2009年12月19日

かなしいことは、なかまになれないことです。

「話をしない人とのコミュニケーションについて集まりをします。」と言うお誘いを受け、U子ども診療所へいって来ました。

 冒頭養護学校の先生からの報告があり、養護学校と普通学校との交流学級についての話でした。

 都内でも稀な交流学級が盛んな養護学校で、子ども達とのやり取りを進める中で、先生がある女の子からが
こうりゅうかいのこと
たのしいことは、おんなのことたくさんあそべることです。
かなしいことは、なかまになれないことです。


と、トーキングエイドの印刷機能を使ったメモを受け取ったそうです。

普段の養護学校では、クラスに女の子おらず、交流学級では同性の子ども達と遊べる事が楽しい。
でも、「なかまになれないこと」と言う言葉の持つ意味がとても深く残ったとの事でした。

 私もその後に続く様々な報告よりもその言葉が残り、とても複雑な思いになりました。

 養護学校の教師と言う立場で懸命に取り組まれている事を理解しつつも、子どもをそのような思いにさせてしまっている私自身が不十分さ。すなわちともに学ぶことがあたりまえでない状況を未だ打開できていない自分の不十分さを痛切に感じました。

 コミュニケーション能力と言うものは、
語る力と聞く力の二方向があると思います。
 養護学校の教師としては、語る力に重きを置く事が求められつつ、その方は女の子の言葉から寄り添う事も必要なのではと思いながら、現場での限界に懸命に取り組まれているように感じました。

 「子どもの代弁を教師がしてはいけない」と言う想いを持ちつつ、代弁せざるを得ない状況。
 代弁しなくてもすむためには、本人が語れる方法を生み出すと言う事では、そもそも、この集まりを持ってきた人たちが、PCを使い様々な表現方法を技術で補っていく道を模索する事にはある面賛同できました。

 でも、私自身普段つき会っている人たちを思い描くと、どのような技術をもってしても、たどり着けない当事者の想いを考えると、さてどうしたものかと頭を抱えてしまいます。

 そして、私自身もある時期「当事者の代弁をすべきでない」と想い描き「でも代弁するしか当事者の想いが伝わらない」でも「本当に私が語る事が当事者の思いなのか?」と言うジレンマに陥った事があります。

 そして今思う事は、「どこまで行っても私が語る事は私が語ることでしかない」と開き直り、「私が語る事も合わせて、周囲の人たちがそれぞれに描く当事者の想いをそれぞれが語ることで、本人の思いに近づくしかない」と言う結論に達し、そのためには当事者が様々な人の中に存在しなければならないと、その状況を生み出すことをかだいとしてきたように思います。

 とはいっても、「周囲の誰がもっともらしく語れたか」と言う事がついて回る現実。「無理なものは無理」といえてしまう現実に、再び悩み続けている日々です。

 そんな事も悶々と思いつつ、分からない事をわかるようにする誘惑に対し、「分からない事に付き合いつづける」事をしっかと持たなければと新たに想い、ちょっとした事柄から本人の想いに少しでも近づける私自身の感性をもっと磨かなければと思いました。 
posted by 岩ちゃん at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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