2015年07月24日

日本版FGCって何?

先日のFGC(ファミリーグループ・カンファレンス)の研修会と自らの現場との間であれこれ考えている。
4日も現場を離れた分、現場に戻った途端に次から次へと課題が舞い込んでいる。
そして、舞い込む課題の一つ一つを解決する上で、FGCの必要性を感じてもいる。

研修会の中で、
FGCは、課題をグループ(輪)の中心に起き、課題を解決するための具体的な方法を見出すと言っていた。
オランダのFGCは、「専門性によって決められるのではなく、状況を解決するために関わりのある人達の中で検討し具体的な策を見出す」と理解した。

でも、
それが日本版FGCを考える時、果たしてそれで良いのだろうかと思う。
「専門性に依拠しない」と言うのは良く解る。
専門性というのは「◯◯士や◯◯師が考える解決方法ではなく、又行政等による強制でもない」というのはその通りだと思う。
「ファミリー」とか「グループ」という言い方は誤解を招くのでどうかと思うが、
「当事者の日常生活空間にいる人々」と理解すればそれなりに納得できる。
又「グループ」=「輪」の中心に「当事者」を置きたがるが、
「当事者」ではなく、日常の中で起こっている「事柄」であるなら、
その関係は何も「当事者」だけの問題ではないはず。
なので、当事者も他の人たちも「輪」の線状にいて、それぞれの立場から事柄に向き合うという考えで理解でる。
さらに、
「カンファレンス(=会議)」というものは、
どこか「課題」を解決するために開かれるという印象を抱く。
でも、
「課題はなくても」又「課題が解決した後でも」開かれるものならばどうだろうか?
すなわち、
日常的な「集い」「よりあい」的なものも含めていけば良いと思う。
なぜなら、地域で人々が暮らすという事は、様々な事柄が横断的に存在していて、「問題となる事」と「その解決」というのは、特定の誰か/特定の何かということではなく、様々な場面で起こっており、地域という中にある出会いや関係も含めて解決されていくと思う。

そう考えていくと、
実は「カンファレンス」ではなく「ネットワーク」なのではないだろうかと思えてくる。

FGCに対する一番の疑問は、
「問題を解決する」「解決のための具体的な方法」というものをどのように捉えるかという点。
日本で言うところの「ファミリー」=「家族」の存在は、
障害当事者にとっては、
「親こそが最大の敵」という状況があったり、
意識ある親御さんは、
「親が最大の支援者」と言う。
そして、最大の課題が
「親亡き後」という言い方がまことしやかに語られる。

それらは、普段重度知的当事者たちと付き合っていると、
どれも間違いではないと思う一方で、どれも間違いと思う。

なぜなら、誰が誰に対して思っているかという点に置いて、
そう想う状況が問題であり、それぞれが思うこと自体は間違いではないと思うから。
すなわち、どれも重度知的当事者本人の弁ではないという事。

それならば、
それぞれの考えをもって「輪」を形成する事が重要になると思う。

ところが、
日本の社会は、「輪」を維持するために「それを壊す者」を排除して成り立たせてきた。
又は、輪の中に存在できるように改める事を求めてきた。

そんな「輪」に抵抗し、都会を出たり核家族化していく状況も理解できる。
でも、輪を離れ自分の能力だけで展開できる人は良いが、
そうでない人たち特に、日常的に何らかの形で支援が必要な人たちにとっては、
自らが「輪」に抵抗したり「輪」を離れたりする事ができず、
結果、「家族(血縁)」によって対応する事になる。

「個人をもって輪」をつくる西欧の考え方と
「輪を維持するための個人」という日本では、
「輪」の一文字はまったく違う意味を持つ。

よって、
日本版FGCは、この「輪」をどのように作るのか?どのような「輪」にするのか?重要になってくるように思う。

つづく・・・
 (たぶん)
posted by 岩ちゃん at 14:13| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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