2015年03月30日

どこまでいっても不明瞭な重度知的当事者の意思に

以前書いた記事。

「当事者の意思」を「支援者が決める」という事

ここでは、「支援の側(私)が決め」その後「本人の状態」との差異を確認する事を重ねることで本人の意思に近づいて旨を書いた。

その「(支援の側の)私が決める」ことにおいての実際を、
意思決定の支援 考えされられた昨日の出来事

「今日は何を食べる?」の中に知的当事者の自己選択・自己決定・自己実現の諸課題があったりする
で書いた。

これらの事を介助のたびに考えていたら身がもたないけど、
たまには意識して関わってみるのも一計かと思う。

とは言っても、結局のところ本人の意思というものはなかなかはっきりしない。
「たぶん」と言う事で進めていくしかないと思う。
そして、日常生活においてはこの「たぶん」を大事にし、
毎度巡ってくる「たぶん」の場の中で、以前の「たぶん」を修正したり、
新たな「たぶん」を見出しつつ、暮らしの支援を廻しているように思う。

で、
そういった日常生活における意思決定ではなく、
人生に対する意思決定という場面において、
同じく本人の意思が明確でない重度知的当事者たち。

例えば、
ある人は「本人は入所施設を望んでいる」と言い、
ある人は「グループホームでの共同生活を望んでいる」と言い、
ある人は「アパートでの一人暮らしを望んでいる」と言う。

例えば、
ある人は「仕事が生きがいになっている」と言い、
ある人は「本当は仕事なんてしたくなく、やらされている」と言い、
ある人は「仕事の意味はわからないけど、みんなと一緒が良いと思っているだけ」と言う。

例えば、
ある人は「中学まで学校で嫌な想いをしたから、高校は支援学校が良いと思っている」と言い、
ある人は「中学を卒業したらもう学校に行きたくないと思っている」と言い、
ある人は「クラスメイト達が全日制高校を目指す中で、同じく全日制高校に行きたいと望んでいる」と言う。

実際にそれぞれをやってみてから決めるというのが一番本人にとっては解りやすいことだと思う。
将来の事を思い浮かべ様々な事を想定しこれから先のことを選択する事が難しい当事者たち。
「事柄の一つ一つを実際試して見てから決める」方が解りやすいと思うけども、後戻りできない選択もある。
当事者だけを見ていたら、「やり直し」というのは全然ありだけど、
「やり直した場」は、必ずしも同じ環境ではない。

例えば、
クラスメイトと同様に高校進学した後、他の高校を選ぶといった場合、そこにはクラスメイトはいないし、一年ダブリと言う新たな状況が生まれる)

例えば、
仕事に関しても、潤沢に求人があるわけではない。
今目の前にある選択しを取らなければ、次はいつ現れるかわからないということもある。
トライアル雇用と言う枠組みはできたけども、ある一定期間お試しで働くのと、
働き続けるのとではまるで違う。

例えば、自らの暮らしの場においても
宿泊体験と実際の一人暮らしは違う。
グループホームにしても、グループホームの形態自体がダメなのか?そのグループホームを利用する他の利用者との関係がまずいのか解らない。
又、初対面は最悪でも、その後良好になることもあれば、
初対面は良好でも後々最悪になることだってある。
それをどの段階でどのように「やり直しする」か?「やり直ししない」か?
その判断は非常に難しい。

家族という単位が成り立たなくなって、
入所施設や精神科病院に入れられようとする当事者に対しては、
兎にも角にも「自立生活」として家族との単位を分け、
支援者とともに歩む道を選択するしかないと言う場面はある。
その場合は、何が何でも「地域から奪われない」ための取り組みに邁進「するしかない」

昨今知的障害者の意思決定支援なるものが取り上げられ、
たとえ、知的障害があっても本人の意思を尊重し、
自らの選択を保障していく制度の整備等々も語られる。

でも、
そこで取り上げられるのは、
「成年後見制度の充実」
「権利擁護事業の活用」
「サービス等利用計画の作成」を
いかに制度として機能させるか?
いかに充実するか?
というもの。

又、各サービス提供事業所においても、
支援計画案の作成が義務づけられ、
先日、東京都の事業所説明会で聞いた話では、
「相談支援事業所との連携」を行った事業所については「加算」をつけるとまで言われていた。

本当にそれで重度知的当事者の意思に則した支援ができるのだろうか?

