2012年05月18日

140字では表現できないのでブログに書いてみた

何日か前にtakonokibotから流れてきたつぶやきは、

「家族のレスパイトのために使うショートステイ。麻薬を使うのに等しくその時は楽になる。それ故根本的な状況を解決しなければ、常習化すなわち施設入所するしかなくなる。
#takonoki

と言うもの。

その後、このつぶやきをめぐりtakonokibotのRTが幾度となく流れてきた。

断片的に流れてくるつぶやきに「なるほど」と思う事もあれば「???」と言う事もあれば「そうでないだろう」と思う事もある。
でもつぶやく人たちの背景が何となくしかわからないので、すべてのつぶやきに「なるほど〜」と読んでいる私。

ただ、私はこの言葉にはいろんな事が含まれていると思うので私なりに考えてみたい。

私は支援者と言う立場から常々考え、自らの想いを展開している。
この言葉に一番共感できるのは、
私自身の不十分さ故と言う前提はあるものの、私たちに委ねるよりも施設のショートステイを選び、その先入所施設へといった人たちがいて、これまで積み重ねてきた当事者との関係を一気に奪われてしまう現実があったと言う事。
又、行政職員が「いづれ施設に入るんだから今の内にショートステイに慣らしておく方が本人にとっても施設にとっても良い」と言う言葉を何度も聞いて、「その手前にある支援を抜きにそんな発言は許さない」と何度も激怒したことがある。
又、一方でショートステイを活用し生まれた余裕をその次に活かしていく人たちもいる。
休日はショートステイを使いつつ、今日に至っては自立生活を実現した重度知的当事者もいる。
又、精神の当事者の中には、日々廻る暮らしの中で収拾がつかなくなり、「休ませてほしい」とたこの木に相談してかぼちゃ畑で2〜3日泊まって休み再び我が家に帰ると言う人もいる。
なので、ショートステイが一概に悪いとは思えない。

流れてくるつぶやきを見ると、
どうも本人抜きの話が多いように思う。
本人がその選択をどのように考えているのか?といつも私は考える。
自己表現をしても違った捉え方をされてしまう人たち。
周囲が与えたものがすべてとなってしまう人たちを思うとどこかそれで良いのか?と考えてしまう。
(考えたからと言って私は当事者でないので実際の想いは解らないけど)

流れてくるつぶやきの中で、たぶん違うだろうなぁ〜と言うか私には解らない事が一つ。
高齢者に対するショートステイと障害者に対するショートステイとは分けて考える必要があると思う。
長年様々な経験を積んできた方たちがその「余生」でどう過ごすかと言う話と家族介護中心で家族にのみその負担を負わせてしまっている状況の中で、ショートステイや入所施設と言う選択はあるかと思う。
一方、経験を奪われ出会う人も限られている当事者たちがいて、そのような状況を必死に変えていこうとする当事者がいて長年の運動として取り組み、又支援者たちの中でも、家族にのみ介護の負担を負わせるのではなく「当事者に対する支援」を懸命に生み出そうとしている事とを一旦分ける必要があると思う。

又、「入所施設がなぜ悪いの?」
と言うつぶやきについても、それをつぶやく人の背景はある事を承知の上で、
私の立場から「入所施設もあり」とは言えない。
それを言ってしまいたくなるような日々は常にあるが、言えてしまうと言う事はすなわち、私の許容範囲でしか当事者の「支援」を担わないと宣言する事に等しいので、それも違うと言わざるを得ない。
(ようするに、入所施設の是非ではなく入所施設に追いやる私の側の問題として常にとらえている)

それで思うに、
まず「麻薬」と言う表現が「犯罪者」というレッテル貼りと受け止められている事に何となく違和感を感じる。

モルヒネ等超劇薬は医療の現場で医師の管理のものと使われている。
ガン末期患者に対し痛みと戦う事ではなく、痛みを和らげ終末期をいかに過ごすかにかける事はとても大切な事だと思う。
すなわち、ショートステイを「麻薬」にたとえることは、その目的を明確にしなければならないし、やたら使うものではないし、逆に使う事で次をいかに生み出すかが大事で、「麻薬」=「犯罪者」と言う話になるのはどうも違うような気がする。

そして、
「麻薬」=「犯罪者」と結び付けられる度に、
薬物依存症となってしまった人たちの事を思い巡らす。
私の周りにもそういう人たちが何人かいる。
彼らの話を聞けば、一時期薬物を使い依存症となったことで想う様々な気持ちに触れる。
取り戻せない後悔と再び手にしてしまってはすべてを崩してしまう恐怖。
それでもなお一日一日を積み重ねる中で「回復」すなわち自らを取り戻す事に懸命になっている人たちがいる。
「さんない運動」といった形で薬物を人々から遠ざけるために、犯罪行為として強調される事が、
依存症であることに気づきその自分と付き合う人たちを「犯罪者」「元犯罪者」として追い込んでしまう状況が今日の社会にたくさんある。
そんな想いを知ると「麻薬」=「犯罪者」と読み取ってしまう人たちとも私は違うと思う。

よって、
私としては医療としての麻薬については、その取扱いに十分気をつけなければならないし、
使ってしまった事を責めるよりも、根本的な課題の解決がなくてはならないと思っている。
と、このつぶやきは言っていると思う。

さらに、依存症の人たちと付き合う中で、「薬物の使用をやめる」「薬物がやめられないからダメな人」と言う単純な話ではなく、もっと根本的な問題、「薬物」を使わざる負えない状況を何とかしなければならないと思う。しかし、それは本人でない私にとってはまず第一義として支援者自身の課題であると思っている。その中で本人も又「回復」と言うものを日々積み重ねているのだろうと考える。
そう考えないと、アルコール依存症の人の場合、お酒を飲んでいるとダメで呑まなきゃいい人になってしまい、根本的な問題は呑まなきゃやれない私たちの側の問題にいきつかない。

takonokibotの本来の意味は、
もしかしたらショートステイを選択する親を責めているのかもしれない。
支援者の考え方が絶対正しいと思っているかもしれない。
つぶやきを見ているとこのつぶやきによって傷づつけられた人がいるようだ。

私も、時に親たちを傷つける発言をして修復不可能な事をしでかす場合もある。
でも、私も親たちによって当事者との関係を奪われつらい想いを何度となくしてきた。

支援者と親との関係の多くは、支援者の方が強いと言う場面が多い。
支援者に逆らってしまっては自らも又子ども達もその先を奪われてしまう故に決して逆らえない存在だったりする。
でも一方で、「究極の親のレスパイトは自立生活でしょ」等と言って、自立生活への取り組み始め、親が抱く不安の一つ一つに懸命に応えていっても、親が描く通りのものでなければ、親に認められる支援でなければ、すぐにでも信頼を失いある日突然施設に入れてしまう。
そう言う事が日々の中にあると、自立生活の支援を担う人たちは親の指示に従い当事者の介助に努め、いつ施設に入れられるのか?にびくびくしながら介助にあたっていたりする。
私は「当事者の支援を」とどれだけ言っても
現場を担う介助者たちは、現れる親を前に本当に本人の支援なのか親の支援なのかで悩む。

このつぶやきがこれほどまでにRTされるのは、
支援者の立場と親の立場。
本音と現実。
とかの境界線上に現れる言葉だからだと思う。

この言葉に対し何を考えるかによって自らの立場が明らかになり、願いと現実が引き裂かれる事になるの様な気がする。
それは、親は言うまでもない事だろう。

しかし支援者の立場にある私たちは同様に思い描くだろうか?
現実使わざるを得ない事はあったとしても、その先をどのように取り組むのか?
親が子どもを施設に入れてしまった時、支援者は親を責める。
でも、それは時間の経過とともに収まるのは、施設に入れてしまった責任を全部親におっかぶせているからではないだろうか?(すべての支援者がそうだとは思いませんが)自分たちに委ねてもらえなかった支援者の側の不十分さを考え続けていないからだと思う。
親と言う立場にいる人たちとショートステイの問題と言うよりも、支援者たちとショートステイの関係を深く考える必要があるように思う。

いろいろつぶやかれているが、その一人一人の状況がどういう状況に置かれているか私にわからない。
解っているともいえない。
でも、
私は支援者の立場として、ショートステイを勧める事はしない。
なぜならそれは自らの限界を親や本人に押し付けるものになるからであって、ショートステイを使わなくても地域の中であたりまえに生きられる状況を生み出さなければならないと思っているから。

でも、それは一足飛びに実現するわけではなく、
その過程の中で、ショートステイを選択するしかないと言う親に思わせてしまう自分たちの至らなさとして捉える。
私もすべての当事者たちとやり取りできているわけではなく、私の知らないところで私が出会った人たち以上の困難な状況にある人たちがいると思う。
だから一般論で語るつもりはない。
私の周囲にもショートステイを選択する親たちはいる。
でも、私自身のふがいなさをわびつつ、どうしたらショートステイではない方法が取れるかをやり取りする。
(やり取りさせてもらえない人たちの方がたくさんいるのだが)

事実最近増えてきた様々な相談のすべてに対応できない私がいる。

なので、親たちがショートステイを選択したそして施設に入れたと言う話ではなく、
そうなってしまう状況を私たちがいかにしていくのか?

「ショートステイも仕方がないよ」と支援者たちがするのはおかしいと思う。
又、自分たちの不十分さを棚に上げ、さも親たちが選択したかのように語り、その親を擁護するようなつぶやきにも違和感を抱く。

takonokibotが支援者としてのつぶやきであり、支援者の側の課題としてつぶやいているとするなら、
この言葉も親たちの事ではなく、そうさせてしまっている支援者の側の問題として捉える必要があると思う。

そして、私自身も私の現場の中で「楽」になりたいと言う想いを常に持つつ、それを親の責任に転嫁することなく支援者の側の不十分さとしてこのつぶやきを読んだ。

そして、このつぶやきをめぐりこれほどまでRTされることは、
それだけ当事者本人を介し、親も支援者もと言いつつ、両者の間にはまだまだ解消されていない事柄があるのだろうと思った。


その辺りでどうなんだろうか?





posted by 岩ちゃん at 14:56| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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