2016年05月22日

「自分の事だから何でも聞いて」と支援者は言うけど・・・

GHを見学に行く予定の当事者。
これまでは、いかに受け入れてもらうかという対応だったが、
希望すれば受け入れ可能となった段階では、
逆にGHを選択するための情報集めが必要になる。
なので、
私も含め周囲にいる支援者たちは当事者に対して「いろいろ質問してね」という。

でも・・・

「いろいろ」という意味も「質問する」という意味も実感が伴わない当事者。
いざ質問しようにも何を聞いて良いかわからない。
なので、「聞いてみたい事を考えよう」という機会を持った。

「何でも聞いて」と言われても答えられない原因の一つには、
何度も受け入れを断られ続けてきたため、
「質問したら断られるのでは?」と臆病になっている点が見えてきた。
(不用意な質問は墓穴を掘るという事は私たちにもあって当然のこと)
GHに入居したいと願っても、
「今度、断られたら」と思うと気軽に質問はできない。
相手の言うがままに形だけ承諾し何も聞けず。
いざ入居してみたら、
本人にとっての想定外の事がたくさんあり、
もしかしたら収拾がつかなくなってGHでの暮らしが成り立たなく場合もあるかもしれない。
それを防ぐためにも事前にあれこれ聞いて納得のいく入居が必要だと思うのだが・・・

「断られたら一人暮らしという選択もあるから、安心して聞いてみて」と、
まずは質問できる安心感を持ってもらう。
すると、あれこれ聞いてみたい事が出てくる当事者。
初め、10も聞く事がなかった当事者が、
20〜30あれこれ出してくる。
同じような質問も中には含まれるけど、
まずは、質問しても良いという事を大事にする。

不安を解消しつつ、さらに自らの暮らしの希望を聞く。
すると、彼の想定は今の暮らしのまま。
新たな場に移れば当然違った環境や関係の中で、新たな暮らしが始まっていく。
今の暮らしがそのまま続くという感覚でいれば、
あえて聞くまでもない。
「聞けない」ではなく「聞く必要がない」状態。

でも実際は、まるで違った環境や関係が始まる。
その点については、なかなか想像ができない当事者。
なので、
当事者が描いている暮らしというものを聞き、
私自身の暮らしを伝える中で生まれる差異を明らかにし、
「あなたと私と違うから、GHではどうなっているか聞いてみないとね!」という形でさらに質問事項を増やす。

初め10もなかった質問が、いつの間にか50近くになっていた。
「考えれば出てくるもんだね〜!」と彼を持ち上げる。
「目標を100にするか〜!」と冗談っぽく話す私。
「えぇ〜〜。そんなにないよ〜」という当事者。
でも、
その表情はどこか嬉しそうで、既にやり取りを開始してから1時間は過ぎていたが、
彼のモチベーションはどんどん高まっていた。

モチベーションは高まりつつも、詰めてやり取りしていたので時折集中力が欠ける。
言い訳がましくその場を離れウロウロする当事者を見て、
気持ちをリフレッシュしているのだろうと。何度も席を離れては戻る彼のペースに合わせやり取りを続けた。

結果、2時間ものやり取りの中で70もの「聞きたい事」が出された。
「無理だよ!」と言っていた彼だが、時間の都合でそこまでにしようと提案すると、
「100まで頑張りたい」と言っていた。
でも、時間がないので70という切でやり取りを終えるための説得をした私。

その中身はと言えば、
他愛もない質問も沢山ある。
繰り返しの質問もある。
主語が変わっただけで同じ質問という事もある。

自らの暮らしについて自らが聞くというのはとても大切で私たちにとってはあたりまえの事。
それは、当事者にとってもあたりまえで、支援があればいろんなことを質問できるという話。

70もの「聞きたいこと」を出してきた当事者。
中には、かなり鋭い質問やその質問をあえてしなければならない本人の状況も見える。
私ならどう答えるだろうかと考える。
中には、私自身不問にしたいものもあった。
でも一つを不問にすればすべてが不問になるのだろうと思う。

今回は、私以外の人たちと一緒にGHを見学するという事だったので、
当事者に対して第三者として「聞きたい事」を書き起こすことに徹した。
当事者が挙げる問いをひたすら書き起こしただけの私。
なので、私自身が彼から問われることもなければ、私の答えは出さなくて良い状況なので助かったと思った。

「良い支援?〈生活書院)」の中で末永氏は
「当事者に聞いてはいけない」という。
逆に私は「当事者はもっと聞いて良い」という事を思う。
でも彼とのやり取りをしていて、
私たちは私たち自身に対し「当事者から聞かれたくない」オーラを常に出しているんだと改めて思った。

私自身も不問にしたい当事者からの問い。
一問一答で私自身に問われていたとしたら、
「そんなこと聞かなくても・・・」の一言で、その次の質問はもう出てこないだろう。
「その質問は、既に聞いたよ/答えたよ」と言えば、
何をその前に聞いたか覚えていない当事者は、
その後聞いた質問が、まだ聞いていない質問かどうかと悩み、
結果何も聞けなくなってしまう。

「自分の事だから何でも聞いて」と支援者は言うけど・・・
聞かない事は関心がない事では決してない。
聞きたくても聞けない何かが当事者の側にある。
それを今回少し感じる事ができた。
そして、まだまだ当事者の事を理解していない私は、
私自身が応えられる範囲のみでの質問を求めているのだと思う。
すなわち、
「何でも聞いて」と言いつつ
「そんなことを聞くなよ」という判断を、
私の側が常に持っているという事。

それは、とても無自覚/無意識に起こっていると思う。
無自覚/無意識に起こるものを自覚して意識的に考えて、
当事者と向き合えというのは不可能。
ならば、
私自身は無自覚/無意識であっても、
立場が違う人・考えが違う人・利害のある人ない人等々
私以外の人が当事者とともに私に対して聞きたい事を出す支援を行ったら。

当事者の新たな一面を見ることになるだろう。
私自身の無自覚/無意識な事柄に気づく機会が生まれるだろう。
聞かれたことに支援者それぞれが回答することで、
当事者のみならず、関わる支援者の意識も見えてくるだろうし、
その意識の中で当事者は暮らしているという事も意識できる。

様々な立場や意見で当事者に向き合うと「当事者が混乱する」としばしばいわれる。
しかし、
このような取り組みを行う事で、支援者は私も含め、自分の無自覚さや無意識に担っている事が問われることになり、答えようのない問いに「支援者が混乱する」という事だとも思った当事者とのやり取りでした。

posted by 岩ちゃん at 12:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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