2016年07月29日

癇に障る言葉に

他人から言われると「癇に障る」と言う言葉があったりする。
その言葉に対し、
時には激高するときもあれば、
黙って飲み込むこともある。
又、こちらの態度によって、
相手はその言葉をその人の前では二度と口にしないとか、
相手の態度を見て、相手のいないところで話を膨らませたりする場合もあったりする。

相手に対してその言葉が悪いとか良いとかはさておき、
大概は発した言葉によって現れる事柄から、言葉を控えたり、そう言う言葉を吐く人を遠ざけたりする。

ところが、
これが支援をになっている自閉症当事者から言われる場面は、
相手が言葉を控えることがなく、やり取りすればするほど激しく繰り返される。
相手との距離を取ろうと思っても、担わなければならない他者に委ねられない状況下では、距離を取るともできない。

結果、
「癇に障る言葉」を繰り返し履き続ける当事者と
「癇に障る言葉」を繰り返し聞かされる支援者との関係が生まれる。

周囲にいる者は、繰り返し吐かれる言葉を嫌い、
なんとか止めさせようとする。
その言葉を使ってはいけないことを懸命に指導したりする。
親しい関係に懸命に飲み込む人もいるが、
やまないその言葉が、自分にではなく他者に向けられた時のことを思い描き、
自分はある程度耐えられても、相手を思えばなんとか止めさせようとする。

なぜ、当事者が繰り返し吐く言葉によって辛さが増すのか?
なぜ、飲み込んだり指導したりと言う一方向の関係になってしまうのだろうか?

たぶん、
私たちの世界観では、言葉と言葉が持つ意味を持って聴いているからだと思う。
「聞く」ではなく「聴く」という事。

「なぜ、そんな言葉を吐くのか?」
「その言葉によってどういう事態を招くのか?」
「相手の感情/私の感情」等々
言葉が持つ力によって様々な想いを抱く。

ところが、
自閉症の人の場合は違った世界観の中で言葉を発しているように思う。

「発する言葉」に意味があるのではなく、
「発した時に現れた状況」の再現であったり、
「耳に残った言葉(音)」を持って相手との関わりを求めていたり、
「相手の許容量を測る術」だったり。

言葉自体に意味がなく、その言葉を発した時の状況の方に重きがあるように思う。

でも、
それは「あるように思う」だけで実際のところはわからない。
又、普段は私たちの世界観の中でやりとりできている分、
どの言葉が「言葉(音)には意味がなく」どの言葉には「意味を理解して語って」いるのかの区別がつかない。

それ故に「癇に障る言葉」を失くすことに周囲は終始することになる。

周囲が描くその感覚や感情自体はとても理解できる。
私は、ある程度意識して入る分(意識しても間違うけど)、「意味を伴わない言葉」に対しては、その言葉を発する背景の方に意識を持っていく。

でも、これが毎日の出来事だとそんな余裕はない。
「また言っている」と思ってみたり
「解ったからもう止めて!」と言ったりもする。

了解不能な「言葉」を前に冷静ではいられない。

でも、
これが日常の付き合いがないとか、初対面の当事者に対してはどうだろうか?
その人に対するイライラの蓄積はない。
その人のこの先の支援を担うという立場にもない。
ただただ、その場その時に出会うその相手とのやり取りで終られる関係であったなら?

いきなり初対面で「癇に障る言葉を吐く当事者」
久しぶりにあったのに「癇に障る言葉を吐く当事者」

そんな当事者に出会う時、大概は傍に日常関わっている支援者がいたりする。
日常関わっている支援者はこれまでの蓄積の中で、相手にも気遣い「癇に障る言葉」を吐く事に制限をかける。
また、弁解する事もあるかもしれない。
謝罪することもあるかもしれない。

でも、
普段付き合いのない私は、多少のことは余裕で受け止められる。
その当事者と別れた後の支援にはコミットすることはなかったりする。

だったら、
「その言葉自体に意味がない」という事も含めて当事者の言葉を聞いてみるというのはどうだろうか?

「癇に障る言葉」を吐く当事者に、
「それってどういう意味で使っているの?」
「いつその言葉を知ったの?」
「その言葉は、あなたが考えたの?それとも誰かが言っていたの?」
「その言葉を言うと心地よい?」
「どんな時に使うの?」等々、

相手の言葉ではなく、その言葉を吐く相手を理解する手立てとしてみる。

その多くは、明確に答えてもらえない。
でも、そもそもその言葉を聞くと「癇に障る」ので、
こちらからそういった質問をしている時間分は、少なくともその言葉を聞かずに済むし、
口に出して相手に聞くことで、こちらはこちらでその意味を考える機会になる。

しばしばみかけるのは、傍にいる支援者が当事者を静止する姿を見て、
「それは良くないことで、懸命に支援を担っている人の苦労を少しでも和らげてあげるために、支援者と同様の振る舞いをする」というもの。

すなわち、傍にいる支援者と同様に、静止したり指導したりする。

当事者から見れば、日々の暮らしの中にいる人に言われるのと、初対面や久しぶりに合う人に言われるのとでは意味が違うと思うが、同じように対応されればそれが当然の事となり、
本来本人が求めていることが見えないままに、事がどんどん進んだり拡大したりするように思う。

「癇に障る言葉」を発する相手その人を理解しようと努めるというのは、
日常の付き合いがないからこそできることだと思う。
その人の背景や関係性がその言葉から見えてくると、
実は「癇に障る言葉」を発する必要がなくなったりする場合がある。
それは、普段つきあいがある分思い込んで付き合っていた者とは違う視点でやり取りすることで、
時に、「それが言いたかった」とか「ようやく理解してもらえた」という機会を、
初対面の人や久しぶりの人から当事者はえるのではないだろうかと思う。

でも、
時にその執拗さを増幅される場合もあり、
増幅したままの当事者とその後を引き受ける支援者たちを思うと、
申し訳なく思う時もある。

その辺り、出会ってやり取りした後の状況をあえて聞かないと見えてこないため、
当事者とのやり取りに躊躇が生まれるのも確か。

実際には、うまくいくこともあればうまくいかないこともある。

でも、
少なくとも
私たちの世界観では「言葉には意味がある」という共通理解がありが、
自閉症の当事者たちの世界観では「言葉を発する背景に意味がある」という場合もあることを意識し、
様々な出会いの中で当事者たちと関わると、違った景色が見えてくるように思う。
posted by 岩ちゃん at 12:16| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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