2016年09月23日

やまゆり園の事件の前に

2016年7月26日に起こったやまゆり園の事件。
まもなく2ヶ月が経とうとしている。
「何かを書かなければ/何かを語らなければ」と思う。
「でも書けない/語れない」としか表せずにいる。

私の周りにいる人々や団体が声明として、記事として、集会という形で語っている。
事件が起こってから動き出したマスコミや公的機関とは違い、
日々の暮らしから、日々の取り組みから、
「何かを書かなければ/何かを語らなければ」と必死に絞り出すように表現する。
何かを書き、何かを語らなければ、これを機に私たちの意図は違う方向へ事を進める輩がたくさんいるから、
書かなければ、語らなければならず、何も事実が判らない中にあっても発信している。
そこに、敬意を持ちつつも、何かが違うと感じている。

昨日と一昨日。
ピープルファースト大会IN横浜が開かれた。
1日目の全体会が「追悼集会」に変更され、
多くのマスコミが駆けつけた。
翌日の報道を観れば、
「知的障害者たちもこの事件に対する想いやこれからの取組み」という形で報じられた。
でも、毎年開かれているピープルファースト大会の事は何も語られず、
この事件が起こらないために取り組んできたことは、全て抹殺され、
「知的障害者たちもこれから取り組む」課題かのように報じられる。

今、「書くこと/語ること」がその人の整理できない想いをまったく無視して、
あらぬ方向へと進める道具として扱われるように思うと、
今の今、何も書けない/語れない。

一昨日開かれたPF大会のパネルディスカッション。
パネラーとして立った小田島さんが自らの意見を述べる冒頭に感極まり言葉を詰まらせた。
その姿を見た私は、
彼が施設にいた時のことや
施設を出て一人暮らしを始めたことや
一人暮らしが決して順風満帆ではないことや
地域にいても常に「障害者」として扱われることや
常に、様々な不利益の中で暮らし続けることや
だからこそ長年ピープルファースト活動に取り組みつづけてきたことや
彼自身の暮らしさえ必至なのに、未だ施設にいる「仲間たち」が地域で暮らすことを求めてきたことや
懸命に訴え取り組んできたのに、何も変わらない今回の事件。
彼にとっての「仲間」は「匿名報道」という括りではなく、一人一人の存在を実感しての事だと思う。

彼の感極まりは、報道のどこにも現れない。
集まった報道陣には彼の感極まりは理解できないだろう。
(長年付き合ってきた私でさえその真意を理解できないので当然といえば当然だけど・・・)

わずか数分の発言だったけど、
理路整然とした語りではないけど、
小田島さんが言葉を詰まらせ懸命に語ったことは、
私たちに対し様々な事を懸命に伝えていると思う。

続く土本さんの発言の凄さを感じた。
パネルディスカッションの前にあった熊谷さんの話では、
「他者を見つけ出して、その他者の責任して問題を解決したことにすることではなく、我々全員が事件を起こしたと捉え、一緒に考える事が必要」という内容だった。
でも、土本さんはこの事件が起こったこと原因を「国や行政や親たちの責任」という。
そして「親が障害者を否定し、国や行政はその親達の声を聴く」という。
そういう実感の中で「私たちの声を聞け」と言っている。

熊谷さんの「全員がこの事件を起こした」という捉え方は理解できる。
私自身もその一人だと思う。
でも、
ただ漠然と「全員が」としてしまうと、問題が曖昧になるだけで、実は何も解決されない。
土本さんは、自らの立場から懸命に語り、その語りに立場の違う私自身がどう取り組めば良いのか?
実は、私達自身を厳しく追及する言葉だと思うが、
その言葉は、当事者対その他という対決構造をつくる。
以前の土本さんだと「敵を明らかにして取り組む」的な語りだったと思う。
しかし、今回の話は「親は当事者を否定する。その親の声を国や行政は聴く」という言葉が、
「知的当事者の声を聴くことで、それぞれの立場で改めるべきことを改めて欲しい」と訴えているように聞こえた。
土本さん自身も長年の取り組みの中で、変化しているように思う。

「相手の存在を否定するのではなく」ではなく「相手の存在と自らの存在の違いを明らかにすることが、互いを肯定し合うことに繋がる」という想いにいるように思う。

しかし、
「相手の存在を知ることなし」に表面に現れる事柄をもってでしか判断しない私たちに対する鋭い指摘だとも感じる。
「重度の知的障害者も参加しています」「参加できなかった障害者もいます」という土本さん。

二人に共通してることは、
長年ピープルファースト活動に懸命に取り組んできたということ。
「私たちは障害者である前に人間だ」というピープルファーストとその活動。
長年の活動に取り組んできたからこその二人の発言。

私たちは、今語られることの前に今語られていることの前にあることを知る必要があると思う。

今あることの前を知るためには、その人個人と関わらなければと思う。

同じくパネラーとして発言した中山さんと小西さん。
私は、お二人との関わりがない分その想いを知ることはかなわない。
でも、これを機にお二人と近づきたいと思う。

やまゆり園の事件は、衝撃的でその後の動きに対しても緊張感をもって意識的に関わらなければならないと思う。
しかし、既に風化が進んでいる。
「やまゆり園の事件」と言うのは、たぶんあと半年もすれば何処かに消えてしまうと思う。
新たな事件が起これば、人々の話題はそちらに移るだろうと思う。

何故なら、
これまでも、たくさんの虐待事件が報じられてきたし、今なお虐待は各地で起こっている。
どれほど多くの事件があったか?
多くの人は忘れていると思う。
かく言う私も、正直に言って忘れている。

でも、
自らが自らの場で取り組んできたことは忘れない/忘れられない。
「やまゆり園の事件」ではなく、私たちの身近に起こっている事柄に取り組むことでつながっていくように思う。

「やまゆり園の事件」は「何故起こったか」とか
「二度と起こさないように」という事を語るならば、
それ以前をもっと語らなければ、この件は何も語れない。

以前を語ることで今が現れ、
今が現れるからこそ、
将来につながる。

今は「書けない/語れない」私だけど、
自らの足下を改めて見つめ直すことが、
やまゆり園の事件を考え取り組むことにつながるように思う。
posted by 岩ちゃん at 10:22| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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