2013年04月05日

<一つの妄想>市民後見をさらに進めて、市内後見ってどうだろう?

ある朝目覚めた時、夢うつつの中で浮かんできた言葉が「市民後見」ならぬ「市内後見」

後見人の新たな展開として「市民による後見」というのが「市民後見と私は理解している。
それに対して、
市内(すなわち当事者の生活空間)に限って後見業務をになのが「市内後見」と言う妄想。

成年後見制度の大きな問題は、本人の権利を守るための制度でありながら、本人の意思決定の支援が不十分な中、「本人の意思」として後見人が当事者の「代理権・同意見・取消権」をもってしまうという点。
市民後見は、専門性をもった人たちが後見人になっていくのではなく、もっと市民感情や市民常識に照らし、本人に近いところにいる人が後見人となっていく事なんだろうけどそれでも「本人の意思」が見えない中でその職務を実行する事については、本当に本人の権利を守る事になるのだろうか?
逆に、多くの市民が描く障がい当事者に対する偏見を市民後見人も同様にもつ中で、判断してはいないかとさえ思う場面があったりする。

先日の学習会でも語った事だが、
「本人の意思決定支援」とセットでなければ、今の後見制度はどこまで行っても、本人に成り代わる制度でしかない。
そして、誰も本人に成り代わる事はできないのに、それがやってのけてしまう今の後見制度はいろいろ恐ろしい面があり「使えない」と言うのが私の立場。

そこで、思い描いたのが「市内後見」
当事者が暮らす生活空間に限り、後見人の役を担うというもの。
生活上必要となってくる、行政や銀行やサービス提供事業所等とのやり取り。
それを市内に限り、後見人が行う。

どういう事かと言えば、
お互い目に見える関係の中で、「市内後見人」を選出し、その人を選出した人たちで支えていく。
又、その人が判断する事の妥当性をみんなで考える。

まったく付き合いのない当事者の意思なんて、どれだけ専門性を身につけても誰にもわからない。
でも、普段付き合いのあるもの達なら、何の専門性がなくても日々のやり取りの中から当事者の様々な面を知っていて、そこから推測される本人の意思は、より近いところにあるように思う。

契約行為についても、見ず知らずの後見人がある日突然やってきたら、それを証明するには多大な手続きが必要となる。
しかし、地域の人たちで選んだ顔見知りの人であれば、さほど労力をかける事なく様々なやり取りができるように思う。

たこの木を介し自立生活している重度知的当事者たちは、後見制度を使ていない。
当事者に判断不能な場面も、後見人がいない家族と住んでいない中で、当事者を介し私と相手とで事を進めるための様々な手法を生みだしてきた。
その手法は、当事者と私と相手との関係の中で成り立つだけであって、それを一般化していく事の危険性は常にはらんでいる。

それでも、本人の意思に即した支援を担わなければならない場面が日常生活の中で起こっている。

ならば、個と個の関係を周囲が認める、生活空間と言う限定された中で、「市内後見」と言うのはありなのではないかと、
勝手に妄想している。

posted by 岩ちゃん at 12:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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