2015年05月15日

「ファミリーグループ・カンファレンス」に興味を抱く

最近、「ファミリーグループカンファレンス(FGC)」という言葉を知った。
その内容は、まだ全くと言って良いほど知らない。
でも、なんとなくその内容に惹かれるものがあり、今後の日本での展開を追いかけたいと思っている。

ではなぜひかれるのか?
それは、
意思決定や意思表明に困難さを抱える障害当事者を支援するにあたり、当事者個人にのみ焦点をあてて考えるのではなく、本人を取り巻く小さなコミュニティ(ファミリーというが、日本でいうところとの「家族」ではない)をも射程に入れた支援を考える所に、これまで私自身が考えてきた「関係性による支援」とか「地域」といったことが盛り込まれているように感じるからです。

この言葉を知る前に、このブログに書いた「<一つの妄想>市民後見をさらに進めて、市内後見ってどうだろう?」という想いに近い所にあるように感じるからです。

今月23日(土)に成年後見制度を見直す会が、
ファミリー・グループ・カンファレンス
――発祥の地・ニュージーランドや諸外国での実践、日本での展開――
」という公開学習会を開く。

又、
ファミリーグループカンファレンス研修会というのが、
7月17日(金)〜20日(月)に開かれる。

私はそのどちらにも参加したいと思っている。

ただ、この手の外国から届くものというのは、どうも胡散臭さを感じる。
届けられるそのものが胡散臭いというのではなく、海を渡り日本に入ってくると、本来のものとはまったく異なるものになってしまう感がある。

韓国料理や中国料理やベトナム料理等々が海を渡って日本に入ってくる時、
日本人の好みに合わせて味付け等が変わる。
それは、とてもありがたく思う。

でも、専門的な事柄や思想や実践等々が海をわたって入ってくる時、
それを日本人の好みに合わせ変える時、
結局は使えないものになってしまう。
海外の最先端を強調されると、
地元でコツコツと取り組まれてきたことがどんどん否定されていく。

そんなことを思うと、
この「ファミリーグループカンファレンス」なるものもさほど関心をよせるものではなく、
事の経過を見守りつつ、使えそうなことなら使う程度の話だと思う。

でも、
そうではなく、関心を抱いているのは、
まだまだ知られていない状況があるということ。
小さなコミュニティーの必要性を掲げていること
が私自身の興味を引くところです。

そして、
小さなコミュニティーの必要性と言うのは、それを形作るというよりも、
「小さなコミュニティーを良しとする」展開が今後拡大していく事に期待を寄せるからです。

障害者支援の世界特に知的当事者の世界においては、
本人の意思が明確でない分、一般化や普遍化や事業所化等々どこにでも通じるものをつくろうとすると、常に変質し、常に支援の側の意思に当事者が従うしかない状況になっているように感じます。

「小さなコミュニティーを良しとする」というのは、
「そのコミュニティーが成立していればよしとする」発想であり、
そのコミュニティーや他のコミュニティーから侵されるものではないし、
互いに異なるコミュニティーを認め合うことで、新たなつながりが生まれるように思います。

そんな大雑把な想いからこのFGCなるものにひかれています。

そして、もう一つ私が期待しているものは、
就学運動と自立生活運動とがこのFGCの考え方の中でつながりを生む可能性を感じています。

すなわち、
私たちが今自立生活支援を担っている当事者の多くは、大人たちの就学運動によって、地域の中に様々な関係を生み出しています。
そして、幼い頃から築き上げてきた地域の中での関係性があるからこそ、
大人になって「自立生活」という自らの暮らしをそれぞれに営まれているように感じます。

幼い時期に地域から外され、養護学校等の障害者のみが集められる場をくぐってきた人たちも自立生活はしています。
しかし、ある日突然何らこれまでの関係がない中で重度知的当事者の支援を担う時、
彼らがくぐってきた世界を第三者(記録とか親からの情報)から知ることができません。
支援を得て暮らす当事者たちも、どこか自分と支援者という関係のみに終始し、自分の周りに多様な人がいる(自分を肯定的に見る人もいれば否定的に見る人もいればどっちでもない人もいる)という事が、なかなかつかめず、混乱しているように思います。

自立生活運動においては、ヘルパー等の支援者を使い自らの暮らしを成り立たせる。
「最大の敵は親」と言われていた時代からかなり経っているのですが、
重度身体当事者たちの自立生活を見ていると、親の思いは親の思いとして自らの暮らしをヘルパー等を使い実現している。
就学運動の担い手たちの多くが親や教師という状況と、
自立生活運動を担ってきた人たちが、その関係から離れることを求めるが故に、
就学運動と自立生活運動とが繋がらない。

でも、幼い頃から地域の中で過ごす。
幼い頃は当然親の関与は大きい。
でも、その関与は親が全面的に子どもの面倒をみるのではなく、
親は、将来につながるコミュニティーづくりに関与する。
(別に親でなくても良いです)
幼い頃から将来を意識して作られたコミュニティーをもって自立生活をする。

小さなコミュニティーでは、当事者にとって必要となる24時間の暮らしの支援は到底担いきれません。
しかし、その小さなコミュニティーが核となり、
様々なサービスを当事者とともに利用していく。

特定の誰かの意見が本人の意思ではなく、
長年当事者を取り巻く人達と作ってきた関係の中で、
それぞれの現場にある状況の中で、
本人と意思と本人の意思に基づく支援とそれを保障していくための取り組みとして、
ファミリーグループカンファレンスという発想があれば、
これまでと違う何かが生まれてくる可能性を感じています。

そして、
FGCは海を渡って入ってきた取り組みでしょうが、
実は、
日本というところは、常に関係性をベースとした地で、
外国での展開以上のものがすでに存在していると私は思います。

ただ、そう簡単に思えないのは、関係性とかコミュニティーというものを維持するために、誰かを排除する事で成り立っている状況もあるからだと思います。

就学運動は常に排除されようとする者に抗してきた運動であり、
自立生活運動は排除された者達が本来の場に戻る運動として捉えれ、
私が今日になっている自立生活支援は、正に排除されずにきた子ども達が大人になり、
自らが暮らすことに対して様々な形で支援を担っている。

排除しなければ見えてくるものがたくさんあると私は思っています。

でも、
就学運動のみを担っていた時、
「将来」というまだ見ぬ地に対して、ひたすら信じて突き進むしかありませんでした。
でも、すでに少なからず「自立生活」を獲得した当事者たちと日常的に付き合っていると、
幼い頃から共に育ってきたことの大きさは様々な場面で実感しています。

昨今「自立生活」を実現するための制度がそれなりに確立し始めています。
しかし、それを本人が利用するという点では、意思決定に困難さを抱える当事者たちは、
制度の担い手によってどのようにもされてしまう状況があります。

だからこそ意思決定支援はとても重要な事だと思います。

しかし、その意思決定支援さえも成年後見制度等で特定の人の判断が本人の意思とされようとしています。
又、制度が進み「福祉はカネになる」という人たちが、障害者を制度によって囲い込もうとしています。
又、事業所等お金を介し付き合う者たちだけで支援をになっていると、
その力量によって虐待等が起こり、その虐待が起こっている現実が見えない状況があります。
そして、虐待が起こっても同しようもない状況の中で他の施設へと当事者たちが回されていく。

当事者たちの意思が明確でない分、周囲の者の判断によって進められていく現実。
それを小さなコミュニティーによって本人の意思を明らかにする。
小さなコミュニティーの中で協議調整されることをもって、様々な制度につなげ、
当事者を含む小さなコミュニティーが維持されていく。

そんなことを思いつつ、
FGCの集まりに参加してみたいと思っています。

もし皆さんもよろしければ、ご参加してみてください。
専門家や行政等によってこの先変質させられる前に、
新たな取組としてこの日本の中でどのように展開していくかを一緒に考えていきましょう。、
posted by 岩ちゃん at 17:08| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
当事者と呼ばれる言葉事態よい表現ではないと実感しています。精神困難なときでも耳は、聞こえています。なぜ精神就労支援制度ができて、定着が少ないのでしょうか。外国を観て急きょ出来たNPOでの勉強では、現場に使えるだけの知識は、ないのでしょう。資格専門家と本業専門の確執差の違いが現場の違いでは、ないでしょうか。精神障害履歴所に書き込むと事業所は、設備の融資目的で3カ月過ぎると本人しては、普通人と同じなるから気っい、他の人か観ればごく普通あるから仲立ち人といわれる精神福祉士専門家が仕事内容は、書で理解しても一緒に仕事体験、清掃業を例にとっても、いろんな場所があり、便所清掃は、資格専門家は、あまりやらないし、印象は、いやだと思う人が多い。
Posted by sasakishoki at 2015年05月16日 05:25
sasakishokiさんへ
コメントありがとうございます。
どういうお立場からの発言かは不明ですが、
単に海外からの知識をちょっとかじって展開するというのは問題ですね。
又、資格専門家と本業専門の確執というのもすごくわかります。
私が、この件に興味を抱いたのは、まさに両者とは違う第三者の存在に焦点を当てるということです。
ファミリーグループカンファレンスを展開する上で必要なのは、その人を生活空間で関わる人たちの存在であって、いかなる専門家もそこを仕切るのではないという点にあります。
ただ、難しいのは、
本人と関わる小さなコミュニティーがない。
小さなコミュニティーを作ろうにも、障害故に幼い頃から分けられてきた現実の中で、いかに小さなコミュニティーを取り戻すか(作るか)という点で、専門家たちが仕切ってしまい、専門家が仕切るために費用を求め、費用を生み出すために新たな資格を生み出すという循環を何らかの形で断ち切らなければと思うのです。
その意味では、日本の風土が常に他者との関係の中で築かれていると思っているので、海外の専門性以上に自分たちの足下を検証する事によって、海外とは違う新たな取り組みが生まれていくように思います。

※当事者という呼び方について、
当事者=対象者であったならまったく私の想いとは違っていると最近思い始めました。
ではなんと呼べばよいか?
日常的には、固有名詞でやりとりしていますが、こういう場使う場合、読む側は何のことだかわからないということでなんと表現すれば良いか戸惑っています。
とりあえず、
私自身「障害当事者」というのは「障害」という双方の関係の中で生まれるものの不具合を一方的に負わされている人たちの事と思い使っています。
そして、それを負わしている私自身としてあれこれ考えています。
Posted by 岩ちゃん at 2015年05月16日 09:38
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