2010年03月03日

知的/自閉の人たちの世界

知的当事者の子ども達や人たちに意識的に出会い初めてかれこれ30年。
彼らの持つ世界に見せられ、彼らが持つ世界をもっと知りたくて、出会いを求めてきた私がいる。

 彼らと出会いたいと思う私の気持ちの一番の根っこには、幼い頃に彼らと出会えなかった自分がいる。
「三つ子の魂百まで」と言うが、幼い頃に私の周りに彼らのような人はいなかった。
大人になって彼らと出会ったとき、彼らとの距離感を「ごくあたりまえ」にに持つ事ができない自分に気づく。

彼らを上に見たり下に見たり。
彼らのために何かをしなければと思ったり、
「〜ために」ではなく「ともに」と叫んだり、
「介護」なのか「介助」なのか「支援」なのかと悩み、
それらすべてが常に意識的に考えなければならない自分に嫌気をさしたり。

それでも、30年と言う出会いの中で、彼らの持つ世界や彼らの感覚をとにかく理解することに努め、様々な当事者たちと出会ってきた。

「入所施設」と言う場に行けば、あっという間に100人からの当事者に出会えるだろうが、「入所施設」を否定し、「地域」と言う自分が生きている場で200人近くの当事者たちと出会ってきた。

 出会ってこなかった時間よりも出会っている時間の方が圧倒的に長くなった。日々密度の濃い出会いがたくさんある。
 又、あたりまえに出会い、ともに地域の中に存在し続けるための課題を数多く担ってきた。

 そうこうしている内に、彼らの持つ世界が何なのか?どこかなんとなくではあるがほんの少し見えてきたような気がする。(あくまでもほんの少し)

 ほんの少しの事を見るためにかけてきたエネルギーは計り知れない。
それでも、ほんの一瞬の共感。普段は近寄りもしないのに、切羽詰れば根っこのところで当事者に信頼されている感を得る事もある。

 それが何かといえば、たぶん言葉にならない思い。止めようもない・周囲から否定もされる行動の奥にある彼らの想いのような気がする。

 そして、そこに触れると今度は私自身も同様に世間一般から理解されない存在になってしまっている事に気づく。

 「普通」とか「常識」とか空気のように何の疑問も持たずに回る世間にあって、独自の「普通」独自の「常識」を持つ彼らの感覚は、そのほとんどを否定されるものとなる。
 
 そうではないと思うが、何とも説明のしようのない彼らの世界。

 本来当事者と世の中との橋渡しをしなければならない存在なのだろうが、向こう岸にいる当事者たちを知らなければどのような橋渡しができるかが分からない。
 そう思って付き合ってきたら、彼らの岸に立ち世の中の岸にどこか戻れなくなってしまった感がある。

 とはいっても自分は当事者ではない。
彼らが負わされてきた(私自身が負わしてきた)事を考えると、当事者の視点で等と言う事もいえない。

 にっちもさっちもいかない今日。

 それでも、彼らが地域の中に存在し続けるための取り組みを続けていかなければならないと想うのだが、何をどのようにすれば良いか迷っている。

 と言うことで、
この1週間ブログの更新どころではない、日々の課題に埋没していた。

ブログの更新がなかったのに、毎日おとづれてくれる方々。
「ブログの更新がないですが、大丈夫ですか?」と心配してくれる方。

今の今。落ち込み状態の私で、周囲にもっと助けを求めなければと思いつつ、何をどのようにもとめれば良いか分からない状態がまさに当事者の世界だろうと、あれこれ考えています。
 

 
posted by 岩ちゃん at 20:12| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 当事者の不思議 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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