後見人にしても権利擁護事業の担い手にしても、
時に、入所施設を選択する。
特定相談支援事業所の相談支援員は、
「一人暮らしをすることが本当に本人のためになるなのか?」
「施設入所と言う選択はないのか?」と言う。

確かに、
様々な状況の中で選択肢は限られている場合がある。
しかし、限られた選択肢の中で選んだことが本人の意思といえるのだろうか?

サービス等利用計画を作成するに辺り、相談支援員は本人の希望を聴く。
でも、本人が体験していないことや実感を伴わないことは希望として出せない。
又、サービスとして枠付されていない事柄を希望として出せば、
その実現に相談支援員が動くかといえばなかなかそうはならない。

そんな中で、決められていく本人の意思。
その意思に基づいて、周囲が支援を担う。

でも、
そもそもの出発点が間違っていたら、
当事者が受ける支援は、受ければ受けるほど管理であったり強制であったりする。
又、
人の意思は常に変化するもの。
まだまだ当事者の権利が保障されていない中、
とりあえず、サービスとして受ける支援であっても、
そのサービスを確保するだけでも相当苦労する。
なので「実際利用してみたら自分が求めたものと違います」と本人の意思が変化しても、
それを生み出すまでの周囲の労力は、当事者の意思の変更の方を責める事につながっている。

そんなことをあれこれ思いつつ、
当事者の意思を尊重したいと切に願う。
しかし、どこまでいっても不明瞭な重度知的当事者の意思。

ところが現実の社会は、
意思決定支援を充実すれば、当事者の意思に基づいた支援ができると思い描いている。
その声が大きくなればなるほど、本人の意思は周囲の価値観や世界観によって決められてしまうように思う。

では、
何が必要なのか?
私は、意思決定支援の制度化や枠付等々よりも、
「これが当事者の意思」となったものを常に検証する枠組みの充実だと思う。

すなわち、
「意思決定支援」ではなく、
「意思検証支援」常に検証し続ける/続けられる事を、
様々な状況やサービスや人との関わりの中で検証し続けることだと思う。

日々の取り組みは、ヘルパーや日中系活動やグループホーム等の支援者たちが連携し、それぞれの立場から本人が思い描いている意思を想定し合い、いづれの想定が本人の石により近いところにあるかを検証する。

相談支援員は、
本人と日常の支援を取り組む現場を知り、俯瞰的に本人の暮らしを知って支援のあり様を見守る中で、
当初立てたサービス利用計画が妥当なものであるかをモニタリングする。
又、事業所等によって当事者が囲い込まれないよう事業所等を監視する。
更には、「サービス等利用計画」の「等」に込められたインフォーマルな支援をフォーマルな支援の中にいかに埋め込んでいくか?当事者にフォーマル以外の関わりをいかに紹介し、当事者の選択肢を増やしていくかというのも大きな役割だと思う。

成年後見制度については、
特定個人が成年後見人となるよりも法人後見人として複数で総体を見る。
願わくば、成年後見人という個人でも法人でもなく
市内後見」と言う、地域全体で支える仕組みになって欲しいと願う。

そして、
地域という様々な人が暮らす場において、
様々な発想や出来事や数々の経験の積み重ねを共有し、本人の意思に近づき、
とりあえず進めた事柄を、事あるごとに気軽に話し合って、検証できる環境があればと願う。

そして、
そういう状況を生み出すこと目指し、サービス提供事業所も相談支援員も自らの役割をになったとしたら、いろんな事が見えてくるだろうと思う。
逆に、それらはこれまで取り組んでいないことなので、そのことがあたりまえになる事自体多くの労力が必要になる。
面倒なことなので、
今厚労省を始め福祉の制度は、細分化して個別に支援ではなく個別サービス化している。
総合と言いつつも、互いが連携する余裕さえない。

でも、
互いがほんの少しでものりしろを持って支援を担い、
本人の意思に近づく努力をしたなら、
本人に取ってもそこにある支援は決して管理ではなく、常に自らの想いを明らかにしてくれるものであり、明らかになったものに応えてくれる人たちであると認知するだろう。
そうなると、互いの信頼感の中で、本人も支援を担う側も楽に取り組んでいけるように思う。

意思決定支援と言うどこか「支援をしたから決めなさい」と当事者に迫るものを追い求めるのではなく、
「人の意思は常に変化するから、常に確認しあっていきましょう」と言う「検証支援」を考えていきたいと願う。


posted by 岩ちゃん at 10:44| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック