2015年12月10日

支援された意思決定につきあう。〜若いヘルパーや新人職員の誤解から〜

昨今よく耳にする「障害者の意思決定支援」なるもの。
他人の「意思」を「決定」するための「支援」って何?
どこか支援する側の「意図」をもって「決定」を迫っているかのように感じてしまいます。

人は小さなことから大きなことまで、
何らかの「決定」をもって日々をつないでいる。
それが、漠然としたものであっても、他者に委ねる事であっても、
自らの日々を廻す/拡げるために何らかの「決定」をもっている。

その「決定」を奪われてきた「障害者」たちの現実を知れば、
「決定を支援する」等とは言えない。
人を足蹴にしておいて手を差し伸べる事を堂々と表明しているとさえ思う。

なので、
「意思決定支援」とかその手法とか制度と言ったものに躍起になるよりも、
他者である「障害者」が何をどのように想い描き、小さなことから大きなことまでどのように「決定」しているのかを知りたい。
そして、障害当事者自らが決定したことに対し、私たちと異なる世界観の中で暮らす障害当事者を意識し、私たちの反省も含め、その実現に向けた取り組み生み出していきたいと願っている。

しかし、
こと重度知的当事者たちの「意思」という時、非常に悩ましく思う。
言葉を発しない。「イエス/ノー」でしか答えられない。行動によって表現する当事者たちの意思は?
実のところわからないまま、日々付き合い続けている私。

それでも日々を廻さなければならないので、何をどのように想い描いているのかを知る努力を積み重ねる。
「こだわり」とか「問題行動」と言った私たちの側が受け入れがたい事であっても、そこに何らかの当事者の想いがあると考える。
彼らが語る事柄に対し「現実が理解できていない」と一蹴するのではなく、
なぜ、それが現実とかけ離れているのか?その現実は誰が生み出しているのかと、
当事者よりも、我が身の方を振り返り、関わり続ける。
「本人の意思は?」等とばかり考えていては、その人の暮らしが廻らないので、
とりあえず「本人の意思」としておく事も含めて日々当事者たちと付き合っている。

そんな事を30年もやり取りしていると、
いろんな事に気づけるようになる。
今想い描いているであろうことを想定し、それが数々の誤解を生み出していた事に気づき、その誤解を修正し、再びこちらの想定が本当に当事者自身思い描いている事なのかを確認する事を繰り返している。

いろんな障害当事者たちと付き合い続けていると、
相手の想いをなんとなく理解できる機会が増えてくる。
それは、
「もしかしたら、相手はこう思っているのではないか?」という想定が関係をつなげていく毎に拡がり、
数多の想定ができるようになれば、当事者の想いにフィットする確率が高まるからだと思う。

例えば、
長い年月とりくんでいる私は、
障害当事者が置かれている状況やその中で想い描く事柄を歳の分だけたくさん見聞きする。
又、自分自身が想い暮らしの中で実感として得たものと比較できるものも増えてくる。
又、数々の失敗や反省の繰り返し、さらには理解できなかったことが理解できた喜び等々を歳の分だけ数多く持てるようになる。

そんな自分は、「言葉を発しない/行動で想いを伝える」人たちが描いているであろう「意思」を想定すれば、
10や20の想定が立てられる。
そして、その想定から「明らかに違うであろう」と言うものをたくさん除外し、
相手が想い描く事に近づきやすくなる。

「もしかしたら彼の想いは・・・」と10個想定する事ができれば、
当たる確率は高まるのは当然。
そして、本人の「意思」を知る事ができれば、その対処もできるし、想いの実現に向けて一緒に取り組む事もできる。
そうなれば、当事者との信頼関係は深まり、ますますやり取りしやすくなれば、
10個の想定から本人の意思を汲み取る事もますます容易になってくる。

しかし!
いくらたくさんの想定ができたからと言って、
その想定の中に相手の「意思」があるとは限らない。
どれほど長年当事者たちと関わっていても、当事者の「意思」がまったく見えない事がある。
そうなれば、相手にとっては信頼関係が深ければ深いほど「なぜ気づいてもらえないのか?」と、
近親憎悪のごとくかえって「問題行動」と称される展開になっていく。
こちらも信頼関係が深いと思っていた分、「なぜ思うようにやり取りしてくれないのか?」と、
付き合いの浅い人以上に悩ましく思う。

でも、
10個の想定の中に、本人の「意思」がなければ、どれほど明らかにしようとしても「意思」は明らかにならない。
逆に「10個の想定のいづれかが相手の意思」と決めつけてしまうと、10個の想定の中にない本人の「意思」は、まったく理解できないばかりか、「この10個の想定の中からあなたの描く意思を選びなさい」等という本末転倒な関わり方になってしまう。

長年支援を担う側や障害の専門家達は、
「他者の意思」を理解できる「確率」は高まっても、
確実に本人の意思を理解する事は無理です。

それは、
私たちの日々の他者との関係を考えてみれば、他人の意思などと言うものは理解できないと言うのが当然なので、障害者だからと言って別とは言う事はないのです。

ただ、
私たちと知的障害当事者の違いは?

私たちの場合、
理解できない相手の想いは、それぞれが置かれている立場を想像で入れ替えたり、
対話する事で修正したり理解を深めたり、理解を深める中で「それが私の意思」と表明できたします。
又、どうしても理解してもらえなければ、理解してもらえる人を探すという事もできます。

知的障害当事者の場合は?
まったく異なる世界観を持つ相手と立場を想像で入れ替えるという事は容易ではありません。
対話して修正したり理解を深めたり、その上で当事者自身から明確に「それが私の意思」と表明されない。
そして、理解してもらえる相手を探そうにも探せない状況が、これらをより複雑にしていく。

そんな彼らとの違いの中で
本人が想い描く「意思」を明らかにするには、より多くの想定が必要になると思います。
しかし、どれほど多くの想定があったとしても、その中に本人の「意思」がなければ多くの想定は、その人との関係においては全く無意味なのです。(でも、数多想定する事は、他の当事者との関わりの役には立つので決して無駄ではないと思います)

そこで、
登場するのが、若いヘルパーや新人職員たち。
彼らは、人生経験もまだまだ乏しく、ある程度年齢がいってから新人職員となった人たちは障害当事者との付き合いがなかったりすると、相手が何を想い描いているかという想定できる数が非常に少なかったりします。
想定できる数が少ないと、当たる確率も低くなります。
なので、長年取り組んでいる人たちや専門性を持つ人たちが想い描くことに同調したり、それを「本人の意思」として決めつけたりしがちです。
それは、決して無責任に関わっているという事でもなく、実に謙虚な気持ちから生れているという事であったりします。

小さな「意思決定」から大きな「意思決定」は、本人自身によって明確にされない分、様々な意思について想定する必要があり、支援の側にはたとえ間違っていても想定の中からいづれが本人の意思かの「判断」をもって関わっています。常に正解を求めているだけでは当事者の暮らしは廻っていきません。

小さな判断という事では、
「今晩の食事メニューは何にするか?」という事も、
支援者は判断が求められます。
判断しないとなれば、誰かが1週間分のメニューを決めるという対応もありますが、
それは、本人の意思決定につきあうのではなく、周囲の意思に本人を従えているとも言えます。
でも、健康面や金銭面も含めて考えるとその判断は難しい。
でも、そこにつきあい続けていく必要があるように思いやってきました。

そんな状況下で、先輩ヘルパーが「彼は親もとにいた時、魚が好きで毎晩魚料理を食べていた」と一言言えば
、ヘルパーは「魚料理を作る」と大概はなってしまいます。
ところが、
魚料理が好きなのは、実は両親であって、毎晩魚料理が出されるから当事者もそれを食べていただけの事。
一人暮らしを始めると、たちまち肉料理がメインになっていく。

この「たちまち」というのは、
若いヘルパーたちの中には、「魚が苦手」「魚料理が作れない」という人がいて、
頑張って作っては見るものの、上手くできず、当事者も不味い魚料理には手をつけない。
飯を抜くという事はできない。
ヘルパーの料理の腕を棚に上げ、
「本当に魚料理が好きなの?」と疑うこともある。
そこで、
ある日肉料理を作ってみたら、当事者が勢いよくおいしそうに食べてくれた。
「魚料理しか食べない」としていた先輩ヘルパーたちの思い込みを打ち破る瞬間が訪れます。
そして、それを知った他のヘルパーたちも魚料理ではなく肉料理を提供すれば、同様においしそうに食べる。
魚料理よりも肉料理の方がどちらかといえば手軽でボリュームもあるので、魚と肉の割合がどんどん変わり、
たちまち肉料理になる。

そんな経験から思うことは、
たとえ長年の付き合いの中で10の想定が立てられ、その中から本人の意思に近づく術を持っていても、
10の想定の中に本人の意思がなければ全く無意味な想定になってしまう。
「魚料理」のレパートリーをどれほど持っていても、「肉料理が好き」とはわからない。
逆に、
若いヘルパーや新人職員の想定が、たとえ1個であったとしてもその1個が本人の意思であったなら、
彼らの存在はとても大きく貴重なものになっていくのです。

11個目の想定が加われば、当然ながら本人の「意思」を当てる確率は高まります。
なので、
古くから関わっている人や専門家たちが描く「本人の意思」と言うものは、決して絶対ではない。
想定できる事を増やしていくためには、様々な人の関わりが重要。
想定という事においては、古い人も新しい人も関係なく、当事者と向き合う事が重要。

私自身、ついつい数々の当たりをひいてきた分、自分の想定の正しさを押してしまいがちです。
でも、想定にないものはどれだけ探ってもない。
なので、新しく当事者たちと関わる人の存在はとても大きいと思います。
又、それはヘルパー等福祉に関わる人たちだけではなく、社会を構成する様々な立場の人たちの想定も加わっていけば、もっともっと拡がりを生むと思います。

但し、
1個の想定がどんぴしゃ当たったからと言って、その想定が他の当事者の意思とも合うと思ってつきあえば、そこは10個も1個も同じです。
逆に上手くいった1個目の想定のみで当事者と関わるという事は、「偏見」を生み出す事になります。

なので、大切なのはいかに想定できる数を増やしていくかという事であり、長年付き合い続け数多くの想定を持つ人たちと、それ以外の想定も対等に出し合い、互いに新たな想定も描いていく。

「意思決定支援」なるものの胡散臭さを思う一方で、
「支援された意思決定」なるものも、結局は周囲の意思が当事者の意思にされてしまわないかと常々思います。

人の数だけ想いの数もあるわけですが、
こと「障害者」となれば、その人が描く「意思」さえも一括りにされてしまう現実。

「支援された意思決定につきあう」というのは、
一人の障害当事者に対し様々な人が付き合い、
様々な角度から本人の意思を想定していく。
様々なやり取りをもって本人の意思に近づく。
そして、
「たぶん」という「?」つきの周囲の判断をもってつきあい続けていく。
又、つきあい続けら状況を生み出していく。
それは、昨日の判断が間違っていても今日のやり取りで修正し合える関係を容易にしていく。
そんな取り組みの中で「支援された意思決定」なるものが垣間見えてくるように思います。

長年取り組んでいれば、そのようなことも考えるのですが、
日々つきあう当事者の意思は、新しい人も古い人もそれぞれが個別の当事者を介してつながり語り合い、
ともに明らかにする取り組まなければ全く意味がない事だと思います。

更に、
ヘルパー等の福祉の仕事を担う人たちだけに留まらず、
様々な人を巻き込んでいくためには、地域という場の中で、出会える機会を増やし、
出会った人たち値も含めて本人の意思に近づくための想定を増やす事が必要なんだろうと思います。
posted by 岩ちゃん at 11:57| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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