2015年10月07日

Kさんの段取りと支援者の段取り

今朝、自閉症を伴う重度知的のKさん宅へ介助者として伺う。
泊り介助を担っていたNさんが調理中。
「交代時間直前に依頼されました」との事。

依頼の内容は、焼ウィンナー・コーンスープ・アップルパイの3品。
焼ウインナーとコーンスープは仕上げ段階で、アップルパイは手つかず状態。
Nさんがそのまま作業をしながら引継ぎ。
アップルパイのみ私が作る事になった。

その他あれこれ引き継ぎをしている所に、
家主のKさんが現れる。
私は「Kさん。私がアップルパイを引き継いで作りますね」と言いかけた瞬間に、
ドタバタと暴れ出す。キーキーと声をあげ、「ハイ!ハイ!」と応える。
(この場合の「ハイ」は「了解」の意というよりも話しかけないでの意)

それを見た私は「ごめん!ごめん!」と謝る。
それは、たぶん彼なりの用事があって出てきた所に、私が声をかけたと思ったから謝りました。

でも、
もしかしたらアップルパイの件かもしれないとも思いました。
すなわち、
Nさんにアップルパイ作ってもらおうと頼んだのにNさんは帰ってしまう。
私にアップルパイを作ってもらいたくないのに、作ろうとされている。

そんな風に想い描くと、
Nさんに対して、「アップルパイができるまで介助を延長して」とお願いする。
Nさんがいなくなってしまうのだから、Kさんにアップルパイをあきらめてもらう。
という対応が頭に浮かぶ。

アップルパイが好きなKさんだと知っている私は、
いづれ私にも作らせてもらえるよう努力する。
無理くり作ってみて反応をみるという事を考える。

私は「アップルパイを作る」事自体誰が作っても同じだと思う。
でも、同じでない自閉症の彼。
そこも理解し、さらに「依頼する」という困難さもあれこれ思い、
私はいかに応えていくか等と考える。

「私がアップルパイを作る」と伝えるとドタバタ落ち着かない彼。

あれこれ考えるもふと頭を過った事。
泊り介助のNさんが交代時間のためにできなかった事を、
「アップルパイは、後のヘルパーさんにお願いしておきました」と言って帰る。
私は「Nさんから引き継いだよ」とその後を付け加える。
すると、Kさんは私にやらせてくれる。
そんな事を思い出した。

そして、
Nさんに改めて「アップルパイを作るの。お願いしましたから」とKさんに伝える。
Kさん「はい!」と自室から応える。
(先の「ハイ!」ではない雰囲気)

改めて、「アップルパイを作りますね」と私が言うと。
「はい」と応えるKさん。

結局アップルパイは、無事つくる事ができた。

そんな朝の介助を振り返ると、
Kさんは「Nさんにアップルパイを作って」と依頼する。
その依頼に応えるという事は、「アップルパイを作る」に応えるのではなく、
「Nさんがアップルパイを作る」という事。
それが叶わないのであれば、
「Nさんにアッププルパイづくりを依頼」したが、「Nさんに」の部分の変更を求め、
その了解の下「私がアップルパイを作る」という事にしなければならないのだろう。

そこを「同じアップルパイ」と想い描き、それをなぜ作らせてもらえないのか?
なぜ、Nさんでなければならないのか?とだけ描いていては、答えは見えない。

今朝のKさんにとっては
Nさんであっても私であっても良かったのだと思う。
ただ、依頼した相手はNさんだから、Nさんから私への変更を了解できれば良かったのだと思う。

でも、
その事を端折り、「アップルパイを作る」事のみ目を奪われていると、
Kさんにしても私にしても、互いに了解が取れない中で先々しんどくなっていくのだろうと思った。

当事者が描く「段取り」は、ともすれば「こだわり」と捉えられる。
支援者が描く「段取り」は、「常識」として暗黙の中に置かれ、互いの常識が一致していなければ、当事者の側の能力や責任にされてしまう。

「段取りを組む」というのは、
お互いが想い描いている事を交換し合い、互いに結果を出すために組むんだと思う。
「組む」という中にある、互いの「段取り」
私たちの「段取り(無意識下のものも含む」を押し付けなければ、上手くいく事があるんだというだと思いました。
posted by 岩ちゃん at 14:56| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月04日

本人中心から課題中心へ

重度身体当事者たちの自立生活運動。
「本人中心の介助/介護」を勝ち取ってきた。
親や教師等を中心に担われてきた就学運動。
「障害の有無によって子ども達を分けない」事に取り組んできた。

私は、
自立生活運動と就学運動とは同一線上にあるものと思ってきた。
しかし、
意外にそうではなく反目しあう場面があり、
どこか別物として、共闘を組むということはなかなかあり得ない。

何故か?
単純に見れば、
自立生活運動は「障害当事者本人による運動」であり、
就学運動は「障害児の親たち」の運動として置くならば、
後者は本人の運動ではないため同一線上とは言えなくなる。

それで、
私はなぜ同一線上にあるといえるのか?
それは、
私自身が「障害当事者」ではないし、「障害児の親」でもない中で今日まで様々な取り組みを担ってきたからだと思う。
障害の有無にかかわらず、子ども達の関係づくりが活動の中心であった時。
その先にある自立生活(親もとを離れ当たり前に暮らす)ことは一つの目標であった。
逆に、子どもたちが大人になり、実際親もとを離れ自らの暮らしを営むようになったら、
日常生活の支援に関わる私は、いま大人となった人たちの人生の連続性と継続性を意識し、
就学運動を担ってきたからこそ見える様々なことがあると感じている。
又、30年前「子どもたちの将来を思うと」と教育委員会や学校側から言われることに対し、
同じく「子ども達の将来を思い」と切り返してきた。
しかし、そこにはまだ見ぬ将来があり、ひたすら信じて取り組むしかなかった。
でも今は、かなりの確信を持って信じてよかったと思っている。
さらには、当時学校や教育委員会と戦うしかなかった事が、
新たな視点で将来にとって必要となる取り組みもあれこれ考えられるようになった。
(とは言っても、学校や教育委員会は耳を貸さないけど)

そこで考えるに、
「当事者中心」という言い方は私もしてきた。
「当事者中心に」といった時の、「私の主体って何?」とも悩んできた。
「結局私は私でしかない」と開き直ったことも。

