2015年10月12日

伝える/伝わる

私達と異なる世界観を持ちつつ私達の世界観の中で生きている知的や発達の当事者たち。
彼らと日々やり取りしていると、
「伝える」ことと「伝わる」ことの間に大きな開きがあることを思い知らされている。

こちらは相手に解りやすく伝える。
相手はそれに応えて「はい」と了解する。
しかし、
その「はい」が「了解」の「はい」ではなく、
「聞きました」ぐらいの意でしかなく、
「聞きました。(でも、よく解りません)」の(  )部分が言えず、
言葉になった部分だけを私たちは受け取りその先を対応している場面がたくさんあるように思う。

こちらが伝えた事と相手に伝わったこととの違いはなかなか理解できない。
なので、伝わっていなかったという後々の結果も糧に、
個々の当事者とやり取りを重ね、
その差異を意識し、
懸命に「わかりやすさ」を追究する。

言葉だけでなく文字にして伝える。
漢字にふりがなを振る。
絵や写真を使い説明する。
事前に予行演習をして混乱をなくす。
当事者をよく知る介助者を手配する。
相手に通じる言葉を考える。
等々。
本人に伝えるための努力を懸命に担う。

それでも「伝える」ことと「伝わった」ことは違う場合がある。

「伝える」ことと「伝わる」ことは違うという前提を持って日々やり取りしているのだが、
「伝える」努力を懸命に担えば担うほど、
「伝わっていなかった」という現実に遭遇すると、
「あれだけ懸命に伝えたのに、あなたもその時わかりましたといったのに」と
「伝える」側の責任ではなく相手の責任にしてしまう。

「解りやすく伝える」というのは支援の側の責任。
しかし、
本人が「はい」といった瞬間に支援者の責任は消え、
後は全て本人の責任となってしまう。

それは、
支援者が「伝える」努力を懸命に担えば担うほど、
「伝わっていなかった」時の当事者の責任が大きくなる。

「伝える」と「伝わる」というのは本来相互作用であるから、
その結果においては、相互に責任が生じるものだと思う。
しかし、その責任は前半は支援者で後半は当事者が負うというような区分担っているように思う。

支援の側の責任は「伝える」という行為から「伝わったか」という確認、そしてその実際の全域に渡り存在するものだと思う。
当事者の側も同様に「伝えられた」事柄に対し、解るまでしつこく聞くとか安易に「はい」と言わないと言った事から、相手の意図と違っていたらそこから一緒に考えようとする責任とかがあるように思う。
(ただ、当事者の側の責任と言っても、それを奪ってきた私達の側の責任があると思うが)

「伝える」「伝わる」そして、その実際。

全てに渡り全てに責任を負うということであれば、
実は
「解りやすく伝える」ことだけに懸命になりすぎると、
最後までたどり着けず、結果当事者の側を責める事になるように思う。

決して「解りやすく伝える」という事を放棄するという話ではない。
ただ、懸命に「解りやすく伝える」ことのみに頭を回し続けていると、
本当に「伝わっているか?」という疑問に意識はいかず、
又結果「伝わっていなかった」時に起こる不具合にどう対処するかという次なる展開へは進めず、
当事者の側のみを責めてしまったり、当事者の能力のせいにしてしまい、
支援者のエネルギーを、次なる相互の関係につなげるに至らないように思う。
そうなると、次の「伝える」という場面での「解りやすく伝える」という行為も、
「どうせわからないなら」となってしまうように思う。

支援者と一言で表しても様々なので、どこにエネルギーをかけるかも人それぞれ。
何が良いか悪いかではないと思う。

「解りやすく伝えること」に懸命になる人がいても良い。
「伝わったか」を検証する事に力を注ぐ人がいても良い。
「結果」から次の場面での伝え方を考えるということを強く意識する人がいても良い。

逆に一人の支援者がオールマイティーにこなせるとは思わない。
こなしているように見える場面もあるが、
それは、固有の関係の中で成立しているだけで、
全ての人に当てはまるものではないと思っている。

あくまでも私の場合だが、
長年当事者たちと付き合っていると、
私が意図したことが相手に伝わっていないという場面を何度も遭遇してきた。
懸命に伝えようとすればするほど、伝わらなかった時のショックは大きく、
自分自身を責め、相手を責めてしまうことがしばしばあった。
又、自分自身を責めるということはとてもつらいので、その割合は相手を責める方へと傾いてしまうということにも気づいた。

なので、
あくまでも私の場合だが、
「解りやすく伝える」事に努力するよりも、
相手に「どう伝わっているか」を意識する。
「どう伝わっているか」に関心を持てば、
現れる結果に対し、その場の対処も柔軟さが増す。
「それでは伝わっていなかったか」と私自身を振り返る機会になり、
次の「伝える」ことにおいて「今回の不具合を次に活かす」ということに関心にもつながる。

「解りやすく伝える」ことの努力よりも
「伝わったか否か」を理解/意識することに努力する。

限られた空間の限られた時とは違い、
生活という日常における「伝える」「伝わる」を考える時、
そこにある大きな開きを常に意識し続けるための、
私としては結果からやり取りしている。

そんな私だけど、
「解りやすく伝える」というアイデアは非常に乏しい。
だから、「解りやすく伝える」事に懸命になる人の存在はとてもありがたい。

自分の取り組みが「必ず伝わる」という努力を重ねることは大切だと思う。

だから、「伝える」「伝わる」ということの大きな開きを互いに意識して、
その間を埋める努力は、様々な人との連続性の中で積み重ねていきたいと願う。
posted by 岩ちゃん at 00:00| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

うん。
伝わっているのは、
お互いに、
お互いの、
ひとだよね。



Posted by yo at 2015年10月13日 09:38
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