2015年07月23日

夏休みとFGC

夏休み!
それは多くの人にとってうれしい日々だと思う。
普段できない事を思いっきりやったり、
日頃の疲れを癒すためにのんびりと過ごす。
普段会えない人に会うという事もある。
又、
風習や習慣によって予定が決められてしまう人もいるだろう。
学校が休みになり子どもの世話に追われる人もいるかもしれない。
又、
「企業の長期休み=仕事がない=収入が減る」と切実な人もいて、
休みの他の仕事を探すという人もいるので、手放しでは喜べない面もある。

それぞれにとっての夏休み。
すなわち、日々の流れとは違う状況にどのように対応すれば良いか?
自らの想いはあったとしても、自らがその想いの実現に向け対応できない、
実現するためには、普段とは違う支援が必要になる人たちの事を考えると、

実は私にとって夏休み前は非常に憂鬱で判断不能状態になる。
それでも何とかしなけれならないので、例年なんとかしているのだが・・・
いつも後味が悪い。
上手くいく場合もあるけど、
それは、その人のその夏の出来事でしかなく、
同じパターンで上手くいく事は決してない。

それは、
うまくいったんだから例年そのパターンでやれば、
当事者にとっても良い事と思い込みたいけど、
私自身を振り返れば決して同じ夏ややってこない。
なのに、
当事者に打かくいったパターンで支援の体制を組むというのは、
押し付けになってしまう可能性も生れる。
でも、
人でもない中で、早々に決めてもらわなければ困ると昨今各事業所から催促され、
そこから生まれる焦りと「勝手に決めちゃえ!」という誘惑とが常にあったりする。

人それぞれの非日常に対し、
自らが希望を描き、自らが準備して、自らが実行・実現する人たちではなく、
重度知的障害の故に、やりたい事が描けず、やりたいと思っても発する事ができず、かといって自分で準備から実行・実現という流れのすべてに人の関与が必要な人の場合。
何をどのように実現すれば良いのか?
明確な依頼があれば非常に楽だけど、
本人からの依頼がまったくない、自立生活をしている重度知的当事者たち。

又、それは重度知的当事者に限った事ではなく、
中軽度の支援を必要とする知的当事者たちにおいても同様。
例年、それなりの夏休みを過ごし、本人も満足しているように見える。(実際に満足してもいるだろう)
ところが、
ある年新たな提案を当事者に振って一緒にやってみると、
翌年の夏休みから要望の幅が拡がるという事はしばしば見てきた。
それを裏返せば、自分が想い描ける範囲の外に自らの希望が会ったにも関わらず、
それを実感する機会を奪われきたともいえる。

そんな風に考えていくと、
なんとも憂鬱な夏休み前。

しかし、
本人自身が過ごす夏休みを、本人を取り巻く人たちと一緒に考えていく。
日々の暮らしから当事者の関心をそれぞれの目で語り、
夏休みでなければできない事をそれぞれが提案してみる。
様々な提案を実行に移すための取り組みを考える。
提案が多ければ、翌年に持ち越すことだってできる。
みんなで提案を検討し、実行に移せば、
単に言われるままに介助したというのではなく、提案したことの結果をみんなで共有する事もできるだろう。

そんな場がFGCだとすれば・・・

おもしろいと思っている。



posted by 岩ちゃん at 11:23| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

FGCを日本の中で考える

「FGC」=「ファミリーグループカンファレンス」
オランダで取り組まれているFGCを巡っての研修が17日から開かれている。
本日は最終日。
オランダでの取り組みが語られてきたが、本日の目的は
「日本でFGCをいかに実践するか」という事。

その目的のために3日間を費やしてきたとも言えるが、
これまでの研修を振り返ると参加者の皆さんは非常に消化不良状態のように思われる。

その原因の一番は、
「ファミリー」の捉え方となる前提が異なる点が明らかにされないから、
そこから生まれる了解不能さがあるように思う。

また「ファミリー=家族」は「血縁」としての「家族」ではなく、「当事者を取り巻く周囲の人々」とした場合においても、
日本では、「個人の権利を守る」ことよりも「家族」と言う単位を守る事に終始している状況の違いが明らかにされておらず、
日本では、「家族」という「輪」が崩れることが「問題」となってしまう点がなんとも研修の邪魔をしているように思う。(「家族と言う単位を守る」という事は、ご近所や地域という輪も守るひいては国という単位を形成する秩序を守る事が大きく、それを破る者を排除するか改めるによって解決を図ってきた歴史が講師や参加者一堂と共有されていない)

私自身も研修の場で数々の質問をしてきた。
それに対する回答がない中で悶々とする事もしばしばある。
でも、悶々とするのは私の日常なので、研修自体に悶々とするよりも、
自らが発した質問や他の人達が発した質問に対し、
私自身の中で回答を探ることに努めている。
(よって、私にとっては研修の場や講師の話そのものに何かがあるというよりも、考えるきっかけとして描いている)

「日本でFGCが可能か否か?」
と言う質問に、私は可能と答えてきた。
但し、私の頭のなかでは、それを実施するには30年かかると思っている。
その一方で、私が担っている現場は30年かけてこれに取り組んできたと思っている。

私がこの研修に参加した目的は、
@自らの活動を振り返るため。
Aこの取組に関心を抱いている人たちとつながるため。
と言える。

そして、Aについては休憩時間等でいろいろやりとりしてきたし、
他の人達から出される質問に講師が回答しなくても、
私は、その人達の考え方や想いや状況を知る機会として有意義な機会になっている。

そして、
@について
オランダのFGCは、ともかくとして、
私たちが取り組んできた事がFGCなのか否かという点において、
同じであり違うということがこの3日間で明らかになってきたように思う。

FGCでは、家族も含めたグループによって問題を解決するという。
「輪」をもって「解決」を図る。
「解決」を図るために「輪」を広げると言う。
その点では、
まさに、私が取り組んできたことと同じだと思う。

しかし、
私の取り組みにおいて、「家族(血縁者)」は、半ば排除してきた。
排除と言うと誤解されるけど、
「輪」の中に「家族(血縁者)」を入れず、血縁者については別途フォローに努めてきた。
なぜなら、問題は家族にあるのではなく、問題となってしまう(問題としてしまう)私たちの側に解決の責任があり、その解決を常に当事者とともに図ることを求めてきたから。

「プロセスを信じる」という事もとても大切だと思う。
私も常に結果ではなく模索し続けることだと思っている。
競技し続けることだと思っている。
なので「プロセスを信じる」という点は、人を排除しないということとして十分理解できる。
しかし、
当事者たちや私が「信じ」ても、
少数派として常に排除しようとする人たちに抗しなければならない状況はあった。
なので、「プロセスを信じる」と言われてもにわかに鵜呑みにはできない。

そんなことをあれこれ考えつつ、
その回答をオランダで取り組む講師たちに求めて行くのは違うと思う。
私は私が置かれている状況の中で、このFGCの考え方をどう参考にして取り組むかということだと思っている。
そして、
私はこの必要性を感じている。

だから、日本にいる人達同士で考えていくことが必要だと思う。

そして、
現段階で想い描いていることは、
「FGC」なるものが、「問題を解決する」ために開かれるならば、
それは大きな間違いだと思う。
なぜなら、
日本の中で起こる「問題」は「家族という単位が成り立つか否か?」「家族という単位を成り立たせるための課題は何か」ということにすぐつながり、
常に当事者を排除する異なる考え方を排除する形で解決を図ってきた。
それ故に、FGCが「問題を解決する」ために開かれるのであれば、
当事者や少数者の側にいる人達は、恐ろしくて導入を阻止する動きになる。

私も、FGCが「解決」を目的にするなら、阻止する(意味のないものにする)方向に考えると思う。
でも、
日々の忙しさを押して4日間の研修に参加しているのは、
これから新たな流れを作るものとして、
新たな流れを作るために大きく役立つ可能性を感じるから。

そして、
その実現のためにとりあえず今考えていることは、
「カンファレンス」という「問題解決を図る場」ではなく、
「ネットワークを構築する」という事。

問題が起こってからだと常に当事者の側に責任を負わされてしまう状況。
研修の中でも「輪の中心に問題を置く」と講師が言っても、
「当事者を中心に置く」と聞いてしまい混乱をきたしていたように思う。

どう考えても日本という場の中では、「問題」が起こると当事者の側の問題にされてしまう。

だから、
「問題解決のためのFGC」ではなく、
「問題が起こったとしても、一緒に取り組めるネットワークづくり」として考えるほうが良いと思っている。

そのためには、コーディネーターの意思というのがとても大きいと感じる。
オランダのFGCにおいては、「ファミリーグループ」が解決する事が重要と置く。
それは、「ファミリーグループが解決を図らなければ、行政や専門家が強制的に決めてしまう」という状況が待っているから。
ところが、
日本においては、「ファミリーグリープは、問題の解決を行政や専門家に求める」「行政や専門家が動かないために、家族が困難に陥っている」という立て方がされているように思う。

オランダのFGCコーディネーターは、ファミリーグループが問題を解決するためにコーディネーター自身は専門性を持たず、ひたすら当事者の周囲の人達に集まってもらうことのみに努めるという。
しかし、
それでは、問題解決のために当事者が排除されたり寄ってたかって本人を変える方向へと進んでしまう。

ならば、
「問題」として現れる前にFGという枠組みを作り、
日常的に関わる状況を生み出すことで、日々の中で起こる課題と日々の中で解決していく道を探る必要があるように思う。

最近思うことは
「問題が起こっていない所に問題がすでに起こっている」という点。
実は、上手く言っている時当事者たちは放って置かれ、
上手くいかなくなると寄ってたかって解決を図るという状況。

問題が起こっていない内に、様々な人とのつながりを作っておく事。
が重要だと思う。

なので、
まず必要なのはカンファレンスではなく、ネットワークだと思う。

それは、
特に意思決定にこんなんだを持つ知的当事者たちにおいてとても必要なんだと思う。

そして、専門家によらない解決を求めるFGCであるならば、
専門家以外の人達をどのように集めるか?という課題が生まれる。

昨今、障害を持つ子どもたちは、
教師や専門家たちによって別々にされ、
地域のつながりを奪われている。
「ともに生きる」という事が奪われている。

教師たちは「ともに生きる」事を願っても新たな関係を生み出す余裕がなく、
排除せざるを得ない状況に追い込まれている。

ならば、
普通学級で誰もがともに学べるようにFGCを開き、
日常的にその環の中で起こる事柄と向き合えば良いと思う。

そして、
学校を卒業した後、
その輪が当事者の自立生活を実現するための核となればと願う。

親が抱えている状況を親自身が解決する事が当然のように語られ、
孤立化する家族を教師や専門家が支えるのではなく、
地域として、クラスメイトの関係において支えていく。

長年付き合いを重ねるなかで、
当事者が親元を離れ自立生活を始める際の意思決定に参加し、
支援の核となって様々なサービスを使っていく。

ファミリーグループカンファレンスという名称そのものが与える誤解はさておき、
当事者が輪の中心にいるのではなく、当事者も輪の上にいて、
互いの関係の中で起こる様々な事柄を共有していく枠組みとして、
グループネットワークを構築する事をあれこれ最終日に指向したいと思っている。

※会場に向かう電車の中で思いつくまま書いているので細かい点はご了承を。





posted by 岩ちゃん at 08:36| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月30日

「ファミリーグループカンファレンス」を巡る話を聴いてきました。

5月23日に、成年後見制度を見直す会主催の公開学習会で、
ファミリーグループカンファレンス(FGC)」を巡る話を聴いてきました。

本来期待していたものとは違いましたが、
それは講師が担っている現場と私が担っている現場の違いであり、
話の内容自体は、とても有意義な話でした。
そして、
現場が違うからこそ、私自身はこの話を聞いてこの先何をどのように展開すれば良いのかを考えていきたいと思っています。

さて、
今回の学習会は、
「成年後見制度」を「見直す」会と言う事で、
このFGCの発想を、意思決定に困難さを抱える人達に対する支援を考える材料として得るために持たれました。

・専門家集団に拠らない意思決定支援
・後見人等の特定個人に拠らない意思決定支援

本人の意思は尊重されなければならない。
本人の権利は保障されなければならない。
とは言うものの、
では、どうなれば尊重されている事になるのか?
どうなれば権利が保障されている事になるのか?

自らの意思の表現が異なる人たち。
自己決定のプロセスが私たちと異なる人たち。
自己決定の前にある選択肢が奪われてきた人たちの意思決定支援とは?

「分ける方が本人のため」
「厳しい娑婆で生きるよりも入所施設の方が本人にとって安心できる」
という声が、まことしやかに語られる重度知的当事者の周辺。

「困っている障害者には手を貸すが、困らせる障害者は保護するのがあたりまえ」という社会。

誰かの判断・特定の価値観によって当事者の意思が認められる状況に対し、
様々な人が関わり、様々な視点で本人とやり取りし、
明らかになった当事者の想いを様々な形で実現していく。

その一助としての
FGCにしていくにはどうすれば良いか?

又、その担い手をどのように形成していくのか?

まだまだ何も始まっていないと思う。
でも、始めていきたいと願う。

ファミリーグループカンファレンス研修会というのが、
7月17日〜20日の4日間で開かれる。

これに参加しようと思っている。
posted by 岩ちゃん at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

「ファミリーグループ・カンファレンス」に興味を抱く

最近、「ファミリーグループカンファレンス(FGC)」という言葉を知った。
その内容は、まだ全くと言って良いほど知らない。
でも、なんとなくその内容に惹かれるものがあり、今後の日本での展開を追いかけたいと思っている。

ではなぜひかれるのか?
それは、
意思決定や意思表明に困難さを抱える障害当事者を支援するにあたり、当事者個人にのみ焦点をあてて考えるのではなく、本人を取り巻く小さなコミュニティ(ファミリーというが、日本でいうところとの「家族」ではない)をも射程に入れた支援を考える所に、これまで私自身が考えてきた「関係性による支援」とか「地域」といったことが盛り込まれているように感じるからです。

この言葉を知る前に、このブログに書いた「<一つの妄想>市民後見をさらに進めて、市内後見ってどうだろう?」という想いに近い所にあるように感じるからです。

今月23日(土)に成年後見制度を見直す会が、
ファミリー・グループ・カンファレンス
――発祥の地・ニュージーランドや諸外国での実践、日本での展開――
」という公開学習会を開く。

又、
ファミリーグループカンファレンス研修会というのが、
7月17日(金)〜20日(月)に開かれる。

私はそのどちらにも参加したいと思っている。

ただ、この手の外国から届くものというのは、どうも胡散臭さを感じる。
届けられるそのものが胡散臭いというのではなく、海を渡り日本に入ってくると、本来のものとはまったく異なるものになってしまう感がある。

韓国料理や中国料理やベトナム料理等々が海を渡って日本に入ってくる時、
日本人の好みに合わせて味付け等が変わる。
それは、とてもありがたく思う。

でも、専門的な事柄や思想や実践等々が海をわたって入ってくる時、
それを日本人の好みに合わせ変える時、
結局は使えないものになってしまう。
海外の最先端を強調されると、
地元でコツコツと取り組まれてきたことがどんどん否定されていく。

そんなことを思うと、
この「ファミリーグループカンファレンス」なるものもさほど関心をよせるものではなく、
事の経過を見守りつつ、使えそうなことなら使う程度の話だと思う。

でも、
そうではなく、関心を抱いているのは、
まだまだ知られていない状況があるということ。
小さなコミュニティーの必要性を掲げていること
が私自身の興味を引くところです。

そして、
小さなコミュニティーの必要性と言うのは、それを形作るというよりも、
「小さなコミュニティーを良しとする」展開が今後拡大していく事に期待を寄せるからです。

障害者支援の世界特に知的当事者の世界においては、
本人の意思が明確でない分、一般化や普遍化や事業所化等々どこにでも通じるものをつくろうとすると、常に変質し、常に支援の側の意思に当事者が従うしかない状況になっているように感じます。

「小さなコミュニティーを良しとする」というのは、
「そのコミュニティーが成立していればよしとする」発想であり、
そのコミュニティーや他のコミュニティーから侵されるものではないし、
互いに異なるコミュニティーを認め合うことで、新たなつながりが生まれるように思います。

そんな大雑把な想いからこのFGCなるものにひかれています。

そして、もう一つ私が期待しているものは、
就学運動と自立生活運動とがこのFGCの考え方の中でつながりを生む可能性を感じています。

すなわち、
私たちが今自立生活支援を担っている当事者の多くは、大人たちの就学運動によって、地域の中に様々な関係を生み出しています。
そして、幼い頃から築き上げてきた地域の中での関係性があるからこそ、
大人になって「自立生活」という自らの暮らしをそれぞれに営まれているように感じます。

幼い時期に地域から外され、養護学校等の障害者のみが集められる場をくぐってきた人たちも自立生活はしています。
しかし、ある日突然何らこれまでの関係がない中で重度知的当事者の支援を担う時、
彼らがくぐってきた世界を第三者(記録とか親からの情報)から知ることができません。
支援を得て暮らす当事者たちも、どこか自分と支援者という関係のみに終始し、自分の周りに多様な人がいる(自分を肯定的に見る人もいれば否定的に見る人もいればどっちでもない人もいる)という事が、なかなかつかめず、混乱しているように思います。

自立生活運動においては、ヘルパー等の支援者を使い自らの暮らしを成り立たせる。
「最大の敵は親」と言われていた時代からかなり経っているのですが、
重度身体当事者たちの自立生活を見ていると、親の思いは親の思いとして自らの暮らしをヘルパー等を使い実現している。
就学運動の担い手たちの多くが親や教師という状況と、
自立生活運動を担ってきた人たちが、その関係から離れることを求めるが故に、
就学運動と自立生活運動とが繋がらない。

でも、幼い頃から地域の中で過ごす。
幼い頃は当然親の関与は大きい。
でも、その関与は親が全面的に子どもの面倒をみるのではなく、
親は、将来につながるコミュニティーづくりに関与する。
(別に親でなくても良いです)
幼い頃から将来を意識して作られたコミュニティーをもって自立生活をする。

小さなコミュニティーでは、当事者にとって必要となる24時間の暮らしの支援は到底担いきれません。
しかし、その小さなコミュニティーが核となり、
様々なサービスを当事者とともに利用していく。

特定の誰かの意見が本人の意思ではなく、
長年当事者を取り巻く人達と作ってきた関係の中で、
それぞれの現場にある状況の中で、
本人と意思と本人の意思に基づく支援とそれを保障していくための取り組みとして、
ファミリーグループカンファレンスという発想があれば、
これまでと違う何かが生まれてくる可能性を感じています。

そして、
FGCは海を渡って入ってきた取り組みでしょうが、
実は、
日本というところは、常に関係性をベースとした地で、
外国での展開以上のものがすでに存在していると私は思います。

ただ、そう簡単に思えないのは、関係性とかコミュニティーというものを維持するために、誰かを排除する事で成り立っている状況もあるからだと思います。

就学運動は常に排除されようとする者に抗してきた運動であり、
自立生活運動は排除された者達が本来の場に戻る運動として捉えれ、
私が今日になっている自立生活支援は、正に排除されずにきた子ども達が大人になり、
自らが暮らすことに対して様々な形で支援を担っている。

排除しなければ見えてくるものがたくさんあると私は思っています。

でも、
就学運動のみを担っていた時、
「将来」というまだ見ぬ地に対して、ひたすら信じて突き進むしかありませんでした。
でも、すでに少なからず「自立生活」を獲得した当事者たちと日常的に付き合っていると、
幼い頃から共に育ってきたことの大きさは様々な場面で実感しています。

昨今「自立生活」を実現するための制度がそれなりに確立し始めています。
しかし、それを本人が利用するという点では、意思決定に困難さを抱える当事者たちは、
制度の担い手によってどのようにもされてしまう状況があります。

だからこそ意思決定支援はとても重要な事だと思います。

しかし、その意思決定支援さえも成年後見制度等で特定の人の判断が本人の意思とされようとしています。
又、制度が進み「福祉はカネになる」という人たちが、障害者を制度によって囲い込もうとしています。
又、事業所等お金を介し付き合う者たちだけで支援をになっていると、
その力量によって虐待等が起こり、その虐待が起こっている現実が見えない状況があります。
そして、虐待が起こっても同しようもない状況の中で他の施設へと当事者たちが回されていく。

当事者たちの意思が明確でない分、周囲の者の判断によって進められていく現実。
それを小さなコミュニティーによって本人の意思を明らかにする。
小さなコミュニティーの中で協議調整されることをもって、様々な制度につなげ、
当事者を含む小さなコミュニティーが維持されていく。

そんなことを思いつつ、
FGCの集まりに参加してみたいと思っています。

もし皆さんもよろしければ、ご参加してみてください。
専門家や行政等によってこの先変質させられる前に、
新たな取組としてこの日本の中でどのように展開していくかを一緒に考えていきましょう。、
posted by 岩ちゃん at 17:08| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | FGC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする