2014年01月30日

知的当事者はなぜ孤立する?

「今度知人のライブがあるから一緒に行こうよ」と誘う人。「良いね〜!!行きたい行きたい!行こうよ」と応える人。

「じゃあ〜。何時にどこで待ち合わせする?」
「ライブは8時からだから、その前に食事しようか〜」
「なら、5時半に待ち合わせね!」
「そう言えば、チケットっていくら?」
「ワンドリンク付きで1600円だよ」
「わかった〜。じゃあその時にまた」

だいたい私たちが友人とやり取りする時はこんなもんだろうと思う。
誰のライブで、どんな雰囲気かを知る知らないで、会話は変わってくるとは思うが、
概ね、誘う側と誘われる側とでやり取りして話は進んでいく。

また、さらに友だちを誘うとなればあれこれ違ったやり取りも出てくるだろうが、
それも、その人とのやり取りで事が進み、
当日を迎え、
楽しいひとときを過ごし、
「今度も誘ってね!」等と繋がっていくだろう。

ところが、
その相手が知的当事者であったなら?

「今度知人のライブがあるから行こうよ」と誘う。
「行く!!」という当事者。
「ライブは、8時からだから、その前に食事しようか?」
「うん!」
「じゃあ〜〇時に△△で待ち合わせね!」
「解った」
「そうだ、ライブのお金と食事代と電車代とで5000円ぐらいあれば十分足りると思うよ」
「うん」
「じゃあ楽しみにしているね!」
「はい!」

等と会話と言うよりも誘う側が一方的に伝え、当事者は了承するか否かの話に終始する。
でも、それはそういう関係であって大したことではないと思う。
誘う人がいて誘われる当事者がいて、二人の間で成り立つ会話。
そして、楽しいライブ当日を迎える事となる。

ところが・・・・

本人が待ち合わせ場所に現れない!
当日までの彼の様子は、ライブをとても楽しみにしていたので、
本人は行く気満々であったのは疑う余地もない。

しかし、現れない当事者。

何故?
どうして?
何かあったのか?
不安になって彼が住むグループホームに電話をかけると・・・

「〇〇さんいますか?今日ライブに行く約束をしていたんですが、まだ現れないんですよ〜」
すると返ってきた言葉は、
「えっ?今目の前でご飯食べてるよ!」
「ライブの話は聞いてないよ!」

そんな事がしばしばあったりする。

当事者の彼は、決して約束をすっぽかしたわけではない。
ただ、日ごろのルーチン通りに動いていて、ライブと言う非日常のやりとりが抜けてしまっていただけ。

「今日はライブに行くの?」と電話口で聞こえてくる支援者の声。
「うん!」と応える当事者。

でも、結局時間に間に合わないという事で、ライブにはいけなかった彼。

実は、
私たちならば、誘う側と誘われる側だけで済む事柄についても、
当事者たちはそれだけでは済まないと言う面がある。

当事者を誘う場合、
本人の意思を確認するだけではなく、
彼の生活に関わる人にもきっちり伝わっているか確認しておかなければならない。
もし、「今日はライブ」と伝わっていたら、グループホームに返ってきた段階で、「今日はライブじゃないの?」と声かけし、
本人は急いで待ち合わせ場所に向かったかもしれない。
また、食事を外で一緒にするとなっていたら、夕食の用意をせずにも済む。
費用の事を伝えておけば、朝出かける前に本人に渡し、
その事で、「今日はライブ」と想い描き、グループホームに帰ることなく待ち合わせ場所に向かったかもしれない。

誘う側は、
そう言った事も意識し誘わなければ当事者と一緒に出かける事ができない場合がある。
でも、明確に「行く!」と言われれば、そういう事までやり取りしなければならないとは描かない。
だから、今回の失敗を通じ次回は意識すれば良いのだけど、
ギリギリまで待って、結局一緒には行けなかった現実だけが残り、
「せっかく誘ったのに!」等と想い描いてしまう。
「そうか!彼を誘う時にはグループホームの人に一報を入れればいいんだ」とはなかなかならない。

さらに、
一緒に出かける際に、ガイヘルを利用するとなれば、その手配をしなければならない。
誘う人がそこまで想いを巡らし段取りする事はほとんどありえない。
ただ、日常付き合っていればガイヘルの事も知っていて、その手配を本人に頼むも、
本人が伝えられない人なら、結果グループホームの人に「出かけるのでガイヘルの手配もよろしく」とようやく入れるだろう。

でも、本人がガイヘルの手配をできない人であれば、グループホームの支援者が代わりに依頼する事となる。
それはとても面倒な事。予定にある事なら月々のルーチンで手配もするだろうが、
突然降って湧いた友人の誘いに応えるというのは、日々余裕なく支援しているホームの支援者たちにとってはとても煩わしい。
できればそんな誘いは断って欲しいと思うかもしれない。

想ってはみても、それが仕事だと動いてくれれば良いのだけど、
先の失敗等を口実に、「誘わないでください」と言ってくるところもあったりする。

友人の方は、日々の付き合いから相手が喜ぶと想って誘ったし、実際本人が楽しみにしている姿を見れば、自分も楽しみにライブ当日を待つだろう。

しかし、
本人とやり取りしたことを、その支援者たちに伝える。
ガイヘル等新たな支援が必要になればそれをお願いする。
それ以外にも、お金は用意できるのか?
外で食事を摂る際の注意点。
明日の仕事や活動に支障をきたさない程度に帰宅する事。
ライブでテンション挙げすぎて、興奮して眠れなくならないような配慮。

そんな事を考えてしまっては、
誘う気になれない。
誘ったとしても楽しめない。

そして、当事者の側も周囲の人に小言を言われようものならば、誘いを気軽に受けられなくなる。

当事者を誘うとあれこれ躊躇する人がいるのだけど、
その人たちは、過去の事があって本当は行きたいけど、いろんな事を調整しないと実際には行けず、それは「勝手に決めては叱られる」から躊躇し返事ができないでいたりする。

でも、そういう背景があって躊躇しているのか?そもそもライブなんて行きたくないけどどのように断ればよいか解らず躊躇しているのか?
誘う側には解らない。
はっきりしない相手に、先に書いた事以前に誘う事をそもそもやめてしまうという事にもなる。

そして、
そもそも当事者を気軽に誘う人たちが当事者の周りにどれだけいるだろうか?
その中で、当事者の背景を知りながら声かけできる人はどれだけいるだろうか?
その中で、誘いを実現するためにあれこれ手配する人はどれだけいるだろうか?

たぶん、ほとんどいないだろう。

誘う人がいなければ、出会いは制限される。
制限された中で、支援者たちは支援を担わなければならなくなる。

社会参加と言う言葉が頻繁に聞こえてくるが、
初めは誘う人がいたかもしれない。
一度の失敗で誘わなくなる人。
いろいろ煩わしくなって誘わなくなる人。
そう言う人たちを実は支援と称し関わっている人たちが招いてしまっているように思う。

そして、
支援者たちは、気軽に誘ってくれる人がいなくなる中で、
当事者の余暇活動をイベント企画として提供する。

その事で、
出会った人たちが、直接誘いをかけるという事にもあるが、
先に書いたようなことを意識しなければ、せっかくイベントを介しであったとしても、
再び誰からも誘われることのない当事者の日常へとなってしまう。

結果、知的当事者は特定の人たちとのやり取りのみに埋没していく。

入所施設であれば施設自体が外と内とを分けてしまっているが、
地域で過ごしている当事者においても、
支援者たちが何をどのように描き支援とするかを意識しなければ、
地域の中で暮らしていても、当事者たちは孤立していくように思いました。

posted by 岩ちゃん at 15:22| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/386515561
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック