2015年08月24日

知的当事者に対する合理的配慮「わかりやすさ」って?

全国手をつなぐ育成会連合会のHPに
「知的障害のある人の合理的配慮」検討協議会報告書、およびわかりやすい情報 提供のガイドライン」が載っていた。

「合理的配慮」という言葉が巷で聞こえるようになってきたが、
知的当事者に対する「合理的配慮」ってなんだろうと常々思う。

そして、
記事の内容を見れば「わかりやすさ」という言葉で様々な事柄が報告されている。

確かに、「知的」障害故の「わかりにくさ」は巷にあふれている。
私たちにとっては何ら問題なく理解できる単語でも、
知的当事者にとっては難解で意味不明な言葉であり、
日本で生まれ日本で育ち日本語を使って入るが、外国にいるかのような状況が巷にあふれていると思う。

だから、
「わかりやすくする」というのは、「合理的配慮」なんだろうと思う。

しかし、
ふと湧き上がる疑問。
「わかりやすさ」って何?

様々な当事者と日々関わっていると、
確かに、「その人にとってのわかりやすさ」というものはあると思う。

例えば、計算が苦手な知的当事者がコンビニで買い物をするとしよう。
Aさんは、いつも千円札を出して買い物をする。
Bさんは、財布に手を入れ掴んだ小銭を順次だし、代金に達した時に店員が受け取る。
Cさんは、お財布を差し出し代金分を店員にとってもらう。
Dさんは、計算ができないので一つずつお金を払う。
Eさんは、お金の概念自体が解らず、ガイドヘルパーが代金分を本人に渡し、本人が支払う。
Fさんは、欲しい物を手に取り店を出るので、ガイドヘルパーは本人を静止しつつ代金を支払う。
Gさんは、Hさんは、Iさんは・・・・
と、
個別「買い物をする」「代金を支払う」ということにおいての「わかりやすさ」は様々で、
Fさんについては、ともすれば窃盗に間違えられてしまう可能性もある。

「わかりやすさ」と一言で済ませられない何かがそこにある。
「わかりやすさ」のガイドラインそのものが、かつて当事者たちとのやり取りの経験したことのない者にとっては大きな負担であり、「合理的配慮」の必要性を説かれ、懸命に対応を考えるも、
その相手は様々で、考えたやり取りが通じないという事もある。

でも、
AさんからFさんの例に上げた事柄を、
我が事務所のご近所にあるセブン-イレブンでは、それなりにやりとりしている。
長年、私の知人たちが利用してきたコンビニで、
新しいバイトの店員でさえ、そこそこの対応をしている。
(そのファーストコンタクトは、いろいろ大変なこともあるけど)

必ずしも常にうまくいくとは限らない。
常に配慮がされているとはいえない。
全ての知的当事者に対応できるとは思わない。

でも、
それなりに当事者たちは買い物をして来る。

「ここに合理的配慮がなされている」と言えなくもないが、
常にうまくいくとは限らない中で、
「合理的配慮」の有無で語ると無理がある。
又、
上手くいかない時に、
その責任はお店の側を責めることになりはしないかとも思う。

それでも、買い物ができるセブン-イレブンの存在は、常日頃から凄いと思っている。

それは、決して長い年月をかけ先駆的に「合理的配慮」を追い求めてきたのではなく、
長い年月をかけ「合理的調整」がなされてきた結果のように思う。

「配慮」とひとくくりでは語れない、個別様々な当事者にとっての「わかりやすさ」
他者にとっての「わかりやすさ」をあてはめても、
決して「わかりやすい」とは限らない。
個々の「わかりやすさ」はやり取りしなければ解らない。
様々な人とやり取りする中で「わかりやすさ」の想定は増える。

「わかりやすさの想定」を増やすためには、
「合理的配慮」という言葉で「結果(形)」を先に提示するのではなく、
私たちには理解できない「わかりにくさがある」という前提を持ち、
お互いの世界感の中で「調整」を図り続ける事が重要なんだろうと思う。

例えば
エレベーターを設置する。
と言うのは、
車いす利用者がエレベーターと向き合っているのではなく、
その場を所有する人と向き合い、何をもって「排除しない」かを考え、
「配慮」という名の「エレベーター」を設置する。

しかし、
知的/発達の当事者たちが抱えている困難さは、
ガチで相手とのやり取りの中で起こっている。

「人それぞれ」とは、
知的/発達の当事者と一括りではできない個別性がある。
それと同様に、
やり取りする私たちの側にも、様々な考えや価値観や段取り等々がある。

それぞれ同士の関係の中では、
何気にフィットする場合もあれば、
いくら考えても対応しきれない場合もあったりする。

だからこそ、
そこには「配慮」ではなく「調整」という形で、互いの状態や状況を出し合い、
次を生み出すことが必要なんだろうと思う。

「わかりやすさ」のガイドラインは、
関わるきっかけや関わり方のヒントにはなると思う。
しかし、
きっかけやヒントとしてのガイドラインではなく、
「エレベーターを設置する」と同様に、
そこに正解を求めていくと、
懸命になればなるほど、
うまく回らない状況は、当事者の側の責任になってしまうように思う。

だからこそ、
「配慮」ではなく「調整」なんだと思う。

そして、
「調整」にはプロセスが必要で、
「調整」を行うために様々な手立てを考える。

本人とじっくりとやり取りするのもしかり。
ガイドラインに示された「わかりやすさ」を試してみるのもしかり、
身近にいる人に当事者のことややり取りの方法を聞いてみるのもしかり、
出会うお客さんとのやり取りを店員同士で共有したり、
店員と当事者の支援者とが一緒に考える機会を設けたり。

「調整する」ことのためにやれることをやる。

そして、
「合理的調整」というものは、
正解がどこにあるかがなかなか見えない。
見えなくても、何らかの個別の正解がどこかにある。

「個別の正解がどこかにある」という想いを持つことが一番重要なことだと私は思う。

そして、
「必ずある」と自然に思えるようになるには、
幼い頃からともに学び/ともに育つ中で、
日々様々な事柄があっても排除されない。
排除されない中で、日々の事柄を解決していく。
そんな日常を子どもの頃から持ち続ける必要があると思う。

私は、
大人になってから「ともに生きる」とか「障害当事者に対する支援」等と考え担うようになった。
なので、
「どこかにある」というのはおとなになってからの経験としては持っているが、
「必ずある」とは思えない。常に「無理かもしれない。否そうではない」と自問自答している。

だからこそ、
幼い頃から「ともに生きる」「人を分けない」という事が必要なんだと思う。
そして、
「そうは言っても現実障害を持つ子どもが普通学級にいると・・・」という現実から「調整」を始めていかなければならないのだろうとも思う。
posted by 岩ちゃん at 10:43| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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