知る事よりも、
その人自身を知る事に努め、
それぞれがそれぞれに得意な分野を出し合い、
その事を持って地域の人たちにつなげていく。

世の中の人たちは、出会った事がない故に精神障害当事者に不安を抱く。
何か起こるのではないかと防衛的になる。
事業所の人たちも、実は出会う機会が少なく、専門的な研修を受けただけで、予防的になる。
病院関係者は、病棟という限られた空間でのみ当事者たちとたくさんあっているが、社会と病院との接点を築くのはまだまだこれから。

「地域移行」の「地域」には、精神障害者に対し強い偏見を持っている人たちもいるが、地域で暮らす事があたりまえと描く人もいる。でもそういう人たちはいづれもごく少数だと思う。
大多数の人は、ただただ出会ったことがなく、訳が分からないまま話だけが先行し不安を募らせているだけに思う。
ならば、
いかに、大多数の単に不安を抱いているだけの人との接点を求め、不安の解消に努めていけば、なんてことなく地域で暮らす事ができるように思う。
それを「〇〇家」や「〇〇事業」や「〇〇相談」等々で囲い込んだ上で「地域移行」を実現しようとするから互いに無理が生じる。

うだうだ書いてしまった私。
ますますレアなケースばかりに遭遇し、その解決をあれこれ余裕のない中で一人考えていると、
ますます事柄の一つ一つを共有して話し合える人が減っていく感がある。
つながりを一番求めているはずなのに、要望ばかりが舞い込み、一人ではどうしようもないのに一人で考えてしまっている。

そもそも素人の私にも担える事がたくさんあるのだから、
私以上に力のある人たちが、ほんのちょっとでも興味を抱き、ほんのちょっとでも当事者と出会い、ほんの著って力を出してくれれば、世の中は凄く変わると思うのだが・・・



posted by 岩ちゃん at 13:16| 東京 ☔| Comment(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月26日

「普通」って何?

身体に四肢麻痺がある。
目が見えない。
耳が聞こえない。
独特のこだわりがある。
奇妙な行動をとる。
等々。

「普通って何?」という問いを発するのは、、
世の中の大多数とは違う障害当事者自身が、
自分にとっての「あたりまえ」を訴える事だと思う。

人から憐れみを受けたり、過大な高評価される自身は、
あくまでも「これが普通」という事を訴える。

そして、
昨今、「発達障害」という概念が広まる中、
TVでは「発達障害とは何か?」みたいな番組が多々流されれるようになった。
それは、その当事者や家族からすれば、「それがその子/その人自身」である事を理解して欲しい。
又、私たちに理解できず受け入れ難い状況から少しでも脱却し、
その人にとっての「普通」を理解したいという世の変化で、
とても大切な事だと思う。

なので、
しばしば語られる「普通って何?」という問いかけは、
当事者個人をいかに理解するかという話。
「一人の人間」として「ごくあたりまえに受け止めて欲しい」という話なんだと思う。
それは、身体当事者達や言葉で語れる発達障害や精神障害の当事者達とその家族や支援者等の周囲にいる人たちによって語られる。
「普通」を疑い、
「普通」=「多数」という事でしかなく、
「個」の主体を大事にするならば、
「普通が普通でない」という話。
そして、「多様性」をより多くの人が理解するためのプロセスなんだろうと思う。

でも、
私はある面「普通は・・・」という言葉を良く使う。
「あたりまえに」という言葉も良く使うし、
自分の中で意識している。

例えば、
ヘルパーとして介助に入った時、
「普通、若者は休日出かけるよね」とか
「普通、外食よりも家で作って食べる方が良いよね」といった事を意識して介助に入る。
でも、この場合は「普通」は「私の場合は」という意味。
様々なヘルパーが当事者宅に現れそれぞれの「普通(=私の場合は)」をもって当事者の介助にあたるのは、
「一つの提案」としてとても重要な事だと思う。
身体障害当事者等、自ら介助者に頼み介助を使い過ごせる人とは違い、
重度知的当事者や発達障害や精神障害の人たちが何を求めているのか?という問いに対し、
様々なヘルパーや様々な人の「普通=私の場合」を提供し、
「あなたの普通/あなたの場合は?」を探り出す事が必要だと思う。
特に、
長年社会的入院を強いられてきた人たちや家族と専門的な関わりの人しかいない当事者たちの場合、
限られた選択肢しかない中で、自己選択を迫られても応えようがない。
「私の場合は」という「普通」を提供/提案して、その人にとっての「普通」を築く事もまた支援の内のように思う。

そんな事を先の話にあてはめてみると、
実はすごく悩ましい。
ある人は、「休日は、雨でも出かけがる」と言い
ある人は、「天気が良いのに家でゴロゴロしていました」と言う。
「そういう日もある」と解釈すれば良いのだけど、
それぞれ異なる「私の場合=普通」に合わせて付きあう当事者の存在を思うと、
何が「その人の普通」か判らない。
でも、そこは日々関わり続ける中で意識していく事を課題に置きつつ、
とりあえずは、一人暮らしという状態が維持できているのなら良しとして、
一旦横に置く。

このような「普通」=「私の場合」という意味での、
「普通」は、日常の中でしばしば現れるのだが、

もう一つ描くことは、
障害を理由として、「普通ではない状況に置かれる」「状況」を打開する時にしばしば「普通は」とか「あたりまえ」という言葉を使う。

例えば、
「普通、成人したら親元を離れて暮らすでしょ」
「普通、社会人なら仕事をするでしょ」
「普通、症状が回復すれば退院するでしょ」
「普通、一番近くの小学校に通うでしょ」
「普通、親が共働きなら学童クラブに入れるでしょ」
等々。

「普通」と言ってもそうでない人はいる。
親とずっと同居し、親が歳置いていくと親の面倒を見るという普通もある。
「働かざる者食うべからず」ではなく、職がなくて収入が得られなければ生活保護を取るという普通もある。
「一番近くの小学校」ではなく、エリート校と呼ばれる学校に通わせる親だっているでしょう。
「おじいちゃんやおばあちゃんと同居していたり、近所に友達が多くて学童クラブを必要としない家庭や子どももいると思う」

なので、ここでも「普通」が「そうでなければならない」という話として言いたいわけではない。

それよりも、
願っても叶わない状況。

普通は近くの小学校に通うのに、「障害の故に」遠くの特別支援学校へ行かされる。
普通、親は参観日と運動会と言った特別の日にしか来ないのに、「障害の故に」毎日付き沿いを求められる。
普通学級で長年過ごし、義務教育が終わろうとする時、他の子ども達の多くは公立高校に行くのに、
「障害の故に」特別支援学校高等部に行かされる。
社会人になり「働きたい」と思っても「障害の故に」就職が許されず、
就労継続支援等に行かされる。

重度知的当事者や行動障害のある障害当事者たちも、
普通に過ごしたい。
親は子どもの面倒を見れなくなれば、自立生活を促すのが普通。
ところが、入所施設を探し、GHを探し、本人自らの生活を促すのでは無なく、親の状況の解決のために子どもを何とかするという話。

すなわち、
私たちが「普通」と思っている事が「障害の故に」「普通」ではない状況に陥れられるという話。

そんな状況に抗するために「普通は・・・」という言葉や、「〜はあたりまえ」という言葉を使う。

「普通でない」という周囲の人たちの感覚に対するという点では、
先の話にも通じる事だと思う。

でも、
社会的な話と個人的な話をごちゃまぜにして「普通」を語る時、
何かが誤魔化されたり、何かがスルーされたり、何かが違う方向へ進むように思う。

例えば、
「移動支援を月40時間にしてください」と行政に訴えると、
「普通、そんなに遊びに行かないし、遊びにばっかり出かければ、日常の活動に支障をきたす」という。
そういう人も確かにいるし、そうでない人もいる。
そして、
そういう言い方をする行政職員に限って「移動支援は何に使うのですか?」としつこく聞いてくる。
そんな職員に「普通、出かけ先をあれこれ人にいう事はないし、全ての外出が予定通りという話でもないでしょ!」と返せば「税金だから言え」みたいに迫ってくる。
又、
私が「(私の場合の)普通、仕事帰りに一杯ひっかけていく事もあるのでその時間帯にガイヘルを使いたい」
と言えば、
「まっすぐ帰るのが普通でしょ」と言う。

そんな「普通」という言葉の使い分けが、
力のある側によってなされている。
それは、
単に行政という立場の人たちだけでなく、
障害当事者たちと比べて圧倒的に力のある私たちの側によって「普通」という言葉が使われる。

「みんなちがって、みんないい」という言葉はとても素敵な言葉だと思う。

でも、
何が「違い」何が「違っても良いのか?」
「みんな」の「みんな」は誰を指すのか?指さないのか?

昔、小学校へ交渉に出かけ、校長室に入ると。
「みんな仲良く」「〇〇小学校の子ども達」みたいな額に入った言葉が掲げられていた。
それを見て私は、
「すてきな言葉ですが、みんなの中に〇〇ちゃんは入らないんですか?」
「仲良くできる子ども達だけが、ここの小学校にいさせてもらっているという意味ですか?」等としばしば言っていた。

「普通」って何?

よく解らないけど、
少なくとも、
人を排除する事と真逆に位置する言葉であり、
大政翼賛みたいな言葉ではないと思う。
posted by 岩ちゃん at 14:50| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

2014年の重度訪問介護の対象拡大についての確認

2014年。厚労省は、これまで重度身体当事者のみが対象となっていた重度訪問介護を、
下記の通りに改めた。

重度の肢体不自由者又は重度の知的障害若しくは精神障害により行動上著しい困難を有する者であって、常時介護を要する障害者
→ 障害支援区分4以上に該当し、次の(一)又は(二)のいずれかに該当する者
(一) 二肢以上に麻痺等がある者であって、障害支援区分の認定調査項目のうち「歩行」、「移乗」、「排尿」、「排便」のいずれもが「支援が不要」以外に認定されて
いる者
(二) 障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等(12項目)の合計点数が10点以上である者


最近、卒論のインタビューを受けたり、重度知的当事者の自立生活支援についての講演依頼を受ける機会が増えている。
又、対象拡大から3年が経つも今尚自立生活を営む重度知的当事者の数が増えていかない現実。
その中で、この重度訪問介護の拡大も含めた今後の展開について考えようとする人たちが増えている。
さらには、
やまゆり園を巡るやり取りにおいても、この重度訪問介護の対象拡大が様々期待も込めて注目されているように思う。

その事自体は歓迎するのだけど・・・

ただ、重度訪問介護の対象拡大と重度知的当事者の自立生活を巡る話や情報や呼びかけが流れてくる中でいつも気になっている事がある。

それは、
「2014年重度訪問介護の対象が重度の知的障害者にも拡大された」という話。

でも、
実際に拡大した対象は、「行動上著しい困難を有する」重度の知的障害者や精神障害者なのだ。

すなわち、
重度の知的障害者や精神障害者に拡大されたわけではない。
「障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等(12項目)の合計点数が10点以上である者」なのだ。

昨今「社会モデル」という言葉が巷で聞えるようになってきたが、
この認定調査項目の中にある「行動関連項目」なるもので明らかにされるものは、
本人の「問題行動」「行動障害」
それが、たとえ周囲との関係や置かれている環境や関わり方の不具合という周囲の課題であったとしても、
現れる本人の行動に拠って「判定」される。
逆に、それら周囲と本人との関係が充足し、本人が「行動障害」に至らなければ、重度訪問介護の対象にはならないという事。

そんな「個人モデル」「医療モデル」に拠って立つ、対象を拡大した重度訪問介護。

「重度訪問介護の対象が知的や精神初会社にも拡大されました」という認識では、
重度知的当事者や精神当事者の自立生活に対する支援や自立生活に至る様々な課題は見えてこないように思う。

例えば、厚労省は精神科病院にいる当事者達に対し、入院中から重度訪問介護や行動援護が使えるようになるという。
しかし、入院中の精神障害の当事者たちで利用できるのは「行動上著しく困難を有する者」のみ。
そういう人が重度訪問介護を使い退院していくという事を医師や病院関係者は認めるだろうか?
逆に、落ち着いた生活をしていて、地域移行支援事業を使い退院を目指す人は、「行動上著しく困難を有していない者」なので、重度訪問介護は使えない。
厚労省は、さも地域移行を推進しているかのように思うが、実際は使いたくても使えない制度になっている。

又、
地域で暮らす重度知的当事者たちが重度訪問介護を使い自立生活を始めようとする。
すると、
相談支援事業所によるアセスメントや利用計画案の作成が必須となっている。
重度身体当事者たちが重度訪問介護の利用申請を行う時、専門家によるアセスメントを求められることはない。又、セルフプランが認められている。
しかし、
重度知的当事者には求めてくるアセスメントや利用計画案は、まさに「行動上著しく困難な者」だからだと思う。

その他、
行動援護事業者の活用やそもそも「問題行動」「行動障害って?」という疑問。
さらには、行動障害支援課程という新たに新設された重度訪問介護従事者研修内容の問題点。

そのように様々な課題があるにもかかわらず、
「重度知的障害者にも拡大された」と言われると、実際の事柄が見えてこないように思う。
そして、見えてこないままに不安だけが募り、重度知的当事者の自立生活が進まないというに終わるように思う。

重度身体障害当事者たちによって築かれてきた重度訪問介護。
私は、東京都の事業として行っていた「脳性まひ者等介護人派遣事業」を巡る交渉の頃から重度訪問介護という名称に至るまでをリアルに見てきた。
重度身体障害当事者たちは、ある面制度の支給が行われれば、実際に使いながら自らの暮らしに適した制度やその利用の仕方に組み替えてきた。
しかし、
重度知的当事者や精神の当事者は「行動障害」なるものを対象とする事で、「社会で生きていけるのか否か」を判定される。
そして、対象となったらなったで、別の方向から自立生活は無理と言ってくる行政や相談支援事業所があったりする。

そんな様々な状況も含め、
まずは、どう対象が拡大されたのかをきちんととらえる必要がある。

決して、「常時介護を必要とする重度の知的障害者や精神障害者」にも対象が拡大されたのではない。
どちらかと言えば、
「行動上著しい困難を有する者」にも対象が拡大されたという方が正しい捉え方だと思う。

そこをしっかりとらえた上で、
「重度訪問介護が、常時介護を必要とする重度知的障害者等に拡大された」と言える状況を生み出したい。

2014年の改正から3年後の見直しについて、
厚労省が委託した団体から「重度訪問介護を使わず一人暮らしをしている重度知的障害者の実態調査」を受けた。
こちらにお鉢が回ってきたのは、行動障害等を伴わない重度知的障害者が自立生活をしている実態を把握していないから」というもの。
調査しようにもその上な状態状況にある人を国が把握できていないから。

重度訪問介護の対象を
「常時介護を必要とする重度知的障害者」として欲しいから引き受けたのだが、
結局は、見直しの議論の遡上にも上らない状況。

なので、
願いとして「重度の知的障害者等に対象が拡大された」というのはありだけど、
願いは願いで、実際ではない/今後の課題として認識をもって発信して欲しい。
posted by 岩ちゃん at 14:48| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

相手との関係で変わる日本語に

日本語には、相手との関係が含まれている。
目上の者に対しては、尊敬語や謙譲語や丁寧語を使う。
目下の者に対しては、横柄な言葉使いをしたりする。
立場が同じ者に対する言葉もある。
そして、
敬語なるものが警語として、相手と自分の立場を推し量ったりする。

この「相手との関係」を認識する事に困難さを抱える自閉症や発達障害の当事者が言葉を発する時、相手との関係性が含まれる日本語は、様々な摩擦を生む原因になっているように思う。

重度の知的障害を伴い、発語がない場合はまだしも、
軽度の知的障害を伴う人にとっての言葉は、自らに語りかけられた言葉をもって学習し、
自らが得た言葉を発すると、時に目上の人に対し失礼な・横柄な人に映ってしまう。

又、中度の知的障害を伴う人は、常に周囲から蔑まれたり横柄な言葉づかいで対応をされ続ける中で得た言葉をそのまま他者に語る事で、当事者の存在を理解しようとする者であっても、感情を逆なでする事になる。

ところが、当の本人は自分の発する言葉を相手がどう受け止めているかを知る由もない。
ごくごくあたりまえに使う。
決して相手を蔑んだり横柄な態度をとっているわけではないが、自分が学んだ言葉を相手との関係を考えずに発するため、当事者の真意が見えなくなっていく。

私が当事者たちと話をする時、
「私は〜」とは言わす、
「自分の名前」に「さん」をつけて「〇〇さん(私)は〜」と語りかける。

その理由の一つは、
「私」という人称代名詞は、いったい誰の事を話しているか理解し難いのであえて代名詞を使わない。
もう一つの理由は、
「〇〇(私)は〜」とした時、相手から「〇〇は」と返ってきて、呼び捨てにされる事で起こる感情を回避するため。

初めっから自分の名前に「さん」を付けて相手とやり取りしていれば、いらぬ感情が生まれないから。

これは、名前に限らず様々な会話の中に含まれているので、慣れていないととてもややこしいし、感情を逆なでされると冷静に本人の意図や意思が聞き取れなくなる。

そして、聞き取れないままに「言葉」に感情がこもっていると解釈して聞くことにより、ますます両者がズレた想いになっていくように思う。

そんな事をあれこれ考えて当事者たちと付き合うも、
私自身相手の言葉づかいに「イラ」っとする事はある。
「何であんたにそこまで言われなければならないの!!」という感情を抱く。
その感情を相手にぶつけても、相手は自らが得た言葉をもって語っているだけだから、
何のことを言われているのか解らない。

「自閉所や発達障害の言語学」なるものがあれば良いなぁ〜と思う。
私たちと異なる言葉の獲得や使い方をもっとうまく整理できれば良いと思う。

そんな学問があるかどうか知らないけど、
相手から受けた言葉によって私自身に起こる感情。
起こってしまうのだからある面仕方ないのだが、

そういう感情が起こった時、
彼らが発する言葉は、私たちが彼らに発している言葉から学び取り使っているのだと思えば、
彼らが発する言葉は、私たちが彼らをどう見ているのか?彼らはどう見られてきたのかを知る手立てになる。

彼等の発する言葉の中に、立場性ではなく、私は彼をどう見てきたのか?彼はこの社会の中でどう見られてきたのか?という経験に対する疑問が含まれているとすれば、
私の中に湧き上がる感情もほんの少し、違う方向へ目を向ける事ができるのではないだろうかと思う昨今。
posted by 岩ちゃん at 12:40| 東京 🌁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする