2017年09月26日

「普通」って何?

身体に四肢麻痺がある。
目が見えない。
耳が聞こえない。
独特のこだわりがある。
奇妙な行動をとる。
等々。

「普通って何?」という問いを発するのは、、
世の中の大多数とは違う障害当事者自身が、
自分にとっての「あたりまえ」を訴える事だと思う。

人から憐れみを受けたり、過大な高評価される自身は、
あくまでも「これが普通」という事を訴える。

そして、
昨今、「発達障害」という概念が広まる中、
TVでは「発達障害とは何か?」みたいな番組が多々流されれるようになった。
それは、その当事者や家族からすれば、「それがその子/その人自身」である事を理解して欲しい。
又、私たちに理解できず受け入れ難い状況から少しでも脱却し、
その人にとっての「普通」を理解したいという世の変化で、
とても大切な事だと思う。

なので、
しばしば語られる「普通って何?」という問いかけは、
当事者個人をいかに理解するかという話。
「一人の人間」として「ごくあたりまえに受け止めて欲しい」という話なんだと思う。
それは、身体当事者達や言葉で語れる発達障害や精神障害の当事者達とその家族や支援者等の周囲にいる人たちによって語られる。
「普通」を疑い、
「普通」=「多数」という事でしかなく、
「個」の主体を大事にするならば、
「普通が普通でない」という話。
そして、「多様性」をより多くの人が理解するためのプロセスなんだろうと思う。

でも、
私はある面「普通は・・・」という言葉を良く使う。
「あたりまえに」という言葉も良く使うし、
自分の中で意識している。

例えば、
ヘルパーとして介助に入った時、
「普通、若者は休日出かけるよね」とか
「普通、外食よりも家で作って食べる方が良いよね」といった事を意識して介助に入る。
でも、この場合は「普通」は「私の場合は」という意味。
様々なヘルパーが当事者宅に現れそれぞれの「普通(=私の場合は)」をもって当事者の介助にあたるのは、
「一つの提案」としてとても重要な事だと思う。
身体障害当事者等、自ら介助者に頼み介助を使い過ごせる人とは違い、
重度知的当事者や発達障害や精神障害の人たちが何を求めているのか?という問いに対し、
様々なヘルパーや様々な人の「普通=私の場合」を提供し、
「あなたの普通/あなたの場合は?」を探り出す事が必要だと思う。
特に、
長年社会的入院を強いられてきた人たちや家族と専門的な関わりの人しかいない当事者たちの場合、
限られた選択肢しかない中で、自己選択を迫られても応えようがない。
「私の場合は」という「普通」を提供/提案して、その人にとっての「普通」を築く事もまた支援の内のように思う。

そんな事を先の話にあてはめてみると、
実はすごく悩ましい。
ある人は、「休日は、雨でも出かけがる」と言い
ある人は、「天気が良いのに家でゴロゴロしていました」と言う。
「そういう日もある」と解釈すれば良いのだけど、
それぞれ異なる「私の場合=普通」に合わせて付きあう当事者の存在を思うと、
何が「その人の普通」か判らない。
でも、そこは日々関わり続ける中で意識していく事を課題に置きつつ、
とりあえずは、一人暮らしという状態が維持できているのなら良しとして、
一旦横に置く。

このような「普通」=「私の場合」という意味での、
「普通」は、日常の中でしばしば現れるのだが、

もう一つ描くことは、
障害を理由として、「普通ではない状況に置かれる」「状況」を打開する時にしばしば「普通は」とか「あたりまえ」という言葉を使う。

例えば、
「普通、成人したら親元を離れて暮らすでしょ」
「普通、社会人なら仕事をするでしょ」
「普通、症状が回復すれば退院するでしょ」
「普通、一番近くの小学校に通うでしょ」
「普通、親が共働きなら学童クラブに入れるでしょ」
等々。

「普通」と言ってもそうでない人はいる。
親とずっと同居し、親が歳置いていくと親の面倒を見るという普通もある。
「働かざる者食うべからず」ではなく、職がなくて収入が得られなければ生活保護を取るという普通もある。
「一番近くの小学校」ではなく、エリート校と呼ばれる学校に通わせる親だっているでしょう。
「おじいちゃんやおばあちゃんと同居していたり、近所に友達が多くて学童クラブを必要としない家庭や子どももいると思う」

なので、ここでも「普通」が「そうでなければならない」という話として言いたいわけではない。

それよりも、
願っても叶わない状況。

普通は近くの小学校に通うのに、「障害の故に」遠くの特別支援学校へ行かされる。
普通、親は参観日と運動会と言った特別の日にしか来ないのに、「障害の故に」毎日付き沿いを求められる。
普通学級で長年過ごし、義務教育が終わろうとする時、他の子ども達の多くは公立高校に行くのに、
「障害の故に」特別支援学校高等部に行かされる。
社会人になり「働きたい」と思っても「障害の故に」就職が許されず、
就労継続支援等に行かされる。

重度知的当事者や行動障害のある障害当事者たちも、
普通に過ごしたい。
親は子どもの面倒を見れなくなれば、自立生活を促すのが普通。
ところが、入所施設を探し、GHを探し、本人自らの生活を促すのでは無なく、親の状況の解決のために子どもを何とかするという話。

すなわち、
私たちが「普通」と思っている事が「障害の故に」「普通」ではない状況に陥れられるという話。

そんな状況に抗するために「普通は・・・」という言葉や、「〜はあたりまえ」という言葉を使う。

「普通でない」という周囲の人たちの感覚に対するという点では、
先の話にも通じる事だと思う。

でも、
社会的な話と個人的な話をごちゃまぜにして「普通」を語る時、
何かが誤魔化されたり、何かがスルーされたり、何かが違う方向へ進むように思う。

例えば、
「移動支援を月40時間にしてください」と行政に訴えると、
「普通、そんなに遊びに行かないし、遊びにばっかり出かければ、日常の活動に支障をきたす」という。
そういう人も確かにいるし、そうでない人もいる。
そして、
そういう言い方をする行政職員に限って「移動支援は何に使うのですか?」としつこく聞いてくる。
そんな職員に「普通、出かけ先をあれこれ人にいう事はないし、全ての外出が予定通りという話でもないでしょ!」と返せば「税金だから言え」みたいに迫ってくる。
又、
私が「(私の場合の)普通、仕事帰りに一杯ひっかけていく事もあるのでその時間帯にガイヘルを使いたい」
と言えば、
「まっすぐ帰るのが普通でしょ」と言う。

そんな「普通」という言葉の使い分けが、
力のある側によってなされている。
それは、
単に行政という立場の人たちだけでなく、
障害当事者たちと比べて圧倒的に力のある私たちの側によって「普通」という言葉が使われる。

「みんなちがって、みんないい」という言葉はとても素敵な言葉だと思う。

でも、
何が「違い」何が「違っても良いのか?」
「みんな」の「みんな」は誰を指すのか?指さないのか?

昔、小学校へ交渉に出かけ、校長室に入ると。
「みんな仲良く」「〇〇小学校の子ども達」みたいな額に入った言葉が掲げられていた。
それを見て私は、
「すてきな言葉ですが、みんなの中に〇〇ちゃんは入らないんですか?」
「仲良くできる子ども達だけが、ここの小学校にいさせてもらっているという意味ですか?」等としばしば言っていた。

「普通」って何?

よく解らないけど、
少なくとも、
人を排除する事と真逆に位置する言葉であり、
大政翼賛みたいな言葉ではないと思う。
posted by 岩ちゃん at 14:50| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

2014年の重度訪問介護の対象拡大についての確認

2014年。厚労省は、これまで重度身体当事者のみが対象となっていた重度訪問介護を、
下記の通りに改めた。

重度の肢体不自由者又は重度の知的障害若しくは精神障害により行動上著しい困難を有する者であって、常時介護を要する障害者
→ 障害支援区分4以上に該当し、次の(一)又は(二)のいずれかに該当する者
(一) 二肢以上に麻痺等がある者であって、障害支援区分の認定調査項目のうち「歩行」、「移乗」、「排尿」、「排便」のいずれもが「支援が不要」以外に認定されて
いる者
(二) 障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等(12項目)の合計点数が10点以上である者


最近、卒論のインタビューを受けたり、重度知的当事者の自立生活支援についての講演依頼を受ける機会が増えている。
又、対象拡大から3年が経つも今尚自立生活を営む重度知的当事者の数が増えていかない現実。
その中で、この重度訪問介護の拡大も含めた今後の展開について考えようとする人たちが増えている。
さらには、
やまゆり園を巡るやり取りにおいても、この重度訪問介護の対象拡大が様々期待も込めて注目されているように思う。

その事自体は歓迎するのだけど・・・

ただ、重度訪問介護の対象拡大と重度知的当事者の自立生活を巡る話や情報や呼びかけが流れてくる中でいつも気になっている事がある。

それは、
「2014年重度訪問介護の対象が重度の知的障害者にも拡大された」という話。

でも、
実際に拡大した対象は、「行動上著しい困難を有する」重度の知的障害者や精神障害者なのだ。

すなわち、
重度の知的障害者や精神障害者に拡大されたわけではない。
「障害支援区分の認定調査項目のうち行動関連項目等(12項目)の合計点数が10点以上である者」なのだ。

昨今「社会モデル」という言葉が巷で聞えるようになってきたが、
この認定調査項目の中にある「行動関連項目」なるもので明らかにされるものは、
本人の「問題行動」「行動障害」
それが、たとえ周囲との関係や置かれている環境や関わり方の不具合という周囲の課題であったとしても、
現れる本人の行動に拠って「判定」される。
逆に、それら周囲と本人との関係が充足し、本人が「行動障害」に至らなければ、重度訪問介護の対象にはならないという事。

そんな「個人モデル」「医療モデル」に拠って立つ、対象を拡大した重度訪問介護。

「重度訪問介護の対象が知的や精神初会社にも拡大されました」という認識では、
重度知的当事者や精神当事者の自立生活に対する支援や自立生活に至る様々な課題は見えてこないように思う。

例えば、厚労省は精神科病院にいる当事者達に対し、入院中から重度訪問介護や行動援護が使えるようになるという。
しかし、入院中の精神障害の当事者たちで利用できるのは「行動上著しく困難を有する者」のみ。
そういう人が重度訪問介護を使い退院していくという事を医師や病院関係者は認めるだろうか?
逆に、落ち着いた生活をしていて、地域移行支援事業を使い退院を目指す人は、「行動上著しく困難を有していない者」なので、重度訪問介護は使えない。
厚労省は、さも地域移行を推進しているかのように思うが、実際は使いたくても使えない制度になっている。

又、
地域で暮らす重度知的当事者たちが重度訪問介護を使い自立生活を始めようとする。
すると、
相談支援事業所によるアセスメントや利用計画案の作成が必須となっている。
重度身体当事者たちが重度訪問介護の利用申請を行う時、専門家によるアセスメントを求められることはない。又、セルフプランが認められている。
しかし、
重度知的当事者には求めてくるアセスメントや利用計画案は、まさに「行動上著しく困難な者」だからだと思う。

その他、
行動援護事業者の活用やそもそも「問題行動」「行動障害って?」という疑問。
さらには、行動障害支援課程という新たに新設された重度訪問介護従事者研修内容の問題点。

そのように様々な課題があるにもかかわらず、
「重度知的障害者にも拡大された」と言われると、実際の事柄が見えてこないように思う。
そして、見えてこないままに不安だけが募り、重度知的当事者の自立生活が進まないというに終わるように思う。

重度身体障害当事者たちによって築かれてきた重度訪問介護。
私は、東京都の事業として行っていた「脳性まひ者等介護人派遣事業」を巡る交渉の頃から重度訪問介護という名称に至るまでをリアルに見てきた。
重度身体障害当事者たちは、ある面制度の支給が行われれば、実際に使いながら自らの暮らしに適した制度やその利用の仕方に組み替えてきた。
しかし、
重度知的当事者や精神の当事者は「行動障害」なるものを対象とする事で、「社会で生きていけるのか否か」を判定される。
そして、対象となったらなったで、別の方向から自立生活は無理と言ってくる行政や相談支援事業所があったりする。

そんな様々な状況も含め、
まずは、どう対象が拡大されたのかをきちんととらえる必要がある。

決して、「常時介護を必要とする重度の知的障害者や精神障害者」にも対象が拡大されたのではない。
どちらかと言えば、
「行動上著しい困難を有する者」にも対象が拡大されたという方が正しい捉え方だと思う。

そこをしっかりとらえた上で、
「重度訪問介護が、常時介護を必要とする重度知的障害者等に拡大された」と言える状況を生み出したい。

2014年の改正から3年後の見直しについて、
厚労省が委託した団体から「重度訪問介護を使わず一人暮らしをしている重度知的障害者の実態調査」を受けた。
こちらにお鉢が回ってきたのは、行動障害等を伴わない重度知的障害者が自立生活をしている実態を把握していないから」というもの。
調査しようにもその上な状態状況にある人を国が把握できていないから。

重度訪問介護の対象を
「常時介護を必要とする重度知的障害者」として欲しいから引き受けたのだが、
結局は、見直しの議論の遡上にも上らない状況。

なので、
願いとして「重度の知的障害者等に対象が拡大された」というのはありだけど、
願いは願いで、実際ではない/今後の課題として認識をもって発信して欲しい。
posted by 岩ちゃん at 14:48| 東京 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

相手との関係で変わる日本語に

日本語には、相手との関係が含まれている。
目上の者に対しては、尊敬語や謙譲語や丁寧語を使う。
目下の者に対しては、横柄な言葉使いをしたりする。
立場が同じ者に対する言葉もある。
そして、
敬語なるものが警語として、相手と自分の立場を推し量ったりする。

この「相手との関係」を認識する事に困難さを抱える自閉症や発達障害の当事者が言葉を発する時、相手との関係性が含まれる日本語は、様々な摩擦を生む原因になっているように思う。

重度の知的障害を伴い、発語がない場合はまだしも、
軽度の知的障害を伴う人にとっての言葉は、自らに語りかけられた言葉をもって学習し、
自らが得た言葉を発すると、時に目上の人に対し失礼な・横柄な人に映ってしまう。

又、中度の知的障害を伴う人は、常に周囲から蔑まれたり横柄な言葉づかいで対応をされ続ける中で得た言葉をそのまま他者に語る事で、当事者の存在を理解しようとする者であっても、感情を逆なでする事になる。

ところが、当の本人は自分の発する言葉を相手がどう受け止めているかを知る由もない。
ごくごくあたりまえに使う。
決して相手を蔑んだり横柄な態度をとっているわけではないが、自分が学んだ言葉を相手との関係を考えずに発するため、当事者の真意が見えなくなっていく。

私が当事者たちと話をする時、
「私は〜」とは言わす、
「自分の名前」に「さん」をつけて「〇〇さん(私)は〜」と語りかける。

その理由の一つは、
「私」という人称代名詞は、いったい誰の事を話しているか理解し難いのであえて代名詞を使わない。
もう一つの理由は、
「〇〇(私)は〜」とした時、相手から「〇〇は」と返ってきて、呼び捨てにされる事で起こる感情を回避するため。

初めっから自分の名前に「さん」を付けて相手とやり取りしていれば、いらぬ感情が生まれないから。

これは、名前に限らず様々な会話の中に含まれているので、慣れていないととてもややこしいし、感情を逆なでされると冷静に本人の意図や意思が聞き取れなくなる。

そして、聞き取れないままに「言葉」に感情がこもっていると解釈して聞くことにより、ますます両者がズレた想いになっていくように思う。

そんな事をあれこれ考えて当事者たちと付き合うも、
私自身相手の言葉づかいに「イラ」っとする事はある。
「何であんたにそこまで言われなければならないの!!」という感情を抱く。
その感情を相手にぶつけても、相手は自らが得た言葉をもって語っているだけだから、
何のことを言われているのか解らない。

「自閉所や発達障害の言語学」なるものがあれば良いなぁ〜と思う。
私たちと異なる言葉の獲得や使い方をもっとうまく整理できれば良いと思う。

そんな学問があるかどうか知らないけど、
相手から受けた言葉によって私自身に起こる感情。
起こってしまうのだからある面仕方ないのだが、

そういう感情が起こった時、
彼らが発する言葉は、私たちが彼らに発している言葉から学び取り使っているのだと思えば、
彼らが発する言葉は、私たちが彼らをどう見ているのか?彼らはどう見られてきたのかを知る手立てになる。

彼等の発する言葉の中に、立場性ではなく、私は彼をどう見てきたのか?彼はこの社会の中でどう見られてきたのか?という経験に対する疑問が含まれているとすれば、
私の中に湧き上がる感情もほんの少し、違う方向へ目を向ける事ができるのではないだろうかと思う昨今。
posted by 岩ちゃん at 12:40| 東京 🌁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

地域移行を実現するために移動支援を使わせて!!

昨今、精神科病院から「地域移行支援事業に協力して欲しい」という依頼が増えている。
過去、強制的に入院させられた当事者に面会に行くと、出入り禁止にされた事がしばしばあったので、
病院からの依頼は隔世の感がある。

とは言え私は、精神病や精神障害と言うものに詳しくない。
又、精神障害の当事者に対する支援の専門性も持ち合わせていない。
でも、
目の前に存在する人たちと付き合い続け、
当事者たちの自らの暮らしや想いや願いに耳を傾け、
お互いがこの社会の中でごくごくあたりまえに暮らせない現実を課題とし、
課題解決のために様々な取り組みを、
ひたすら積み重ねてきただけ。

そんな経験によって、
少なくとも精神科病院や精神障害の当事者達への偏見は少ないと思う。
それ故に専門的見地よりも、目の前に現れる「その人」といかにやり取りするかという点では長けているとは思う。

昨今社会的入院を強いられている人たちを地域に戻す動きがある面進んでいる。
地域移行支援事業というものが生まれ、
福祉計画においても地域移行者数を計画に盛り込んでいる。

しかし、
その動きを見ていると、私のような素人が入り込むような隙はない。
PSナンチャラにOTとかPTとか何の事だか聞いてもすぐに忘れるような肩書の人たちが、
寄ってたかって「地域移行を実現するために」と喧々諤々とやっている。
その果ては、病院内にGHを立てたり、病棟をGHにして地域移行を果たしたという数値だけをたたき出す動きもある。

「精神病」という何らかの「病」はあるのかもしれない。
「病」に対する「治療」は、医師や病院の範囲かもしれない。
でも、
そういう「病」をもって暮らしているのは「その人自身」であり、
「その人自身」は、「その人だけ」で暮らすわけではない。
「専門性に囲まれて暮らす」というわけでもない。

「地域移行」という「地域」には様々な人がいて様々な場があって、様々な人の関わりの中で暮らすという事になる。

でも、
様々な人や場は、「精神障害者」とであった事がない人がほとんど。
出会ったとしても、身内だけで、その身内で抱え込まなければならない社会の状況下で、辛く大変な想いしか抱けない人が多いように思う。

だから今、
「地域移行」を実現するには、地域移行支援事業者が懸命に病院以外の場を探す事に努めている。
そしてその場というのは、通過型GHであったり、訪問看護事業所であったり、精神障害に詳しい居宅介護事業所や精神障碍者を対象とした日中活動の場になってしまう。
しかも、とことん当事者本人と付き合い本人の意向を聞きだし、本人の意向に沿った暮らしをともに構築していくなんて余裕はない。
一方当事者の方も、「退院できる」となれば懸命に病院内にいる人たちの願いに応えようとする。
閉ざされた空間の中であっても、「できるようになる」「やってはいけない事はやらなくなる」事にエネルギーを注ぐ。
紹介された場や紹介された人を拒否すれば、次はないから懸命に相手に合わせることになる。

そして、
相手に合わせられるようになれば「退院」=「地域移行達成」となるのだが、
相手に合わせた暮らしばかりを強いられていては、当事者自らの暮らしは成り立たない。
辛くなって再び入院すれば、「時期尚早」とみられ次の挑戦まで再び長い入院生活を強いられる。
本人も自身を失くす。

そんな事あれこれ思っていたら、
「入院中の重度訪問介護並びに行動援護の利用を認める」という厚労省の通達が届いた。

「これは画期的な事だ!」と一瞬喜んだのだが・・・

長年重度身体当事者たちによって築かれてきた重度訪問介護は、「常時介護を必要とする重度身体障害者」となっている。
これが2014年から重度の「知的障害」や「精神障害」のもので常時介護を必要とする者にも認められた。
なので、これを活用すればと思うところだが・・・

重度の知的や精神当事者に対象が広がったのではなく、「行動障害を有し」「常時介護を必要とする者」に対象が広がっただけ。
我が市では、これまで家事援助や身体介護や移動支援といったものを組み合わせ一人暮らしをしてきた人たちにとっては、ありがたい対象拡大なのだが、
これが精神科病院に入院中の人の場合はどうだろうか?

「行動障害を有する者」に対し医師は退院に向けたやり取りを始めるだろうか?
決して退院させないだろう。
今「地域移行」と称し退院を目指す人たちは、症状が安定していて、服薬管理もある程度できて、コミュニケーションもそこそことれて、意思がはっきりしている人たち。
そういう言う人たちには、重度訪問介護や行動援護は支給決定されない。

結局は、
話は戻って、相談支援員が移行先を見つけてきた所に何はともあれ当事者が了承していくしか地域移行は実現できない。
意識ある相談支援員も、一人にかかりっきりにはなれないのでそうせざるを得ない。

で、
ここでぜひとも実現して欲しいのが、
「入院中から移動支援を使えるようにする」という事。

入院中から移動支援が使えるようになれば、
移動支援を使えば、
・外の世界に触れる事ができる。⇒モチベーションが高まる
・自らが求める場を探しに行ける。⇒自分で実際みてから決められる
・移動支援を使い様々な体験ができる⇒長期入院による浦島太郎からの脱出
病院内にいる間にあれこれシュミレーションしても実際の暮らしと違う場合が多い。
シュミレーションと実際とが違っても、退院してしまうとあれもこれも一度に解決しなければ暮らしが廻っていかない。
入院中にヘルパーと街を歩き、様々なプレイバックをする事で、いきなりの大混乱を避けられるのは単純に考えても解る話。
日中活動の場も実際に何度か体験してみて気に入れば決めれば良いし、気に入らなければ他の場所を探せばよい。
生活に必要なものをヘルパーと一緒に準備する事もできるだろうから、退院後いきなりあれもこれもしなければならないという事が避けられる。

そんな事を当事者の側に立って考えると有効に思えてくる。

でも、それ以上に有効に思うのは、
受け入れる側が本人と緩やかに出あえるという事。
数回面会しただけで、受け入れの可否を考えなければならない状況。
本人の混乱状態に懸命につきあえれば良いけど、ある面完璧な当事者であるなら受け入れても良いと考える場は多い。
そして、いざ退院した後大混乱の下失敗すれば、次の受け入れに躊躇するのは必至。

「何度でもやり取りして、お互いを知った上で決めてもらって構わない」となれば、かなり受け入れのハードルが下がる。
又、何度もやり取りすれば初対面や言葉の上だけでは見えないものも見える。
又、退院前から信頼関係を築いておけば、退院後はいろいろ課題はあっても一緒に解決を図れる。
今の状況は、信頼関係よりも専門性ばかりが目につき、当事者の行動や思考を分析して対処するような状況。
移動支援を使い「習うより慣れろ」的な関係が築けたなら、実はなんてことないやり取りが始まる。

という点から見れば、
実は当事者本人よりも受け入れる側が移動支援を利用する事で受け入れが容易になるように思う。

そして、
移動支援の事業所は・・・
精神科病院で暮らす様々な当事者に出会う機会が生まれる。
いざとなれば、病院にお任せもできる安心感の中で当事者たちと出会える。
出会ってみればなんてことない人の方が多いけど、
閉鎖病棟の中まで入り込む機会はそうそうない故に、様々な偏見や憶測の方が膨らんでいる。
それを払しょくするには「習うより慣れろ」なんだと思う。
そして、
一人暮らしを始めたりすれば、そこに居宅介護のヘルパーも派遣できる。
いきなり「派遣してもらえますか?」と相談支援員に依頼されるよりも、
入院中からやり取りしていれば「その人ならば大丈夫」という事もあると思う。

普段地域で暮らす障害当事者たちとやり取りしていると、
移動支援は、当事者と社会をつなぐ役割だと思う。
単に当事者の余暇につきあうだけでなく、
そこで出会う人たちとのつながりを求めていく事で互いの世界を拡げていく仕事だと思えてくる。

それを、精神科病院で暮らす人たちにあてはめて見れば、
正に、病院と社会をつなぐ役割を果たすのが移動支援なんだろうと思えてくる。

という事で、
移動支援が入院中から認められたなら、
いろんな可能性が拡がる。

それは、行政においてもしかり。
いきなり見知らぬ人(紙ベースでしか知らない人)を支援するのはとても大変な事で時間とお金がかかる。
でも安心感をもってやり取りできるなら、さほど多くの時間とお金は必要なくなる。
万が一失敗したら、それをカバーするための費用は極端に膨らむ。
出も徐々に社会に出てくる状況があれば、失敗のリスクは下がり、
その事によって支援を必要としない部分も増えるだろう。

という事で、
地域移行を実現するために移動支援を使わせて!
と、声を大きくしたい!!
posted by 岩ちゃん at 17:55| 東京 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

「忘れないではなく、思い起こせる関係を」

あれから1年。

月日が経つのが早すぎる。
何も整理できないまま、何も語れないまま1年が過ぎた。

「あの悲惨な事件を忘れない」と声をあげる人たち。
私の中では、そういう声をあげる人たちの多くが過去にあった出来事を忘れていく状況を何度も見てきた。
人は、なにがしかを忘れないと生きていけない。
何も解決されないままに。
何も整理されないままに。
忘れ去られた事件というのは数多くある。

マスコミが取り上げる事件以外にも、同様の事件は数多く存在する。
「一人一人の尊厳」というならば、19人も1人も変わりはない。
私自身が置かれている状況下では、同様の事件が数多く入ってくる。

当該の人々には申し訳ないが、
その一つ一つを「忘れずにいられる」かと言えば「絶対に無理」と思う。

ただ、「思い出す」事はできる。
そして、ふと思い出した時に「あのことで・・・」と問い合わせる事ができる人とつながりは続けている。

そして、この「思い出す」という状態が生まれるのは、同様の事が我が身の日常にあるから。
我が身の日常で起こった事を解決するために、様々な人からヒントをもらう。
ヒントをもらうために懸命になる。
そんな時「そう言えば、あの人がこれと同様の事に関わっていたなぁ」と思いだし、
我が身の日常で起こった事の解決に向け、何をどのような形で問い合わせれば良いかと考えれば、
自ずと過去の出来事が思い起こされる。

「決して忘れない」などと私には言えない。
過去、たくさんの事を忘れてきたから。

でも・・・。
思い起こす事はできる。
思い起こす必然はたくさんある。

必然がたくさんあるというのは良いことではなく、
それだけ数々の同様の場面があり、
わが身の周辺にも同様の場面が現れると状況。

そんな状況は改善したいと願い日々を暮しているわけだから、
思い起こす必然がたくさんあるという事は、決して良いことではないだろう。

「忘れない」ではなく「思い起こせる」という事

今の今1年前の件で多くの方々が関わっている。
様々な立場からの言説が流れてくる。
言葉にならない事や言葉と言葉の間にある様々な想いがそこにあると思う。
私自身は、その一つ一つを丁寧に読み取り/聞き取り、この件で自らの想いや願いを展開するだけの力量はない。

だからと言って、取り組んでいる人たちと私とが遠く離れた人とは思わない。

私は私で、
ただただ、同様に起こっているわが身の周辺の事柄と向き合うしかないと思っている。
願わくば身近にある入所施設から当事者を地域に取り戻したいと思う。
それさえ叶わない我が身の力量。
せめて、入所施設や社会的入院に至らないと願う。
長年思い描き取り組みを積み重ねているが、それさえも確実なものにできずにいる。

地域に取り戻すというよりも地域から奪われないという取り組み。
そんなささやかな取り組みしかできない私にしてみれば、
全国ネットで流れる大きな出来事に対し向き合うことは、遠い彼方の事のように思う。

でも、
つながりのつながりのそのまたつながりの中で、懸命に取り組んでいる人たちがいてくれる事の幸い。
そういう人たちがいるからこそ、わが身の日常の中にある課題に取り組む事ができる。

ただ、辛いと思うのは「今!結集を」的な呼びかけに応えなければなにも取り組んでいない事にされてしまう呼びかけ。

まったくもって無関心な人がいるので、そのような形で呼びかけなければならない心情は解る。
でも、私と同様に小さな世界の小さな事柄を大事にしている人たちの取り組みがいる。
「結集」ではなく「つながり」を求め、互いの課題を認め合わなければ、いずれ大きな出来事は忘れ去られ、思い起こし次に活かす事さえなくなるように思う。

私にとって大切なのは、この大きな出来事を「忘れない」ではなく、
思い出される日常の必然と、
自らの課題解決のためにやり取りできる関係。

そんな事を加速する日常の流れの早さの中で思う。
posted by 岩ちゃん at 11:07| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月25日

連続性の中での自己決定

以前、彼女と2泊3日の旅行に出かけた時のこと。
海辺の民宿で格安の宿。
格安故にあまり料理には期待を持っていなかったけど、宿屋の主人は漁師さんで自分の船も所有しているので、
その日に取れた地魚で料理を作ってくれるとのこと。
1日目の夕食。
それはそれは豪勢なメニュー。
刺し身に焼き魚に天ぷらに煮付け等々。
地の魚をふんだんに使った料理の数々。
「この値段で、この料理」「追加料金を取られるのでは?」と心配するほどの魚料理に大満足した。
2日目の朝食。
大きな干物と魚の内蔵で作った見知らぬ料理等々。
これまた、朝から何杯もご飯をおかわりするほど豪勢な料理に大満足。
2日目の昼食。
朝からたくさん食べたのでちょっと控えめに、
でも漁師町故に、変わった名前の料理名が目に入り昼も魚系料理を食べる。
2日目の夕食。
昨夜とはちょっとメニューは変わったけど、基本魚料理。
魚料理は大好きなのでこれまた大満足。
3日目の朝食もしかり。
そして、3日目の昼食はこの場を去ることを惜しみ、
普段食することのない魚料理を求めウロウロ。
魚で作ったファーストフードを食す。

大満足の3日間。
そして、帰路についた時、家に帰ってから夕食を作るのも億劫だからと、
旅の最後の外食先を探しつつ車を走らせた。

彼女と「何食べようか?」と相談しながら車を走らせる。
そして、入ったお店は・・・
「焼肉屋」

3日で6食魚料理。
魚料理は好きだし、変わった魚料理も食べることができて大満足。
そもそも、それがお目当てで海辺の宿を選んだし、
格安でこれほどまで魚を堪能できたので言うことは何もない。

でも、
6食も十分なほどに魚料理が続けばさすがに飽きる。
決して魚料理が嫌いになったわけではない。
(逆に新たなメニューが加わり、自宅でどう再現するかと言う話も盛り上がる)
なので、単に魚料理が続いたから飽きただけ。
魚料理よりも肉料理の方が好きということでもなく、
どちらも好きなんだけど、
魚料理が続けば、次は肉料理と言う感じ。

「自己選択」「自己実現」を十分に果たせた旅行で、
自らが選択したことに間違いはない。

でも、
たとえ大好きなことでも、それが続けば飽きる。
そればかりだと嫌になるかもしれない。

重度知的当事者たちの自己選択・自己決定・自己実現の支援を担う時、
そもそも本人たちの想いがどこにあるかが解らないので、その解明から懸命に担う。
本当のところは判らないけど、日々やり取りしていると本人の好みがなんとなく解ってくるし、
本人の要望と思って取り組んできたことが、
実はそもそも違っていたという事を実現した後に気づくということもある。

なので、ひとたび確信めいた本人の思いを知るとその実現に向けて懸命に支援を担うということもある。

でも、
そればっかりだと「本人は飽きる」ということだってあるだろう。
「単に続いたから飽きただけ」なのに、「飽きた」状態を見て飽きたことを「本人はそもそも望んでいない」と周囲が認識すると、再び欲しても誰も支援しないということが起こってしまう。

「自己選択・自己決定・自己実現の支援」と言うも、
その中身については、まだまだ何も解っていない支援の側にいる私。
という事を、ふと思い描いた。
posted by 岩ちゃん at 12:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月27日

「障害者である前に一人の人間」と言えても・・・

やまゆり園の事件は、私たちに様々なことを問いかけている。
その問の答えを未だ見いだせずにいる私。

長年地域に存在する障害児や障害者たちと、
暮らしと言う面から様々な事柄を取り組んできた私としては、
「起こるべくして起こった」と思うし
「そうならないように取り組んできたつもりだが、間に合わなかった」とも思う。
又、
一度に多くの方が亡くなり、傷ついた事件ではあるが、
障害当事者たちから見れば、これまでも同様のこと数々あったとも思う。
それはただ、私達には見えないだけの話で、
事柄の大きさゆえに、否応なしに目にし耳にしただけとも思う。

最近、このことを目の当たりにした職員たちのPTSDが認められ、
労災申請が承認されたと言うニュースが流れてきた。
それは、まったくもって当然の事だと思う。
そして、それと同様にその場にいた入所者たちも多くのPTSDに罹って当然だと思う。
(障害当事者たちは、その日の出来事だけでなく、その後の職員の様子や態度が理解できず、様々な混乱を健常者以上に抱いているようにも思う)

「一人の人間として、あの悲惨な出来事が起こった場で生活する事は無理」と、
建て替えではなく、これを機に地域で暮らすことを求める人たちがいる。
「我が子を思えば、入所施設で暮らすしかない」「早急な建て替えを」と訴える人々。

前者は、後者を「障害者の人権を無視している」と否定し、
後者は、前者を「実際の暮らしを知らず理想に過ぎない」と否定する。

「一人の人間として」地域の中で、「あたりまえに暮らす」と言う事を、
どのような形であれ障害当事者たちと関わった人ならば思い描くだろうと思う。
その一方で、
「あたりまえでない暮らし」
すなわち、介護が必要。静止が必要。自分を傷つける人/他人を傷つける人を前に対応を迫れる。

「自立」とは、何でもかんでも自力でするのではなく、
「介護を使って暮らす」という事も「自立」であるということをしばしば耳にするようになった。
東京パラリンピックを前に、「がんばる障害者」の中に「介助を使い暮らす」事も含まれるようになってきた。それに伴い、必要とする支援があれば「後は、他の人達と変わりない一人の人間だ」という声が、
年々通りやすくなっているように感じる。

ただ、
それは、費用対効果という天秤が常にあり、
多くの費用がかかるならば、効率よく施設に入れた方が良いとすぐになってしまう。

やまゆり園の話は、
本人が語れない(語らない)分、理想と理想の空中戦のように思えてならない。
かくいう私は、今直ぐ現場に飛んで当事者たちとやり取りするだけの力量がないため、
今、この課題に直接取り組んでいる人たちを思えば、戦いもせず空中を漂っているだけかもしれない。

でも、
私は、私の足がついている場でこの事件を思いつつ、自らの場の中でやり取りし続けるしかないと思っている。

そんな私が思うことは、
今でこそ、私自身が担ってきた重度知的当事者の自立生活支援について、一定の評価を受けるようになったが、過去このような空中戦を何度も経験してきた。

すなわち、
将来という目には見えないものに対し、
「地域でともに生きる」事を信じ、
「地域で共に生きるなんて理想」とする人たちに、「我が子ではなく、一人の人として」私たちを信用し委ねてもらえるように努めてきた。

決して、全てが上手く言ったとはいえない。
信じてもらえず、我が子を施設に入れた親御さん達がいる。
中には、泣きながら「入れてしまった」と報告する親御さんもいた。

そのたびに、自分の力量の無さを悔い、どうすれば良いのか?と悩み続けながらやり取りしてきた。

ここ2週間ばかり脇腹に痛みがあり、腫れているようにも思うが気をつけていれば、我が身の暮らしはなんとかなっていた。
でも、痛みが取れそうにないから整形外科を受診すると、先週、肋骨にヒビが入っている事がわかった。
「ひねる力が加わると良くならない」とコルセットが巻かれた。
言われるまでもなく、ひねりを加えれば痛い。
その原因が判って一安心したのだが・・・

コルセットを巻いて、今朝行動障害を伴う自閉症の当事者たち宅に向かう。
私自身生活に支障ない程度の痛みであり、
彼が落ち着いていればなんてことない介助。

ところが、今朝は落ち着きがなく大暴れ。
「ほっといて!」という当事者だけど、
室内にある物がどんどん壊される状態。
彼の言動がそのまま彼の要望を表しているとは思わないし、
何かに混乱してのことだとも思う。
ただ、
その手前で、どんどん事が大きくなっていくことを止めなければ、
本来一緒に考えなければならないであろう事柄と向き合えない。
普段なら、とりあえず行動を止めるための力技も使うが、
今日はそうは行かない。

まだ、室内で自分の物を壊すだけなら良いが、どんどんエスカレートして私を引っ張り出す。
それは、さすがにつかもうとする手を避ける。
すると、ますます落ち着かなくなる当事者。
自室であれば、それはそれで本人と私との間のことでやり取りできるが、
この状態で外に出れば、第三者を巻き込むのは必至。
巻き込む姿をただただ横にいて見守るというわけにも行かない。

「私の都合」と何度も謝りつつ、
私の前に入っていた介助者に戻ってきてもらい、彼の介助を交代してもらった。

本来は、私と前の介助者と本人とでやり取りを重ねたいところだが、
介助者二人に本人一人。
それはそれで、又違った受け止められ方もするので、後のことを介助者に委ね帰ってきた。

何が何でも担い続ける事を追い求めてきた私としては、
怪我をしているとは言え、担い続けられなかった事にショックを抱いている。

しかし一方で、
私の状態と当事者の状態を知り、介助を交代してくれた人の存在はとても大きくありがたい。

大暴れしているその場面。
これが家族が全てになっていたなら、
そして、これが日々続いていく状態であれば、
家族として入所施設を選択すると言うのも解らなくはない。

でも一方で、
何ら解決されてはいないが、介助を交代してくれる人の存在は、
入所施設を選ばなくても、とりあえず暮らしが続いていく。
暮らしが続いていけば、今の状況を次の段階で変える機会に繋がる。

入所施設の是非。
建て替えか地域か。
制度のあるなし。

いろんな想いと現実が錯綜する中で、
未だ、私はやまゆり園の事を何を軸に語れるのだろうか?取り組めるのだろうか?と悶々としている。

ただ、言えることは、
「目の前に存在しなければ、私は考えないだろう」という点。

やまゆり園の事が気になるのは、同じく入所施設に入れられ日常空間の中で出会えなくなった人達がいるからであって、関わった当事者たちが皆地域で暮らし続けていたら、この件はまったく他人事になっていたと思う。

これを機に、施設から地域へと言うのは、ありなのかもしれない。
「一人の人間として」と言うのは間違いではない。
存在を否定するものに対して声を挙げなければならないと思う。
否定された者のためではなく、否定してしまっている(見えない場に送り込んできた)私自身を否定する必要があるとも思う。
それは、他者を否定することが我が身も否定されるという実感があるから。

そんな事を思いつつも、
まだ何も見えていない私。

たぶん、
今回の事件をスタートにした語りが、どこかそれ以前を見えなくしているように感じているからかもしれない。

施設に入れざるを得なかった現実。
それを許してきた現実。

家族が「しかたがない」と思う気持ち。
周囲が「しかたがない」と思う気持ち。
どちらも「しかたがない」と思うも、その中身はまるで違うと思うのだが、
そこに何もコミットしないまま過ごせる現実。

今朝の出来事から、悶々と考えている。

悶々と考えながら、介助を代わってもらった時間にこのブログを書いている。

そして、午後から別の自閉症を伴う重度知的当事者の介助に入る。
現時点でその人の代わりを担える人はいない。(暮らしの介助事態は誰かに代わってもらえるだろうが、私と当事者とでやっていることを担える人がいないという意)

今朝と同じ状況になればなったで、なんとかするしかないのだが、
決して私一人で一人の当事者を支えているわけではなく、
当事者自身も自らの暮らしを築き、様々な人が当事者と関わり合っている。

理想を追い求めているが、
その一方で、現実と向き合い続けている。
そして、
その現実は、一人ではないという実感の中にあり、
互いの関係性の中で続いているもの。

「障害」が本人を規定するものではなく、
「互いの関係の中で起こっているもの」であれば、
「障害があっても一人の人間」と言う表現は違うように思う。
「障害があっても」と言った瞬間に、起こる事柄は全て「障害者」の側に追わせることになり、
全てを相手に追わせた上で、私たちは何をするかになってしまう。

そうではなく、
関係の中で起こっている事柄であれば、
ともに解決する道を追い求めなければと思う。

私は、ともに解決を図る事を追い求める中に、何らかの解答が生まれるように感じている。
posted by 岩ちゃん at 10:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月22日

マイペースな当事者を前に

コンビニに入ろうとする自閉症を伴う知的当事者を見かける。
こちらは用事があって急いでいる。
相手はこちらに気づいていないし、
彼に声掛けすれば、挨拶一つでもやり取りに時間がかかる。

「別に挨拶したからどうってことないだろう。急ぎの用事を優先しろ」と悪魔がつぶやく。
「あなたと彼の仲はそんなもんなの?これが障害当事者でなかったらどうする?声をかけるでしょ?声をかけるべき!」と天使がつぶやく。

悪魔と天使のつぶやきに耳を傾けるのはめんどうなぐらいのせっかちな私は、
そんなつぶやきが聞こえると、とにかく当事者と関わる方を選ぶ。

案の定、
「こんにちは」の挨拶一つでは済まされず、
相手はあれこれ語りだす。
その語りは、今日の気分や自分の状況やこれからの事を私に懸命に伝えようとしていると理解できる。
なので、
それも含めて相手の挨拶と思い耳を傾けるのだが、「時間がない」と話の半分も聞いていない。
私が話の半分も聞いていないと察知されれば、さらに語りかけてくる当事者。
さらに輪をかけ話しかけてくる。

そんな時、
「障害者だからといって全てを受け止めるという事はおかしい」という思いになる。
他の人に対しても「今日は急いでいるので失礼して先を急ぎます」という事はある。
なので、
「ごめんね!急いでいるから、またね」と言って話を終えて先を急ぐ。

ところが、
ちょっとした会話の中で、私と彼は同じ方向に向かうという事を知る。
彼が私に「(コンビニで買い物するから)待ってて」と言われれば、
「先を急ぐから待てない」とも言えない。

「解った。待ってるよ」と答える私。

し・か・し!!
「相手が急いでいる」という事をその言葉だけでは理解できない彼。
外から彼の様子をうかがいながら待つ私。
彼は多分、
昼食のお弁当を買うために入ったのだろうが、
お弁当の棚には真っ直ぐ行かず、店内の端の方から遠回りして行く。
それが自閉症故のこだわりとは理解できる。
さらに、
こちらは急いでいると言っているのに、いつものペースでゆっくりと店内を歩く。
さらに、お弁当の店の前辺りでじっくり品定め。

「確かに、私は待つ」と言いました。
「でも、急いでいる」とも言いました。
「早くして」とも言ったかもしれません。

私たちの世界では、相手にそう言われら、
「時間がかかるけど良い?」とか
「先に行ってもらっていいよ」とか
「(時間節約のため)一緒に探してくれる」とか言って、
相手の状況をお互いに測りつつ、折り合いを考えつつ、対応する。

なので、
こちらの思いに何も答えず、「待ってて」の一言で自分の要望(ペース)だけを貫き通す彼に、
苛ついてくる私。
声かかけなければ良かったとか、
「待って」と言われてもさっさと行けば良かった等と後悔する私。

こちらの思いなんてお構いなしに、自分のペースを貫く彼を前に、
イライラ度はマックスになる。
彼の態度は「障害された面」と知っていると、
彼との距離間をいかに生み出すかなどとも考えるが、答えが見えないのでイライラ度はさらに増す。

「時間がない」という自分の都合と
「相手を気にしない」という彼との折り合いが、
他になかったのか等とも考える。

店に飛び込んでいって「早くして!」とも言いたくなるが、
それを言ったら、ここまで待った事は全てなしになり、
「急かされた」という感覚だけが彼に残るだろうとも思う。

悠然と店を出て来る彼。
イライラ度MAX状態の私。

でも、
ふと思い描いたことは・・・

「世の中みんなが彼のペースだったら、私もこんなにイライラしないだろうなぁ〜」という事。

「効率よく」とか
「相手の気持を解れ」とか
「事を解決する方法」と言った事なんかを相手に求めず、
彼のペースに合わせてのんびりと待てば良い。

遅れていった先の人もそれを許してくれるなら、
集まったところでのんびりと始めれば良い。

「人にはそれぞれ自分のペースというものがある」という事は言える。
しかし、
誰かと一緒に何かをする時、
それぞれのペースに対しどこか折り合いを見出さなければならない。

あくまでも互いのペースの折り合いを、互いに見出す関係であれば良いのだが、
実は、障害当事者たちのペースは世の中のペースにより否定されている。
もしくは、
世の中のペースの許容範囲であれば許されるが、許容範囲を超えるとたちまち否定される。

「早くして欲しい」と言うのは私の願いだけど
「早くして!」と言い切ってしまうと、それは彼と私の折り合いを見出すのではなく、
「私のペースに従いなさい」と言っているに等しいと思う。

どちらかと言えば、せっかちな私。
彼のペーストはどこか対局にある。

だからこそ、
彼のペースに付き合うとき、
私の中に生まれるイライラ感は、私の余裕の無さとして置き換える。
そして、
どれほど置き換えてもせっかちな私は、彼のペースには従えない。
だからと言って、彼を私のペースに従えるというのも違うだろう。

結果、
私は上記に書いた事を頭の中で考えながら彼を待っている。
それが私と彼の折り合ったことかもと描く。
そして、
結論としては、
単なる時間というペースの話ではなく
「彼のようなペースで生きられたら良いなぁ〜と彼の存在を羨ましく思う私の存在」なる、
全く違う話に落ち着く。
posted by 岩ちゃん at 11:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月06日

街が変わる。人が変わる。追いつけない地域での関係。

対人相互作用に困難さを抱える人々。
彼らは、人との関係や置かれている環境によって「障害」と評される部分が大きく変化する。
それは、私たちの側から見ても同様で、関わりのある人に対する思いと関わりのない人に対する思いとはまるで違い、同じ行動や言動であっても、平然と受け止められることもあれば、緊張感を持ってやり取りする事もあれば、そもそも排除の対象としてしまう場合もあったりする。

「障害の有無に関わらず」
「地域で学び/地域で育つ」事を願い、追い求めてきた私。
今日では、「自立生活」という表現をもってその人の暮らしを支援し続けている。

弱小の会が少なくはない重度知的当事者や行動障害を伴う当事者たちの「自立生活」をまかりなりにも維持しているのは、制度が潤沢に保障されているというよりも、制度外の様々な関わりがたくさんあるから事だと思う。

当事者の暮らしを制度のみで支援しようとすれば、
たちまち人手不足に陥るし、
制度では対応できない課題に、誰も対処しなければ、
たちまち当事者の暮らしは脅かされ、
地域で住めなくなってしまう。

時折聞かれて困る質問に、
「重度知的当事者の一人暮らしを支えるために連携している機関はどこですか?」がある。
相手が想定する答えは、
行政や相談支援事業所やサービス提供事業所。
医療や発達障碍者支援センター等の専門機関だと思う。
確かに、そういう立場の人たちとの連携がないわけではない。
時に相談したり相談されたりする場合もある。

しかし、
一番の連携先は「機関」等とは呼べない、
地域のお店であったり、最寄の駅の駅員であったり、
建具屋さんやガラス屋さんや不動産屋さんであったりする。
駅ビルや公共機関の警備員と電話番号を交換したこともある。
行きつけの呑み屋やファミレスやコンビニ等々。
人が暮らす上で関わりのあるところと遠くから近くからつながっている。

又、公民館やボランティアセンター等でつながった人のつながりも大きい。
時折「〇〇さん(時に、多分おたくの関係の人と思うけども含む)が△△で大騒ぎしていたよ」という情報も入ってくる。

そんな人たちの存在があるからこそ、弱小の団体であっても少なくはない人の自立生活の支援を辛うじて担えているように思う。(当然ながら24時間の支援を必要とする人たちの支援のベースは居宅介護事業所等にお願いしている)

そんな、街の中で関係の凸凹がありながらも様々な経験を互いが持つことで暮らしが廻っている。

ところが、
街の様相が変われば、同線も変わる。
個人経営の店が少なくなり、バイトの人たちが店を仕切るようになると、
関わる人もどんどん変わる。

すべてを理解して受け止めているわけではないだろうが、
辛うじて受け止めてもらえている状況も、
人が変わればたちまち対応が変わり、
その変化に追い付かない当事者たちは、いかに対応して良いか戸惑い、
それが行動障害と評される形になって現れると、
たちまち地域から奪われてしまう。
辛うじてそのような事態になってもまだ本人を知る人たちがいるので、
出来事に対し少し立ち止まって一緒に考えてもらうこともできる。
しかし、
この先、さらに人が変わっていった時、果たして・・・
という不安がよぎる。

久しぶりに立ち寄ったコンビニ。
まだまだ知っている人たちはそれなりにいるのだけど、
知らない人が増えてきた。
私を普通のお客として、マニュアル通りに接する人が増えてきた。
「初めまして、今後もよろしく」とやり取りできる場合もあるけど、
どんどん人が代わると、
それは単なる社交辞令と化してしまう。

「行きつけのお店」なるものがどんどん違うお店に変わっていく。
あとに開店したお店が、私にとって必要な店ならば日参してでも関係をつなげたくなるが、
まったく興味のない店だと近寄りもしない。

街が変わる。人が変わる。
そのスピードに追い付けない。

そんなことを思う中、
今日、広い駐車場のあるお店に車を停め、買い物から車に戻ると、
10年近く前にお店をたたんだ酒屋の店主とそのお連れ合いに遭遇。
お互いに驚き近況を報告。
そして、お連れ合い曰く「みなさん元気にやってるの?」と。

皆さんとは、一人暮らしをしている重度知的当事者の事であったり、
毎週開かれていた会のイベントの後のひとときに立ち寄っていた当事者たちであったり、
夜な夜なお酒の買い足しにやってきた運動家のおじさん達のこと。

お店をたたむ頃、私はお酒を買いに行く機会が減っていて、気づけば閉店。その後の消息が不明になっていた。

それでも、ばったり出会ったその一瞬で過去へとタイムスリップ。
しばしの立ち話。

決して古き良き時代にという話ではないけど、
なぜ、そんな関係が作れたのか?
なぜ、今は作れないのか?(作った関係が他所で活かされていたなら幸いだけで)

そんなことを思った。

posted by 岩ちゃん at 18:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月29日

癇に障る言葉に

他人から言われると「癇に障る」と言う言葉があったりする。
その言葉に対し、
時には激高するときもあれば、
黙って飲み込むこともある。
又、こちらの態度によって、
相手はその言葉をその人の前では二度と口にしないとか、
相手の態度を見て、相手のいないところで話を膨らませたりする場合もあったりする。

相手に対してその言葉が悪いとか良いとかはさておき、
大概は発した言葉によって現れる事柄から、言葉を控えたり、そう言う言葉を吐く人を遠ざけたりする。

ところが、
これが支援をになっている自閉症当事者から言われる場面は、
相手が言葉を控えることがなく、やり取りすればするほど激しく繰り返される。
相手との距離を取ろうと思っても、担わなければならない他者に委ねられない状況下では、距離を取るともできない。

結果、
「癇に障る言葉」を繰り返し履き続ける当事者と
「癇に障る言葉」を繰り返し聞かされる支援者との関係が生まれる。

周囲にいる者は、繰り返し吐かれる言葉を嫌い、
なんとか止めさせようとする。
その言葉を使ってはいけないことを懸命に指導したりする。
親しい関係に懸命に飲み込む人もいるが、
やまないその言葉が、自分にではなく他者に向けられた時のことを思い描き、
自分はある程度耐えられても、相手を思えばなんとか止めさせようとする。

なぜ、当事者が繰り返し吐く言葉によって辛さが増すのか?
なぜ、飲み込んだり指導したりと言う一方向の関係になってしまうのだろうか?

たぶん、
私たちの世界観では、言葉と言葉が持つ意味を持って聴いているからだと思う。
「聞く」ではなく「聴く」という事。

「なぜ、そんな言葉を吐くのか?」
「その言葉によってどういう事態を招くのか?」
「相手の感情/私の感情」等々
言葉が持つ力によって様々な想いを抱く。

ところが、
自閉症の人の場合は違った世界観の中で言葉を発しているように思う。

「発する言葉」に意味があるのではなく、
「発した時に現れた状況」の再現であったり、
「耳に残った言葉(音)」を持って相手との関わりを求めていたり、
「相手の許容量を測る術」だったり。

言葉自体に意味がなく、その言葉を発した時の状況の方に重きがあるように思う。

でも、
それは「あるように思う」だけで実際のところはわからない。
又、普段は私たちの世界観の中でやりとりできている分、
どの言葉が「言葉(音)には意味がなく」どの言葉には「意味を理解して語って」いるのかの区別がつかない。

それ故に「癇に障る言葉」を失くすことに周囲は終始することになる。

周囲が描くその感覚や感情自体はとても理解できる。
私は、ある程度意識して入る分(意識しても間違うけど)、「意味を伴わない言葉」に対しては、その言葉を発する背景の方に意識を持っていく。

でも、これが毎日の出来事だとそんな余裕はない。
「また言っている」と思ってみたり
「解ったからもう止めて!」と言ったりもする。

了解不能な「言葉」を前に冷静ではいられない。

でも、
これが日常の付き合いがないとか、初対面の当事者に対してはどうだろうか?
その人に対するイライラの蓄積はない。
その人のこの先の支援を担うという立場にもない。
ただただ、その場その時に出会うその相手とのやり取りで終られる関係であったなら?

いきなり初対面で「癇に障る言葉を吐く当事者」
久しぶりにあったのに「癇に障る言葉を吐く当事者」

そんな当事者に出会う時、大概は傍に日常関わっている支援者がいたりする。
日常関わっている支援者はこれまでの蓄積の中で、相手にも気遣い「癇に障る言葉」を吐く事に制限をかける。
また、弁解する事もあるかもしれない。
謝罪することもあるかもしれない。

でも、
普段付き合いのない私は、多少のことは余裕で受け止められる。
その当事者と別れた後の支援にはコミットすることはなかったりする。

だったら、
「その言葉自体に意味がない」という事も含めて当事者の言葉を聞いてみるというのはどうだろうか?

「癇に障る言葉」を吐く当事者に、
「それってどういう意味で使っているの?」
「いつその言葉を知ったの?」
「その言葉は、あなたが考えたの?それとも誰かが言っていたの?」
「その言葉を言うと心地よい?」
「どんな時に使うの?」等々、

相手の言葉ではなく、その言葉を吐く相手を理解する手立てとしてみる。

その多くは、明確に答えてもらえない。
でも、そもそもその言葉を聞くと「癇に障る」ので、
こちらからそういった質問をしている時間分は、少なくともその言葉を聞かずに済むし、
口に出して相手に聞くことで、こちらはこちらでその意味を考える機会になる。

しばしばみかけるのは、傍にいる支援者が当事者を静止する姿を見て、
「それは良くないことで、懸命に支援を担っている人の苦労を少しでも和らげてあげるために、支援者と同様の振る舞いをする」というもの。

すなわち、傍にいる支援者と同様に、静止したり指導したりする。

当事者から見れば、日々の暮らしの中にいる人に言われるのと、初対面や久しぶりに合う人に言われるのとでは意味が違うと思うが、同じように対応されればそれが当然の事となり、
本来本人が求めていることが見えないままに、事がどんどん進んだり拡大したりするように思う。

「癇に障る言葉」を発する相手その人を理解しようと努めるというのは、
日常の付き合いがないからこそできることだと思う。
その人の背景や関係性がその言葉から見えてくると、
実は「癇に障る言葉」を発する必要がなくなったりする場合がある。
それは、普段つきあいがある分思い込んで付き合っていた者とは違う視点でやり取りすることで、
時に、「それが言いたかった」とか「ようやく理解してもらえた」という機会を、
初対面の人や久しぶりの人から当事者はえるのではないだろうかと思う。

でも、
時にその執拗さを増幅される場合もあり、
増幅したままの当事者とその後を引き受ける支援者たちを思うと、
申し訳なく思う時もある。

その辺り、出会ってやり取りした後の状況をあえて聞かないと見えてこないため、
当事者とのやり取りに躊躇が生まれるのも確か。

実際には、うまくいくこともあればうまくいかないこともある。

でも、
少なくとも
私たちの世界観では「言葉には意味がある」という共通理解がありが、
自閉症の当事者たちの世界観では「言葉を発する背景に意味がある」という場合もあることを意識し、
様々な出会いの中で当事者たちと関わると、違った景色が見えてくるように思う。
posted by 岩ちゃん at 12:16| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする