2016年03月28日

重度知的当事者に選択を迫る場面はどれほどあるか?その時私たちはどうしているだろうか?

地域で暮らす重度知的当事者たち。
本人の想いがなかなか周囲には理解されない当事者たちの自己選択と自己決定はいかに?

先日会った当事者Hさん。
同じ日程で別々のイベントの誘いがあり、
どちらを選ぶか?と訊ね、本人に決めてもらうことになった。

本人が明確に選び意思を発する事ができるなら本人の意向に依れば良い。
しかし、本人が明確に決定を示さない場合はどうだろうか?
明確に答えてくれない。
どちらに対しても「YES(又はNO)」と言う。
「どっちにする?」と何度聞いても本人の意思が見えてこない。
又は、誰が質問するかによって答えが変わったり、間に挟まれ答えようがなく、半ば問い詰めら得ている雰囲気になり固まったしまう等々。

地域で過ごす重度知的当事者は、家族と同居している場合が多いので、
イベントが重なってしまった時、大概はその家族が決めているように思う。

その理由としては、
@同居する家族が本人の事を一番解っていて、家族の判断が一番本人の想いに近いとされている
A明確でないに当事者の決定に対し誘う側が責任が持てない。
の二つだと思う。

Hさんの場合は、
一人暮らしをしているので、家族が判断するという事はできない。
なので、まずはそれぞれがそれぞれに誘う。
どちらにも「YES」という彼が現れたので、
どちらを選ぶかを明らかにしてもらわないと困る事になってしまう。

私たちは、「当日のノリで」という事も許されているのだが、
一人暮らしをしている彼の場合は、事前にヘルパーの手配が必要になるため許されない。

例えば、両方に「顔を出す」という手法も私たちならば取れるが、
それさえも、ヘルパーの手配が発生する。
一方に参加してつまらなければ他方に行くという事も私たちならできるが、そこでもさらに本人の意志の確認が生まれ、確認したことに対する支援の手配が生まれる。

本人にとっては、言葉で迫られてもそのイベントが何なのかを理解する術は乏しく、
実際のところ判断しかねるのだろうとも思う。

しかし、
決めてもらわなければヘルパー等の手配ができないという現実から、
まだ先の予定の選択を迫る周囲の人々。

「Aが良い?」⇒「うん!」
「Bが良い?」⇒「うん!」
「どっちなの?」⇒「・・・・・」

本人に選択を求める側は、どちらでも良いと思っている。
何が何でもこちらに来て欲しいという思いがどちらか一方にあれば、
周囲の協議に結果として決めるということもできる。
その場合は、とりあえず「本人の選択」としつつ選ばれた方は選ばれなかった方にその時の様子を伝え、
次回同様の場面が現れた時の参考にもできる。

しかし今回は、
「どちらでも良い」という事柄に対し、どちらか選んでもらわないと事が進まないと言う状況。
本人は、どちらにも参加したいと言う思いはある程度それぞれに了解されていると言う状況。

やり取りが長引けば長引くほど、
本人は「問いつめられている」と言う雰囲気で、口を開かなくなっていく。
でも、決めてもらわないと・・・

彼自身が判断する材料がどこにあるかも考える。
これまでの類似した事柄を出し合ってみたり、
その日の朝から夜までの流れを、選択いかんでどのように変わるかを説明したりする。
「どちらを選択してもよい」けど「こちらのイベントに参加して欲しい」と言う思いで「プレゼン」しつつも、「相手のイベントを選択する本人の道理」を誘う側それぞれに描きつつやり取りを繰り返す。

本人が口を開かななければ、誘ったものどうしで彼ならばどちらを選ぶだろうかを語り合い、
それに聞き耳を立てる本人を横目で見たりする。

そして、
Aを選べは、ヘルパーさんが必要ないのでキャンセルすることになる。
そのヘルパーさんに気を使っているという、イベントとは関係のない所に行き詰まっている事がわかると、
事はイベントの選択だけでなく、ヘルパーというものの存在がいかなるものかについても本人と考える必要が生まれてくる。
「あなたの暮らしにヘルパーは合わせる」という風に口にしてみれば、
実は、「ヘルパー」という職柄ではなくヘルパーの「◯◯さん」に会えないというのが嫌かもという思いも見えてくる。

ますます話は複雑になり、
本人が口を閉ざすように、誘いをかけていた私たちの方もどうやり取りすればこの事態を収集できるのか黙りこくってしまった。

そして・・・
私「そういえば、Oくんはそちらのイベントに参加するの?」と相手に聞いてみたら、
相手「ええ。参加すると思います」という。
それを聞いていたHさんは突然、
「Oくん?!イエェ〜イ!!」と笑顔になった。
私「そちらのイベントにOくんが参加するならそっちにしとく?」
Hさん「うん!」
と言う事で、今回の自己選択・自己決定は一件落着。
それならばと、ヘルパーの手配等々の段取りをして(その点については本人無関心のよう)、
この話は終わった。

その上で、
「いやぁ〜。Oくんの名前が出たら、絶対にこちらのイベントに参加すると思ったので口にしなかったんですよ」という相手方。
私も確かにと思った。

そこを口に出さずに本人の選択を迫るというのは、果たして意地悪なのか?そうでないのか?

そこに「本人の意思が明確にあるのに触れないのは」という視点で見れば、支援者の勝手に思える。
一方、
常に、そう言うパターンで過ごしてきた故に「それ以外の事を知らないまま選んでいたとしたら?」
別のイベントに参加することで「Oさん以外の人に出会える機会を奪っている」という事を考えたら?
この1時間余のやり取りの意味は大きく変わってくるように思う。

そもそも、
重度知的当事者たちに選択を迫る機会がどれほどあるだろうか?
選択する事に対しどれほどのやり取りがあるだろうか?
自らが決める/決めたという機会がどれほどあるだろうか?

本人のみが選択を迫るでもなく、
周囲が決めるでもなく、
それでも、どこかで決まっていくという経験。

それは、当事者本人のみならず、支援を担う側や本人の周囲にいる一人ひとりに様々な経験を与えていると思う。
それを「本人の事を一番知る家族が決める」としてしまっては、非常にもったいない。

今回のやり取りが決してベストなやり取りだとは思っていないけど、
本人を思い、本人と私の関係を思い、本人と相手やその環境や関係性を思い描きつつ、やり取りを重ねる。

そんなところに、
自己決定というものがあるように思う。

このようなやりとりをどこまで「成年後見制度促進法」を推進する人たちは考えているのだろうか?
今回のように、「どちらを選択しても良い」自己選択自己決定についてのやり取りなしに、
遺産相続やその管理・サービス利用における契約・医療同意等々という大きな選択を本人に求めれば、答えられないのは当然で、答えられないから短絡的に「被後見人」とすると言うのは全くもっておかしなことだと思う。
posted by 岩ちゃん at 11:09| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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