でも、
この「本人中心」という言い方。
世の中誰一人として単独で暮らしているわけではない。
介助/支援と言った人たちだけが関係者というわけではなく、
地域にいる様々な人とのつながりや関わりがあってこその地域生活である。

しかし、
社会の側は、「障害者」と呼ばれる人たちと関わりたくない。
「自分も同じ立場になることもある」という目に見える身体機能面での同一視は広がっているように思うが、それは、どこまでいっても健常者社会の許容量の拡大でしかなく、
許容量の外・想定外の事柄については、排除が拡大されているように思う。

「本人中心」という時、
どこか「私達健常者に迷惑がかからないならどうぞご勝手に」となっている現実を感じる時がある。
昔と比べれば格段に進んでいるように見えても、
一旦健常者社会が迷惑と判断したらたちまち切られていく。

果たしてそんな「本人中心」で良いのだろうかとも思う。

あれこれ考えてきた私だけど、
「本人中心」という時の自分の立場の拠って立つところの無さ。

それでもここまでやり取りしてきたことを振り返れば、
どうも、
「本人中心」というよりも目の前に起こっている「課題中心」という発想で取り組んできたからのように思う。
輪の中心に重度知的当事者や急性期の精神当事者を置くと、
たちまち私達の価値観が大きく作用し、関わる人たちのコンセンサスを得るところからはじめなければならず、待ってくれない支援。拠って立つところがない故に支援の場を去る人。
長年取り組んできた者や障害児の親や障害の専門家たちに逆らえない、
新人や障害児の親でない人や一般人たち。

そんなこともあれこれ見てきた中で、
そろそろ「本人中心」という表現を止め、
「輪」の中心に「課題」を置く「課題中心」の取り組みという発想が必要かと思う。

課題とは何か?
私の場合は「障害の有無に関わらず、誰もが地域で当間に過ごす」という想いに対し、それを阻害される事柄が課題だと思っている。(なので、障害に関わるありとあらゆる事柄が課題となってしまっている)

例えば、
普通学級に入学するという課題。
普通学級に通い続けるという課題。
子ども達の放課後という課題。
進学や就職といった課題。
人生の選択と言った課題。
親もとを離れて地域で暮らすという課題。
その他あれやこれや。

その時々に現れる「課題」を当事者自身もその親も周囲の人達も同一円の線上に位置して、
ともに課題を解決していく。

障害当事者も特別な人ではなく、
「課題」解決に向けた一メンバーとして位置すれば、
その場から排除するわけにはいかない。
又、
排除せずに検討検証する方法が課題となる場合もあるだろう。
それでも、一メンバーとして存在し続ければ、自ずと課題の解決も見えてくるように思う。




posted by 岩ちゃん at 13:52| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月04日

パニックルーム

人混みが苦手な自閉症を伴う重度知的当事者。
人がたくさんいる所に寄らなければ良いと思うが、
何か一旦事が起こったところにこだわり、あえて人ごみに立ち寄る。
又、暮らしの上で立ち寄る必然があるため避けようがなかったりする。

そんな彼のガイヘル。
夕方の買い物客でごった返すスーパーに彼は立ち寄る。
人混みが苦手な理由はたぶん2つ。
一つは、人に触れてしまう(触れられてしまう)事。
もう一つは、人の視線。

彼は、大きな奇声をあげて自分の存在を周囲に知らしめ、
人が自分を避けてくれる事で、人に触れることなく目的の場所に辿りつく。
しかし、
それは同時に、人の視線を集めることになる。
彼に対する偏見や悪意がなくても、人は大きな奇声を耳にすれば、その方向を見てしまう。
大部分の人は不思議なものを見るように彼を見る。
でも、中には悪意に満ちた視線を投げかける人もいる。
時折、「うるさい!」と声をかけられたりすると、
自分が奇声を発した事とは言え、周囲の支線にパニックになる。

私は、ひたすらそんな彼に離される事なく後をついていく。
奇声は発するも「大したことではない」という表情を懸命に作り、
彼と私とは繋がっている事を周囲に知らしめつつ一緒に歩く事に努める。

そんな彼がある日突然、
トイレに駆け込んだ。
そして、トイレ内にある扉を思いっきり閉める音とともに、これまで以上の奇声が聞こえてきた。
そして、すっきりした顔で出てくる。
その日、それを何度か繰り返す場面を見て気づいた事は、

避けようもない人混みにおいて、唯一一人になれる空間がトイレの個室。
耐えきれない自分自身をその中で一旦解消して出てくる彼。

何度目かの時、
彼と同時ぐらいに女性が女性トイレに入って行った。
その瞬間に起こった奇声とトイレを閉める音。
その女性は慌ててトイレを出てきた。
その手前で彼を待っていた私は彼女に、
「驚きましたよね〜」と声をかけた。
「びっくりしたわよ〜」という彼女に、
「当然ですよね。」と同意した上で、
「今入って行った彼は、人混みが苦手でトイレに入り気持ちを落ち着けているんですよ」
「それでもびっくりしますよね」と説明した。

すると彼女は、
「そうなの〜。でも、びっくりしたわよ」と安堵と緊張がごちゃまぜの表情を見せた。
そして、
トイレから平然と出てきた彼を見て、
「そういう事なのね」と言い、
「では」と言って私は彼の後をついてその場を離れた。

再び、店内で彼女とすれ違う時。落ち着いた彼を見て何とはなしにすれ違った。

そんな様子を見ると、
トイレが彼にとってのパニックルーム。
私たちにとって人混みは人ごみでしかないけど、
彼にとってはその人混みがパニック要因。
それを回避するためにトイレに駆け込む。

知的当事者にとっての合理的配慮とは何か?
という疑問を持つ私。
人と人との関係の中に起こっている事として考えれば、
スロープやエレベーターを作るという配慮だけではどうしようもないと思っている。
「関わり方マニュアル」を作ってみても、相手があっての話なのでそれもしっくりいかない。

でも、
もし、スーパーや駅や映画館等人がごった返す場所に、一時避難できる場所が設置されたとしたら。
トイレという手もありだけど、すでに先に使っている人と遭遇すれば、彼にとっては安心できる場にはならず、帰ってパニックを増幅させてしまう。
だからこそ、
一時避難できる囲われた場所を設置してもらえると、自閉症と伴う人たちはかなり安心して社会に進出していけるように思った。
posted by 岩ちゃん at 06:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

24時間ダラダラ介助

朝9時少し前。
一人暮らしをしている重度知的当事者宅にヘルパーとして訪ねる。
普段の週末なら家主はまだ寝ている時間。
前に入っている介助者に様子を伺い、今日の段取りを組もうと思っていた。

ところが、
すでに起きていて、朝食も済ませている。
「これは、今日もお出かけモードかも」と普段の様子から思い描く。

前の介助者が帰るとすぐさま
家主「どこ行くの?」と聞いてくる。(おっ!予想通り!と思う私)
私「どこ行こうか?」と応える。(「◯◯へ行く」等と明確な答えは返ってこないのは常。なので、こちらであれこれ提案する事になるが、あくまでも本人の要望に応えるというスタンスで、半ば儀礼的に応えている。そして、次の応えが返ってくるわずかな時間にあれこれ考える私)
家主「・・・・・・・」
私「あれ?」と思う。(普段なら、何らかのリアクションがあるのに全くない)
私「どこ行こうかね〜?」(この時点では、1週間の夏休みも残り2日。いろいろ出かけただろうから、新たな出かけ先を提案するか?それとも、気に入った出かけ先にするかを考え中)
家主「・・・・・・」と黙ったまま、自室のTVを見だす。
私「・・・・・・・」(考えがまとまらないのだろうと様子を見る)

しばらくすると、
家主「どこ行くの?」と再び聞いてくる。
私「外は暑いからどこか涼しいところでも行こうか?」「映画でもどう?」と返す。
家主「うん!」
私「じゃぁ〜。出かける用意をするか!」
家主「・・・・・・」(普段ならあれこれ動き出すのだが、「うん」がどうも空返事っぽい)
私「・・・・・」

そして、
カーテンを締め、ベットに入り、横になる家主。
私「朝、早起きしたから逆に動きが鈍い?」などと思って彼のペースに任せていると、
「ZZZZZ・・・」といびきが聞こえてきた。
私「二度寝????」

そして、そのまま二度寝からの熟睡。
お昼すぎに、もそっと起きてきた。
私「寝ちゃったね〜」「出かけますか?」
家主「うん」と言いつつTV前に座る。
私「昼ごはんにする?」とTV前にいる彼に声掛けすると
家主「うん」と言って出てきたので、昼食を作る。

昼食を摂りながら、
私「ご飯を食べ終わったら出かける?」
家主「うん」「どこ行くの?」
私「どこ行こうか〜?」「映画とかどう?」
家主「おぉ〜!」

昼食を終え片付けていると、
家主は再びベッドに上がりTVを観だした。
ベッドのそばに座り、一緒にTVを見る。
結構、真剣に観だしたので、私も横になって観ていると、
再びいびきが・・・
私「昼寝?」と思いつつ様子を見る。
食欲はあるし、起きている時の雰囲気から疲れは見えない。体調不良という様子もない。

結局、私もそのまま寝てしまい、気づけば16時。
私「どうするのだろう?」と思いつつ、とりあえず夕食の準備をしていると、家主が起きてきた。

私「おはよう〜」
家主「おぉ〜!」
私「どうする?出かける?」
家主「出かける」
私「晩御飯はどうしようか?」
家主「食べる」
私「作って食べる?外に食べに行く?」
家主「食べる」

そんなやり取りをしていると夕立が・・・・

慌てて洗濯物を取り込みつつ
私「雨だよ〜。どうしようか?」「家で食べてから出かけるか?」
家主「うん!」
と言う事で、夕食作り開始。
あれこれおしゃべりしつつ夕食を作って一緒に食べる。
時はすでに19時半。

食べ終わると、
家主「どこ行くの?」
私「この時間から?」
家主「どこ行くの?」
私「どこ行こうか?」
家主「バス!」

彼が「バス」というのは、「出かける」の意。
この時間になって、出かける気になったのか?

私「じゃぁ〜。バスで出かけよう」
家主「おぉ〜!」

と言う事で夜のお出かけ。

バス停に向かう道すがら、
家主「どこ行くの?」
私「バスに乗って出かけて、どこかでお茶でもして帰ってこよう」
家主「おぉ〜〜!」

と言う事でバスに乗り、駅へ出る。
駅前の商店街をウロウロしてお店を探していると、
家主「どこ行くの?」
私「どこかお店にでも入るか〜」
家主「どこ行くの?」
私「お茶でも飲もうよ」
家主「・・・・・」

しばらく歩くと再び
家主「どこ行くの?」
私「どこ行く?」
家主「どこ行くの?」
私「じゃあ帰る?」
家主「うん!!」

と言う事で、駅前をブラビらして再びバスに乗って帰りました。
時間にして2時間ほど。

家に着くなり
家主「風呂。どうすんの」
私「入ろうか」
家主「うん」

すぐさま風呂に入って楽しく過ごす家主。

風呂から上がり、その後もダラダラと過ごす家主。
時折、声をかけてくるので応える私。

普段ならすでに寝ている時間。
でも、昼間あれだけ寝たんだから眠れないのは必至。
彼のダラダラに付き合う。

そして24時過ぎ。
電灯を消して、扉を締めた家主。
しばらくしていびきが聞こえてきた。

そんなわけで結果、
一日中ダラダラと過ごした。

一人暮らしを始めてまもなく3年。
私の場面でこんな日は初めてかも。

よくよく振り返れば、
夏休み5日目(終了2日前)。
いっぱいお出かけして満足していたのだろう。
「どこ行くの?」はもしかしたら、「どこかいかなければならないの?」の意か?
もしかして、
夜のおでかけは、私に付き合ってくれた?

「本人の要望に即して介助をする」と言うのは簡単。
行動が激しい人の場合やいろんな言葉を持っている人の場合は、
行動や言葉が本人の意思をそのまま表現しているとは思わないけど、
本人の想いを知るきっかけにはなる。
でも、
「どこ行くの?」という言葉「うん」「おぉ〜」のみでのやり取りでは、
なかなか相手の思いが読み取れない。

読み取れないからあれこれ提案するも、
そもそも「出かける気がない」という意思なら、
提案そのもの意味をなさない。
だからといって
「今日はのんびり過ごす」と決め付けるわけにもいかない。

そんなことを考えつつ入る24時間の介助。
ダラダラと過ごす介助は、意外に疲れるという事を知った。
posted by 岩ちゃん at 10:56| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月24日

日本版FGCって何?

先日のFGC(ファミリーグループ・カンファレンス)の研修会と自らの現場との間であれこれ考えている。
4日も現場を離れた分、現場に戻った途端に次から次へと課題が舞い込んでいる。
そして、舞い込む課題の一つ一つを解決する上で、FGCの必要性を感じてもいる。

研修会の中で、
FGCは、課題をグループ(輪)の中心に起き、課題を解決するための具体的な方法を見出すと言っていた。
オランダのFGCは、「専門性によって決められるのではなく、状況を解決するために関わりのある人達の中で検討し具体的な策を見出す」と理解した。

でも、
それが日本版FGCを考える時、果たしてそれで良いのだろうかと思う。
「専門性に依拠しない」と言うのは良く解る。
専門性というのは「◯◯士や◯◯師が考える解決方法ではなく、又行政等による強制でもない」というのはその通りだと思う。
「ファミリー」とか「グループ」という言い方は誤解を招くのでどうかと思うが、
「当事者の日常生活空間にいる人々」と理解すればそれなりに納得できる。
又「グループ」=「輪」の中心に「当事者」を置きたがるが、
「当事者」ではなく、日常の中で起こっている「事柄」であるなら、
その関係は何も「当事者」だけの問題ではないはず。
なので、当事者も他の人たちも「輪」の線状にいて、それぞれの立場から事柄に向き合うという考えで理解でる。
さらに、
「カンファレンス(=会議)」というものは、
どこか「課題」を解決するために開かれるという印象を抱く。
でも、
「課題はなくても」又「課題が解決した後でも」開かれるものならばどうだろうか?
すなわち、
日常的な「集い」「よりあい」的なものも含めていけば良いと思う。
なぜなら、地域で人々が暮らすという事は、様々な事柄が横断的に存在していて、「問題となる事」と「その解決」というのは、特定の誰か/特定の何かということではなく、様々な場面で起こっており、地域という中にある出会いや関係も含めて解決されていくと思う。

そう考えていくと、
実は「カンファレンス」ではなく「ネットワーク」なのではないだろうかと思えてくる。

FGCに対する一番の疑問は、
「問題を解決する」「解決のための具体的な方法」というものをどのように捉えるかという点。
日本で言うところの「ファミリー」=「家族」の存在は、
障害当事者にとっては、
「親こそが最大の敵」という状況があったり、
意識ある親御さんは、
「親が最大の支援者」と言う。
そして、最大の課題が
「親亡き後」という言い方がまことしやかに語られる。

それらは、普段重度知的当事者たちと付き合っていると、
どれも間違いではないと思う一方で、どれも間違いと思う。

なぜなら、誰が誰に対して思っているかという点に置いて、
そう想う状況が問題であり、それぞれが思うこと自体は間違いではないと思うから。
すなわち、どれも重度知的当事者本人の弁ではないという事。

それならば、
それぞれの考えをもって「輪」を形成する事が重要になると思う。

ところが、
日本の社会は、「輪」を維持するために「それを壊す者」を排除して成り立たせてきた。
又は、輪の中に存在できるように改める事を求めてきた。

そんな「輪」に抵抗し、都会を出たり核家族化していく状況も理解できる。
でも、輪を離れ自分の能力だけで展開できる人は良いが、
そうでない人たち特に、日常的に何らかの形で支援が必要な人たちにとっては、
自らが「輪」に抵抗したり「輪」を離れたりする事ができず、
結果、「家族(血縁)」によって対応する事になる。

「個人をもって輪」をつくる西欧の考え方と
「輪を維持するための個人」という日本では、
「輪」の一文字はまったく違う意味を持つ。

よって、
日本版FGCは、この「輪」をどのように作るのか?どのような「輪」にするのか?重要になってくるように思う。

つづく・・・
 (たぶん)
posted by 岩ちゃん at 14:13| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月08日

サービス等利用計画と相談支援事業と支給決定

サービス等利用計画の作成が義務となり、私の周辺で自立生活を営む知的当事者たちは特定相談支援事業所に計画の作成を依頼している。

これまでは、行政交渉と担当職員とのやり取りの中で、当事者の暮らしに必要な支給量を確保してきた。
重度と呼ばれる人たちが多い中で、それなりの支給量を確保してきたが、当事者とともに支給量の話し合いの望む
支援の側はサービスを担う側でもある。
行政は、交渉の中で「必要な量を支給します」とは言いつつも、
それは「行政が必要と認めたもの」でしかなく、
ある程度の支援量は確保できたものの、それ以上に支援の側が必要とするものはなかなか認めようとしなかった。
さらに、
支援を担ってきた側が事業所としてサービスを担うようになると、構造的に「事業所のお手盛り」状態となり、支給量を巡ってはこう着状態にあった。

そこに来てのサービス等利用計画の作成。
これまで直接行政とやり取りしてきた事を、特定相談支援事業所に対して伝え、第三者の判断として計画案を行政に提出するようにした。

行政に対しても相談支援事業所に対しても、こちらは同じことを伝えるが、第三者が立てた計画という事で、行政はそれを否定する根拠を示さなければならなくなった。

そのため、これまで突破できなかった支給量の壁が、軒並みサクッと突破できたという結果を生み出している。
(とは言っても、行政の裏も表も知っている私は計画段階であれこれ画策した計画にしている)

今回やり取りした重度の知的当事者は、
短時間の居宅介護や移動支援や日中活動を組み合わせて自らの暮らしを成り立たせている。

相談支援員と現状の支援と希望する支援を巡りやり取りした結果、
これまで支給されていた時間数もサービスの枠も上方修正され、
支給量が決定された。
(本来、必要としている時間であっても事業所の都合で派遣が受けられない分も、支給量として認められた。これは、実際利用できない/されていない支給は認めないという行政もある中、結果的に余してしまう時間が、事業所不足や人材不足を表すものになるため大切だと思う)

これで一安心と思い、実際支給決定通知を受け取って気づいた。

「居宅家事援助 160時間/月 1回あたり4.5時間」

時間数はOKなんだけど、この「1回あたり4.5時間」という数字。
その根拠は、
計画案の週間プランに書かれた、
家事援助の派遣時間のMAXの時間を表している事に気づいた。

通常はそれでも良い。
しかし、
例えば病気になった時。
予定外の支援が必要になった時。
4.5時間と派遣時間を決められてしまっては、
本人の暮らしは派遣時間に縛られてしまう。

私の周辺では、この週間プランと言うものは月の派遣時間数を積算するものでしかなく、実際の派遣時間はその人の暮らしに委ねるという事が了解されている。
ところが、1回あたりの時間数を決められてしまうと、突然必要となる長時間の介助に対応できない。

直接行政とやり取りしてきた時は、
この「1回あたり」の数字を、6時間とか12時間とか24時間という形で出させてきた。

今回の当事者もこれまで「1回あたり6時間」としていた。

しかし、計画を立てる段でそのような話は全く出されていない。
私もこの間重度訪問介護での支給を巡るやり取りに終始してきた感があるので忘れていた。

届いた通知に初めて気づいた。
すぐさま相談支援事業所を通じ変更申請を行った。

その申請は認められると思う。

ただこの件から思うのは、
サービス等利用計画は、本人の想いを実現していくために立てられるもの。
ところが、様々な場面でそれを阻害する仕組みが隠されている。
そのため、利用計画によって当事者の暮らしが縛られてしまう。

知的当事者たちの自立生活の実態を知らない相談支援事業所。
利用計画通りに派遣しようとする事業所。
机上のやり取りで決定していく行政。

いづれも当事者が暮らす事を支援するために存在していると思うが、
それぞれが気づかないまま、当事者の暮らしが制度やサービスによって縛られる。

「1回あたりの派遣時間」という枠組み。
本来は必要のないものと思う。
でも、それを設けられている状況に、
改めて、当事者にとっての支援を意識的に指向しなければと思った。
posted by 岩ちゃん at 12:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月22日

訪問時、ベルを鳴らす/鳴らさない?

「どうでもよいことかもしれませんが、介助交代の時ってベルを鳴らさない方が良いですかね〜?」と、
私と交代のヘルパーさんが尋ねてきた。

確かに、「どうでもよい事かもしれない」
人の家を訪ねた時は、ベルを鳴らすのは当然だろう。
鍵が開いているからと言って、こっそり入ることは良くない。
田舎の見知った関係ならば別かもしないが、
長年、介助に入っていてもあくまでも他人の家。
礼儀としてベルは鳴らすものだろう。

私は、そのヘルパーさんに「なぜ、そのようなことを聞くのか?」と尋ねてみた。
すると彼は、
「先日介助交代の際、次のヘルパーさんんがベルを鳴らさず入ってきたので驚いたんですよ」
と言う。
彼は、自らが入る介助の枠は定期的なのだが、その前後のヘルパーさんは事業所の都合もあるが、意識的に違う人を入れている枠。彼としては、必然的に様々なヘルパーさんと接することになる。
すると、
訪ねてきた時、ベルを鳴らす人と鳴らさない人がいて、
自分は、鳴らす派だけど、鳴らさない派の人がいる事に気づいたらしい。

「では、あなたが介助交代で訪ねてきた時、ベルを鳴らすのは何故?」と聞いた。
すると、
「ベルを鳴らさないと不用心だし、本人も驚くと思うので」という。

確かに。
それは当然の理由だと思う。

「では、鳴らさない派の人の理由を聞いてみた?」と聞けば、
「それは聞いていない」と言う。

彼にとっては、「どうでもよい事かもしれないが」と言う思いがあるからか?
サクッとそれぞれのヘルパーさんに理由を聞けない様子。
でも、私は「決してどうでもよい事ではなく、そこに、自立生活をしている当事者の支援が何かを意識する機会があるから、ぜひ聞いて欲しい」といった。

ヘルパー派遣と言っても、様々な形がある。
たぶん、週に何度か、日に何度か、短時間の介助に入るヘルパーさんの現場ならば、訪問時ベルを鳴らすというのは当然のように思う。
なぜなら、
当事者にとってはヘルパーという他人がいない時間からヘルパーという他人がいる時間へと切り替わる合図だから。

でも、
24時間介助を使い暮らしている重度障害者たちの場合は、常に介助者がいる状態。
介助交代は、ヘルパーが訪ねてくるというよりもヘルパー側の都合で立てられた(そればかりでもないだろうけど)交代時間になると次の人が訪ねてくる。
そこへ、やってくるヘルパーが毎度ベルを鳴らしていたら・・・
それは、当事者にとって他人が入る時間の知らせではなく、ヘルパー間の交代の合図と化す。

常にヘルパーが存在する暮らしをしている当事者のその交代のタイミングは、
もしかしたら、
寝ているという事もあるだろう。
トイレに入っているということもあるだろう。
入浴中や食事中という事もあるだろう。
TV番組に夢中という事もあるだろう。
休日の朝、ゆっくり寝たいと思っている時に、ベルがなれば基本家主である本人が対応しなければならない(ヘルパーなのか?訪問者なのかが判らず、ヘルパーに任せる人も多い)

自らの暮らしをベルによって分断されてしまう。

でも、実際のところは交代時間がある程度決まっているので、次の介助者に依頼することを決めていたり、前の介助者にやってもらうことをやってから終えてもらったりと段取りしている場面もあったりする。
例えば、
いつも夜から朝にかけて入るヘルパーさんには専ら家事や入浴といった家の中でのことを頼み、
翌日介助交代でやって来たヘルパーとはいつもお出かけしているなら、
ベルは、お出かけの合図となり本人のモードもベルとともに切り替わるということもある。

でも、出かけなければならない場面ではそれはとてもありがたい話なので、ベルを鳴らす方が双方にとって良いと思う。
ところが、休日で出かけても出かけなくても良い状況の場合は?
時には、のんびり家で過ごしたいと思うかもしれない。今日はテンション高めで出かける気満々かもしれない。のんびり過ごすつもりで前の日遅くまで起きていたとしたら、いつもの交代時間に寝ているという事もある。でも、ベルがなれば起こされる。
出かける気満々であってもうっかり寝過ごすということもある。ヘルパーがベルを鳴らすことで、飛び起きて慌てて出かける準備をすることもある。

実は、
「ヘルパーがベルを鳴らす/鳴らさない」という話は、
24時間介助を使い暮らす障害当事者にとっては、当事者自らの暮らしの連続性をいかに意識し、折々の状況をどのように考えるかという重要な機会だと思う。

これが、重度身体当事者の場合は、本人に聞けば良い。
そうすれば、時間や曜日でその仕訳を伝えてくれるかもしれない。
人によって変えるかもしれない。
事前に次のヘルパーに「今日は・・・」と連絡をいれるかもしれない。
今いるヘルパーに「ベルを鳴らさず入ってきて」と張り紙をさせることもできる。

でも、
重度知的当事者の場合は?
そこまで指示できる人はいない。
その人の状態や状況によって、ある程度周囲で対応を決めることはできるかもしれない。
しかし、その日その時の当事者の状態は判らない。

寝ているところを起こしては悪いと思うし、起きてもらった方が良いとも思う。
前の介助者とバトル中に私が現れたら、家主はバトルを収める事と私への対応が同時に起こり、ますますパニックになる場合もある。そんな時は、シラッとドアを開けバトルが片付くまで知らん顔をしていた方が良い時もある。でも、ベルが鳴ることでリセットされる場合もあったりする。

「訪問時、ベルを鳴らす/鳴らさない?」と言う問に対して私の答えは、
「鳴らした方が良い時もあれば、鳴らさない方が良い時もある」でしかない。

でも、
実際に訪ね、ドアを開けてみなければどちらが良いかは判らない。
なので、
私の対応は、「鳴らしてみる時もあれば、鳴らしてみない時もある」になる。

そして、
先のヘルパーさんに聞いてみた。
「いろんなヘルパーさんと交代する機会がある中で、それぞれのヘルパーさんがどのように対応しているか聞いてみた?」と。
すると、彼は
「鳴らす人もいれば鳴らさない人もいます」と言う。
では、「それぞれのヘルパーさんの鳴らす/鳴らさない理由は聞いてみた?」と言えば
「それは聞いていない」と言う。「ならばぜひ聞いて欲しい」と伝えた。

それは、
「鳴らす人/鳴らさない人」の統計をとるということではなく、
「鳴らす理由/鳴らさない理由」がとても肝心だと思う。
ヘルパーさん一人ひとりが想い描く事を知り、自らの対応を知り、そしてそこに現れる当事者を知る。

連続した当事者の暮らしにおいて、私たちは断続的に介助/支援を担っている。
個々の当事者たちは、
人が代わることで大変な想いをしている場合もあるだろう。
人が変わるからこそ楽に過ごせる場面もあるだろう。

そんな、当事者の暮らしに自分たちはどのように関与しているのか?
「訪問時、ベルを鳴らす/鳴らさない」と言う事柄は、
そんなことをちょっと考える良い機会かもしれないと思った。
ちょっとした機会だけれども、そこには支援にまつわる様々な事柄を意識する機会になるように思う。

追記
話をしていく中でふと想ったことは、
交代のためにやってきたヘルパーさんには、その時の本人の状態を知ることはできない。
でも、交代を待つヘルパーさんの方は今の当事者と関わっているから、
例えば、
ベルを鳴らした方が良い場合は鍵をかけておく、
鳴らさなくても良い場合は、鍵を開けておくと言う手もありかもと思った。
ただ、そうは思いつつも、
訪ねてくる人は、何もヘルパーさんだけではないので、
昨今の状況からすれば、鍵を開けておくというのも不用心かもとも思う。
posted by 岩ちゃん at 10:51| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月02日

意思決定支援の様々な場面について

「意思決定支援」という言葉を最近よく耳にする。
それに付随する形で「成年後見制度」という言葉も耳にする。

よく耳にするから使っている私だけど、
そもそも重度知的当事者たちの自立生活を支援する上では、
この「意思決定」と言うものは常に支援の内に入っていた。

よく耳にするから使うのは、それを使う事で自分たちが担っている事を認識する事や振り返る事でこれまで担っている事や煮詰まっている事を次へと展開するだけの話だと思っている。

でも、
言葉としては耳にしても、その言葉を語る人たちはどうやらこれから取り組むらしい。
なので、場末でちまちまとながらも考え続けてきた私たちの取り組みに興味を抱いてくれるのだろうと感じている。
逆に言えば、こんな弱小団体を訪ねてくるぐらいだから、ほとんど意識の中に上っていなかったのだろうと思う。

とは言うものの、
様々な立場から関心を抱いて、一緒に考える機会が増える事はとてもありがたい。
たとえこれから取り組もうとする人であっても、
これからのためにこれまでの事を聞いてくれる事は歓迎すべきことだと思う。

そして、
あれこれ聞かれる中で、私自身も只々漠然と描き、日々ひたすら感覚で担ってきた事が、
言葉で語る機会になり、聞かれた事に応える事で私自身の為にもなっている。

そんな中での一つの事を書き留めておこうと思う。

「意思決定支援と言うが、いろんなレベルでの意思決定の手法が違うと思うがどのように考えるか?」

そう聞かれて、「レベル?」と頭をひねった。
たぶん質問者の意図とは違うのだろうが、
私は「レベル」という分け方に対し、
「空間や時間や回数」と言ったものの広さや経過をあれこれ考えた。

そして、
「上・中・下」ではなく、「大・中・小」という感覚で考えてみた。

順番は逆になるが、
意思決定支援の「小」=日々繰り返し現れる事柄。(例えば、今日の夕食メニュー・休日の過ごし方等)
意思決定支援の「中」=何年かに1度・生涯1度現れる事柄(例えば、大きな物の買い物・旅行・就職・アパート探し等)
意思決定支援の「大」=社会全体のスタンダードを巡る話(普通学級への就学・高校進学・自立生活等)

意思決定支援の「小」は、
繰り返し現れる中で、当事者が選択するための選択肢の提供や選択するためのプロセスの支援、決定された事についての意識化やその上で一つ一つの選択が繰り返される中で日々検証する機会とする。
例えば、夕食メニューを当事者が決めるという事は、好きなものを食べるという事に始まるも、選択肢がなければ選べないし、本当に本人が選んだことなのか?選んだ結果もしかしたら次は別のものを選択するかもしれないし、好きになって何度も選ぶかもしれない。
選択肢の提供・選択するためのプロセス(選択肢に対する実感・本人の選択基準・選択した際の本人が引き受ける面と支援者が引き受ける面・それらにまつわる個々の支援者の価値観や常識等々の影響等等の検討)・選択したものに対する評価等。
そして、自らが選んだという実感に基づき次を選んだ時に、それが容易に実現できる体制をつくる。
まさに、自己選択・自己決定・自己実現そして再び自己選択が日々の暮らしの中で循環していくための支援。
それは、間違った選択も本人の実感として次に向けて修正する事や逆により確かな選択とできるような支援も日々の暮らしの中での事柄ゆえに、支援の側は様々な事柄を意識する事で、当事者との信頼関係や長年の経験を積み重ねていく中で生み出されていくものと考える。

意思決定支援の「中」は、
例えば、「小」の延長線上で言えば冷蔵庫を買うと言った場合、それなりにお金があれば選択肢は増える。
選択肢が増えても本人が決めることに難儀したり、本人がどのように欲しているかが解らない場合。
結局は、支援者間で決めるしかないのだけど、「小」の所で日々の意思決定支援を担っていれば、自ずとそれぞれの支援者たちが当事者との関係の中で意見を出し合い、協議する中で決めていく事もできる。
自立生活を始める際のアパートの選択(実際は重度知的当事者に貸してくれる大家さんは限られているため選べないけど)は、本人を良く知る中で私たちがアパートを決める際に検討する事柄の一つ一つを、様々な支援者とともに協議して選んでいく。
又、どのような仕事につくかという点でも、本人は実際にやってみないと実感を抱けないけど、本人を知る人がたくさんいれば、様々な意見を出し合う中で、本人により近いところでの決定がなされるように思う・
ただ、これは障害故に閉ざされている面が多い故に、失敗が許されないという事が多々ある。
一度決めた事を実現するだけでも非常に厳しい状況があり、その点も考慮する事はあると思う。
そうして決めた事を実現するまでの苦労が多ければ多いほど、一度なされた自己決定が絶対的なものとして襲ってきて収拾が不可能になってしまうという事もある。
例えば、高校進学を目指す知的当事者が、確実に入学できる専門校に入学した。
確実に入学できると言っても知的当事者故に、高校側は拒否をする。
それに対し、本人が決めた事として高校側に本人を受け止めるよう強く要望する。
支援体制を作り様々な人の支援の下で実際に入学してみると、
専門校故に実習等が多く、その実習がとても苦手で興味もなく、学校に行きたがらなくなった。
多くの人の手を借りて実現した事ゆえに、周囲は学校に行くよう懸命に勧める。
でも、1年後再度普通校を受検しその後は嬉々として学校に通ったという事がある。
「中」の意思決定支援においては、本人や周囲によって決定された事は、あくまでも「とりあえず」の決定であり、それが本当に当事者自らの決定というには、その後具体的に事が進んだところでしか判断できないという想いが大切だと考える。

意思決定支援の「大」は、
高校進学もそうだが、アパートでの一人暮らしや一般就労と言った、私たちにとっては普通に起こる事が、障害を理由に閉ざされてしまっている現実に対し、私たちはどのように向き合うかという点。
例えば、本人の意思を確認すると言うが、
障害児が「支援学校」を選択する際には、「何故、支援学校なのか?」を問わず、「普通学級」や「公立高校」に就学/進学する時には、なぜ「普通学級なのか?」「高校進学が本人の為か?」等と聞かれる。
困難な状況にある自閉症を伴う知的当事者に対して、「どうして施設に入れないのか?」とは聞くが「どうして自立生活をさせないのか?」とは聞かない。
「聞く」という事の中に、実は障害者に対する私たちの価値観や偏見がたくさんあり、「障害者は」という思い込みの中で、当事者の意思決定を求めている。
これは、本人や家族や周囲の支援者たちを巡る意思や意思決定やその支援というよりも、
社会が何をスタンダードとし、障害者故に当事者やその周辺に社会の価値観や常識に「決定させられている」という事に目を向ける必要がある。

私たちは、
意思決定支援を考える時「大」の場面で何を当事者たちに求められているかを考えなければならない。
でも、それを考えていくには「小」の場面で当事者と常に向き合い、日々失敗も成功も繰り返しつつ、常に意識化し、修正を恐れず、日々をつないでいく事が大事だと思う。

意思決定支援が何なのかはいまだ一言では語られないが、
とりあえず、そんな区分けの中であれこれ考えてみた。
posted by 岩ちゃん at 17:38| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月27日

介助を使って暮らす

一人暮らしをしている自閉症を伴う重度知的当事者のお宅に介助者として入る。
24時間何らかの形で介助/支援者がいて成り立つ彼の暮らしの一場面。

泊まり介助者との引き継ぎ。
前の介助者は交代直前に食事作りを頼まれたらしく、
私は作りかけの調理も引き継いだ。
前の介助者が帰り、あらかた出来上がっていた食事の仕上げをする私。
出来上がったので家主に伝える。
台所にやってきた家主は、
「入れるの!!」「お皿!」という。
普段盛り付けは家主自身がやっていたように記憶しているが、
言われるままに進め、盛りつけたものの確認をとる。
依頼通り事が完成したのだろう。
盛りつけた食事をすぐさま自室に持って行って食べ始めた。

いつもの場面ではやらない介助ではあるが、
依頼された事に応える私。
なんてことない風景だと思う。

一人暮らしを始めて10年が過ぎた当事者。
介助者を使い自らの暮らしを作っている。
そんな場面でしかない。

しかし・・・
こんな状況になるまでに10年以上かかっている。

なぜなら、自閉症を伴う重度知的当事者にとって、
事を他人に頼む事の難しさ故に、
大パニックを頻繁に起こしていた彼。

自立生活を始めた当初、私は頻繁に介助に入っていたので今朝の風景は、「普段通り」と思える。
しかし、他の人に介助の場面を委ねるにつれ、彼の側には新たに表れる人に対し、
「依頼する」という事が生まれてくる。
言葉できちんと説明できれば良いが、
相手に伝わるように依頼できず、
依頼できないゆえにストレスが溜まる。
溜まったストレス故に、余裕を無くしますます伝わるように依頼できない。

依頼できなければ依頼しないという時期もあった。
何でもかんでも自分でやる。でも、できない事も何とかやろうとすればストレスが溜まる。

「できない事はヘルパーに頼めば良いよ」と言っても、
「頼む」という事ができない彼。

そんな彼が、ここ数年変化してきた。

10年前。
(彼にとっては)突然現れる人がヘルパーという人であると認識するのに必死だった。
そこから始まり、
ヘルパーは家事をやってくれる人と認識し、
自分の暮らしのためにやっていると認識し、
自分の要望を聞いてくれる人と認識し、
伝わればやってくれる人と認識する。

頼む事柄とやる人とがセットで存在していた彼。
やってくれる人が帰る前にやってもらわないとと必死になる彼。
でも、食べたい時間ではないので頼みたくない。
でも、今頼んでおかないと次の人はやってくれる人ではない。

