2007年12月25日

ピープルファースト大会実行委員会にぜひ参加して〜

 先日の現地実行委員会に参加していたSさん。「今晩は泊らず2日目の朝にまた来る」と言っていたのに、姿を見せなかったため、少々気にはなっていた。
 午前中お母さんから「実行委員会に参加したため、引きこもりになってしまった」と電話が入った。
 彼女には「ぜひ実行委員会に参加してよ」と呼びかけた者としての責任と、この間の彼女の様子から少々気になる事もあって、すぐさま会って話をしたいと言うことで、実家に伺った。
 
 Sさんは、家族と特定の支援者以外には、話を(言葉に)しない人で、私は長年彼女と関わっているのだが、まだ数回しか言葉を交わした事がない。

 なので、「なぜ?」「どうして?」「どうしたら?」とあれこれ聞いても言葉としての返事が返ってこない。

 本人を目の前にして、お母さんが思うところを伺い「その通りなの?」と本人に確認しつつ話を伺うことに。

 その中で見えてきたこと(多分そうだろうと思う事)は、
彼女としては、実行委員会に参加したい。
実際の実行委員会と彼女が想像する実行委員会とが違う。
いろんな人に声かけされても、その場で即答できないでいると、自分は否定していると支援者に受け止められてしまう。
二次会など不測の誘いに参加したいと思っても、支援者の都合で参加できなかった。

a 特定の人としか話できない彼女にとっては、様々な想いがあっても会議の場で自らの話を出す事ができない。
b 自らの想いを出すための支援が充分受けられない中で戸惑いうつむいてしまうと乗り気でないと判断される。
c やる気がない人に対する支援者は何も支援できない。
a→b→c→aと言う循環の中で、結局は介助者の判断のみでつれまわされることなり、「もう行かない」という結果になったようだ。

 私は、彼女の参加の是非を問うつもりはない。私としては、ひたすら彼女が持つ経験や状況を彼女だけのものとしているのがもったいないくらいにその存在の大きさを感じている。
 故に、ぜひ参加して欲しいと願う立場にいる。
だから、彼女が参加すれば参加した中での支援を考える。参加しなければ、参加できないと言う現実の中で彼女の支援を考えるだけである。

 が、目の前に当事者がいるのといないのとでは、その思考のめぐらせ方も大きく変わる。
「もう行かない」と言う彼女に対しては、なんとしても参加して欲しい。と訴えた。

 そもそも、参加したいと思っている彼女としては、私の呼びかけてに、「じゃあ次回は参加する」と言う表情を見せる。
 参加の意思が確認されれば、後は何故「しない」と言ったのか?何をどのように支援すれば彼女は実感を持って参加できるのか?を考えなければならないと思う。

 今回の彼女とのやり取りの中で、
「当事者主体」と言う言葉があるが、知的当事者を支援していると、「当事者主体」が「当事者主義」に陥っているのではないかと反省する。

「当事者が決めること」と支援者が言った場合にどこまで支援の側が当事者が「決められる」支援を行っているだろうか?
「当事者が言っているから」と当事者を出汁にしていないだろうか?

たこの木は、常々「当事者団体ではなく、支援団体」と言っている。当事者のために何かをする団体ではなく、「支援」と言うものが何なのかを当事者との関係の中で常々展開している(つもり)。

 「当事者主義」になってしまっては、支援の側に立つ私の存在が当事者抜きには語れなくなる。
 当事者の主体と支援者の主体。そのぶつかり合いがあってこそ、それぞれが主体的な取り組みになると思う。

 が、「当事者主体」と「当事者主義」なんとなくその違いが見えているのだが、言葉にできない自分が情けない。

 これって、「トレビアの種」ならぬ「たこの木BBSのネタ」になりますかね〜
posted by 岩ちゃん at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ピープルファースト大会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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