2015年07月25日

自閉症スペクトラムの当事者にとってグループホームは最善か?

多くの人は、重度知的当事者の自立生活(親元を離れて地域で暮らす)といった時、
グループホーム(GH)と描いているかもしれない。

私の周辺においては、GHを利用して暮らしている人もいれば、ヘルパー等を使い一人暮らしをしている人もいる。
私にとっては、どちらの形態が本人にとって良いかという疑問はあたりまえにある。
基本、本人の意向に即して選択すれば良いのだが、
重度の知的障害故に本人の意向は、親元を離れる段階ではわからない。

中には、一人暮らしを始めてみたところその状況が了解できず、GHに移った人がいる。
でも、GHでの共同生活を初めてみると、他の利用者との折が合わず、再び一人暮らしになる。
その後、「やっぱりGH」となるのだが、
その時の本人は、一人暮らしとGHの両方を経験しており、
折が合わない他の利用者がいても、一人暮らしよりも楽な面があるということの判断があるように思う。
又、周囲の支援者たちもその両方の経験に現れる当事者の様子から、GHでの暮らしにおける支援を積み上げていく事の方が、本人にとっても有益だと思えた。

しかし、
そんなことを丁寧に取り組める状況はなかなか無い。
GHしかないと思っていたら、本人が選択するための取り組みさえ意識に上らない。

一人暮らしかGHかという選択がない多くの支援者たちは、
たぶん、入所施設火GHかという比較の中で考えていると思う。
それに対して私は、
重度身体当事者たちが自立生活運動の中で「一人暮らし」を実現してきた事を見てきた。
そして、当事者が子どもであった時から地域の中で様々な関係を作ってきて、
極あたりまえに「(地域で)親元を離れて暮らす」という形を模索する中で、
一人暮らしかGHの選択があるように思う。
(さらには、障害当事者ばかりを集めるGHだけでなく、ルームシェアと言った昨今社会の中にある新たな暮らしの形態の方に関心を寄せる)

多くの人がGHとしか描かない原因は、
その支援体制によるところが大きいと思う。
私たちの状況においては、24時間何らかの形で支援体制を組んで一人暮らしが実現されている。
しかし、その道程を振り返ると様々な形で行政と話し合い、様々な形で支援者を募り、日々の支援において数々の失敗を繰り返しつつ、当事者に対し自らの不十分さを詫びつつ今日まで取り組んできているから。

実際、今日明日すぐに実現する事は正直いって難しいと思う。

特に「行動障害」を伴い常時介助を必要とする人たちにとっては、
常時の介助をいかに確保するかという点を思うとGHの方が現実味があるのだろうと思う。

そんな状況はとりあえず横において、(と言うのは、現状の不十分さはいづれにしてもあるのだが、それらの一つ一つをどの方向に向かって解決していくかという点で、純粋に本人にとってどちらが良いのかを考えたいから)

自閉症スペクトラムの当事者しかも重度の知的障がいを抱く人にとって、
グループホームは最善の形態なのか?という疑問を抱く。

彼らにとってとても重要な支援の取り組みは、
「本人の意思をいかに明らかにするか?」に加え、
「本人にとって暮らしのわかり易さ」すなわち「構造化」の取り組みが必要と思う。

「構造化」とは、決して障害当事者に取ってのみ必要なものではなく、私たちの周囲にもあたりまえに存在している。(例えば、駅の案内表示板とか)

私たちと異なる世界観の中にいる自閉症スペクトラムの人々は、
私たちにとっては当然のことでも、彼らにとってはまったく了解不能なことがたくさんある。
又、了解しあっていることにおいても、まったく異なる意味付けが双方にあり、目に見える点では上手くいっているということもあったりする。(この場合、ほんの些細な変化によって本人が大混乱を招くという事もあったりする)

そんな、私たちと異なる世界観に生きる当事者たちを支援する際、
GHという共同生活の場面では、
当然ながら他の当事者の存在が大きく影響してくる。

先日聞いた話では、
これまで何ら問題がなく過ごせていた当事者が、新しい利用者が入ってきた途端、
その人に対して非常に攻撃的で、それを止めに入る支援者たちにも攻撃的になり、
そのような問題を起こす当事者は「退所してくれ」と言われたとのこと。

対人相互の関係に困難さを抱く当事者にとって、周囲にいる複数の関係は非常にややこしい。
何に行き詰まっているかを本人に聞いてもうまく説明できない人は、当然態度で表現するしかなくなる。

それは、ヘルパーを使い一人暮らしをしている当事者にも現れる。
しかし、そこに現れている状況は、本人とヘルパーとの一対一の関係の中で起こっていることであり、
本人のみをみて(本人が置かれている状況や歴史等も含む)支援に当たることができるように思う。

そして、
これまで自閉症を伴う重度知的当事者の一人暮らしを支援してきた経験上、
様々なヘルパーが当事者の前に現れ、その事で混乱する面もあるが、
様々なヘルパーとの関わりの中で、本人の状態の違いが現れ、
上手くいく時/上手くいかない時の両方を本人の状態や思いとしてみることが、
一対一という単純な関係の中で観て取れやすい。
そして、起こっている事柄を支援者間で共有し、対応困難なことの原因とその対応を様々な角度から検証していける。

ただ、
ヘルパー間で共有する情報には、個々のヘルパーのフィルターがあり、
例えば
あるヘルパ―は「最近騒がしかったです」というも、別のヘルパーは「最近静かです」という。
個々のヘルパーと本人都の関係によって騒がしくもなり静かにもなるという事はあるが、
実際同じ状態であっても、神経質なヘルパーとおおらかなヘルパーとでは、判断基準が変わってくるということもある。

その点を考えると、
GHという形態の中で、同じ時間同じ空間を複数の支援者で支援するということは、互いの判断基準も明確にされ、当事者にとっての暮らしやすさを考えやすくもなるように思う。

ただ、
「知的当事者はGH」と短絡的に想い描く人たちは、その点をどう見ているのかは不明。

それよりも、
「親元にいた時には暴れていた子どもが、GHに入ると落ち着いた生活をしている」という時、
それは一安心と思いつつ、
共同生活をする人が変わった時はどうなるのだろうか?という不安を抱く。
又、
「構造化」の取り組みが実は「管理化」に走っていないかという不安を抱く。
当事者の暮らしではなく、GHのルールやその他の形や支援の体制に利用者全員を合わせていくという点。
それは、GHという名のミニ施設かしていないかという思いになる。

共同生活なのだからそれなりにルールは必要と思う。
でも、「対処できないので対処してください」と言えてしまうGHと言うのは、
そこで暮らす人達の支援をしているのではなく、自らの支援に当事者をあてはめようとしているのだろうと思ってしまう。
そして、それに抵抗して暴れたりすると、
次は入所施設へと当事者を追いやる。

私にだって支援の限界というものはあると思う。
なので、共同生活が成り立たないということの状況も理解できる。
でも、本人の暮らしを支えていると思うならば、その後の暮らしに対しても支援者は責任を追うべきと思うのだが・・・

と話は、ちょっとズレてしまったが、
そもそも、対人関係に困難さを抱く自閉症スペクトラムの人たちにとっては、
逆に一人暮らしの方が様々な面で解りやすいと思う。
本人が暴れたりする時に、なぜそのようなことが起こっているのか(起こさせてしまっているのか)を考えやすい。
さらに、
GHでは、その表現が他の利用者に向かっていった時、支援者は別の当事者の支援をも同時に行わなければならない。
でも、ヘルパーと一対一の場面で起こることは、その当事者と向き合うことのみに集中できる。

そんなことを経験上思う私だが、
自閉症スペクトラムの専門家の皆さんの専門性において、実際はどうなのだろうか?
支援の体制や支援のあり方や支援者の能力的なことを横において、
純粋に当事者本人にとっての解りやすい生活と言うのは、
グループホームなのか?
ヘルパーを使っての一人暮らしなのか?

その辺りのご意見を聞かせて欲しい。
posted by 岩ちゃん at 11:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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