頼む事とそれをやる人とがセットになって依頼できるようになってきた。
定期的にやってくるヘルパーに対し、
セットとなっている人の所ではまとめていろんな事を頼めるようになってきた。
しかし、ヘルパーなんだから誰に頼んでも良いとはならず、
頼めないヘルパーの時は頼まず、ご飯も食べず、頼めるヘルパーが現れる時まで待つ。
という事も彼の中にあると思う。

そんな事を日々繰り返しつつ、一人暮らしが10年過ぎる。

そして、
今朝のサクサクこなしている状況。
そこだけを取り上げればなんてことない出来事だけど、
私にとってはまったくの奇跡に思える。

そして、彼が歩んできたその軌跡をたどれば、
私たちが当然と思うことが彼らの世界観の中では決して当然ではないという事に気づく。
又、異なる世界観を持ちつつ私たち多数の側の世界観の中で彼は必至に自らの暮らしを組み立ててきた凄い人に想えてくる。

「介助を使って生きる」という事。

使って生きるのは私ではなく彼の側であり、
「介助を使って生きる」という事が、
彼の世界観の中でなされなければ、

「生きる」という事にはならないと思った。

又、
そうなるために私たちはまだまだ何も取り組めていない。
取り組めていない中で、彼の側が懸命に生きる中で築いてきたものであると感じる。
posted by 岩ちゃん at 12:54| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月27日

手話通訳や要約筆記は誰のため?

統一地方選:手話の訴え、聴覚障害持つ母当選…明石市議選」という毎日新聞のネット記事を読んだ。

「母当選」というところは余分だと思うが、
「耳が聞こえず、声も出ない議員は国政も含めて全国で初めてという」という状況を生み出せたことはとても喜ばしいこと。
ぜひぜひ任期いっぱい頑張って欲しいと願う。

でも、
全国初という事は、他の議員も彼女のような人とともに議場(それ以外でも)で議論する事が初めてという話しになる。

議員の中には、日頃から付き合いのある人もいるだろう。
又、福祉の充実を掲げて当選した人たちもいるだろう。
しかし、議場という特殊な場で生まれつ初体験は、今後数多く出てくると思う。

記事の中に、
「耳が聞こえず声も出ない議員は過去に例がなく、明石市議会事務局は本会議での手話通訳者や要約筆記者の配置を検討している。」と書かれている。
それは、最低限保障されるべきことだと思う。
最低限と言うのは、
生まれながらにして、「耳が聞こえす声も出せない」人たちの世界観は、私たちが単に耳栓をして音のない空間に身を置かれるのとは違い、音のない世界で暮らし続けることで生まれる私たちとはまったく異なる世界観をもっていて、「手話」という「言語」その物にも現れる私たちと異なる世界の人と同じ空間で議論を積み重ねるという事は、単に「手話通訳者」や「要約筆記者」を配置すれば済むという話ではないように思う。
その辺りのことも含めると、1対多数の中で彼女が活動し続けることの困難さは相当なものだと思う。
しかし、
一方で他の議員たちがその一人の存在を認めともに議会をつくろうとするならば、
単に彼女だけの困難さではなく、多数の議員にとっても困難な状況を皆さんが頑張って乗り越えていって欲しいと願う。

その最低限の「手話通訳者や要約筆記者の配置を検討」と議会事務今日は言う。
ぜひぜひ、事務局の皆さんにも頑張ってもらいたいところだ。
ただ、
その配置の必要性は、
議員となった彼女のためのものではないという認識に立って欲しい。

そもそも、
「通訳」というものは、お互いの言語が異なる者を繋ぐ役割を持っている。
「英語しか話せない人」と「日本語しか話せない人」の間に「英語と日本語が話せる人」いる人が通訳者。

その通訳者は、決して前者のためだけにいるのでもないし、後者のためだけにいるのではない。
双方をつなぐという役割を持って、双方に必要な人。

それと同様に
「手話通訳者」は、「手話で話をする人」と「手話で話ができない人」の間に立ち、
双方を繋ぐ役割の人。
よって双方に必要な人。

要約筆記についても、
もし、その人の存在がなければ、ともに議会を運営する他の議員は、音によって得られる情報について、
音によって得られない情報をその都度伝えていかなければならない。
そうでなければ、対等な議論ができない。
その都度彼女に伝わっているかの確認を取っていては非常に大変なことで、
要約筆記者の存在は、他の議員の手間を少しでも軽減するために不可欠な存在だと思う。

すなわち。
手話通訳者にしても、要約筆記者にしても、
「耳が聞こえない」「言葉が話せない」人のためだけにあるのではなく、
「耳が聞こえて、言葉を話せる」人のためにもある。

もし、議会事務局が彼女のためだけにあると考えたなら、
彼女のためだけに必要な予算と発想するだろう。
次回の選挙で同様の人がいなくなれば、予算削減で配置しなくなるだろう。
でも、全ての議員のために必要と発想すれば、
全ての人に必要な予算となる。
又、常に手話通訳者と要約筆記者がいる議場は、
耳が聞こえない人に取っての傍聴の機会を保障することにもなる。

さらに、
全ての人に必要なこととしてその経験を積み重ねて行く中で、
「通訳」を「支援」と置き換えたなら?
「支援」は障害当事者のためだけにあるのではなく、
様々な人とつながるためにあるものとなるように思う。

障害者世界では、とかく障害種別によって制度やサービスが異なり、
個々の障害に応じた専門性が語られる。
しかし、
「支援」が双方をつなぐものとして位置するならば、
何も障害種別で切り分けることではなく、
様々な人が存在するため事を保障するため、
全ての人にとって必要なものとして位置づけられていくように思う。

今回当選した彼女が、
どのような公約や想いを持って議員となったかは判らない。
もしかしたら、「聴覚障害者の権利」のみで展開するかもしれない。
もしかしたら、「他の障害については取り合わない」かもしれない。
(たぶんそんなことはないと思うけど)

彼女がどのような思いで議員となったかについては、
もっとどうしようもない議員が多数当選しているので現段階で問題にすることではないと思う。

今回のことを通じて押さえておきたいことは、
議会という場が、これまでとても面倒な人の存在が排除してきた歴史を想いつつ
その歴史に風穴を開けたという点で凄いと思う。
そして、開けた穴を維持し続ける彼女の困難さは容易に想像できる。

しかし、その困難さは双方向と言うものとし、
「手話通訳者」や「要約筆記者」等の配置が、
彼女に対する保障ではなく、
全ての議員に対する保障という発想で、
今後を展開して欲しいと願います。


 
posted by 岩ちゃん at 11:40| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする