「過ぎたるは及ばざるがごとし」とは・・・
「やり過ぎは、やらなさすぎと同じ」の意だんだけど・・・
何を持って過ぎる?
何を持って足りないと言える?
私たちはその辺り「暗黙の了解」と言う枠組みで。
互いに「空気をよむ」という事を持ってやり取りしている。
又、出過ぎた事は「笑ってごまかす」と言う修正方法も持っている。
逆に、出過ぎた事をした結果と言うのも経験済みで、いろんな事前の手立てを講じていたりする。
それらは、まさに相手があっての話。
相手との関係やその場(集団)での関係性等があって必要となる事。
しかし。
相手や周囲の関係性に困難さを抱えている発達系の当事者たちは・・・
「関係性の困難さ」と言うが、世の中があたりまえと思うその基準が理解できない人たちにとっては、
「過ぎたるは・・・」は、「どこまでやったら過ぎたるになるのか?」が解らない。
同じことをやっているのにそれが相手や場の状況の中で「過ぎた」事になってしまう事を了解できない。
「いつもと同じこと」を当事者はやっているのに、
ある日突然、「何やってんの!」と怒られる。
起こられるのが嫌だから何もやらないでいると「どうしてやらないの!」と怒られる。
その判断基準が解らないから「やっていい?」と聞けば、「それぐらい自分で判断しなさい」と又怒られる。
当事者たちは、物事ができない人ではない。物事そのものが理解できない人でもない。
ただ、どこまでやっていいのか?が解らないだけかもしれない。
その解らなさ故に当事者たちは「問題行動」と称される行動を起こす。
「やって良い」と言う人と「やってはいけない」と言う人がいれば、
「いったいどっちなの!!」と本当ならば起こって当然なんだと思うが、
怒られる対象となり、
理解できない対象となる。
多分、専門家の皆さんに言わせれば、
「そういうあいまいさが本人を辛くさせてしまうから、物事の構造化を図り、本人に枠組みを与え、その中で本人とやり取りする事が望ましい」と言うかもしれない。
確かに、
枠を作り、そこに本人を入れ、その中で本人とやり取りすると落ち着いていく当事者たちはいる。
私自身も「構造化とは本人にとっての解り易さ」と思う。
他の人と比べ当事者たちとそれなりにやり取りできたり、やり取りの取っ掛かりを持てるのは、
どこか同様の事を無意識にしているからと思う。
でも、
何かが違う。
入所施設や家庭や学校や職場と言う限られた空間や人間関係ならばそれでも良いのかもしれない。
私だって、家に帰る度に物のありかの場所が変わっていたら落ち着かない。
「いつも同じ場所にある」という事が安心できる我が家になるのだと思う。
これが、
社会と言う不特定多数とやり取りする場合を考えると・・・
実は、当事者の身近にいる人や専門家がどれほど枠組みを作り、本人をそこに入れてやり取りできたとしても、
それと同様のやり取りを世の中すべての人がやってくれるわけではない。
世の中の「暗黙知」にさらされる当事者たちは、やっぱりその「暗黙知」=「何を持って過ぎたると言うのか」が解らず混乱する。
ならば、
「本人にとっての解り易さ」=「構造化」の作業は、
周囲が本人をそこへ入れ込むというよりも、
本人と一緒につくる(構造化する)作業から始める必要があるのではないだろうかと思う。
長い年月当事者の自立生活に関わる介助者や支援者たちを見ていると、決してお決まりの関わり方を当事者としているわけではない。
それ以上に、自分らしく当事者と付き合っている。
様々な人が存在するその一人一人と当事者はつきあえているのは、
もしかしたら、時間をかけて個々の関係における構造化をなし終えているからかもしれない。
それは、世間一般が了解するものとは真逆の事かもしれないが、
当事者本人にとっては、相手のとの付き合いの中から見出したものだから、多少の事では揺るがない。
そして、
それさえもそれほど多くはない介助者や支援者たちなので、それ以外の社会一般の人の方が多い。
なので、
様々な人と関わる当事者を見ることで、本人自身がいかに人との「付き合い」と言う目には見えない物を利用介できているかを知る事で、当事者を知らない人たちとの橋渡しについてもやり易くなるのではないかと考える。
又、ある人にとっては過ぎたることも、ある人にとってはまだまだ余裕という事はしばしばある。
そんな事も当事者たちは見抜く力を持っているように思う。
その力を奪っているのは、私たちの側で、
一旦奪っておいて、こちらが意図するものを当事者たちに教えているような気がする。
大切なのは、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」を当事者に理解させることではなく、
何を基準にするかを一緒に考える機会をどのように持つかという事ではないだろうかと思う。
2014年12月09日
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