2014年12月09日

「過ぎたるは及ばざるがごとし」と構造化の関係

「過ぎたるは及ばざるがごとし」とは・・・
「やり過ぎは、やらなさすぎと同じ」の意だんだけど・・・


何を持って過ぎる?
何を持って足りないと言える?

私たちはその辺り「暗黙の了解」と言う枠組みで。
互いに「空気をよむ」という事を持ってやり取りしている。
又、出過ぎた事は「笑ってごまかす」と言う修正方法も持っている。
逆に、出過ぎた事をした結果と言うのも経験済みで、いろんな事前の手立てを講じていたりする。

それらは、まさに相手があっての話。
相手との関係やその場(集団)での関係性等があって必要となる事。

しかし。
相手や周囲の関係性に困難さを抱えている発達系の当事者たちは・・・
「関係性の困難さ」と言うが、世の中があたりまえと思うその基準が理解できない人たちにとっては、
「過ぎたるは・・・」は、「どこまでやったら過ぎたるになるのか?」が解らない。
同じことをやっているのにそれが相手や場の状況の中で「過ぎた」事になってしまう事を了解できない。

「いつもと同じこと」を当事者はやっているのに、
ある日突然、「何やってんの!」と怒られる。
起こられるのが嫌だから何もやらないでいると「どうしてやらないの!」と怒られる。
その判断基準が解らないから「やっていい?」と聞けば、「それぐらい自分で判断しなさい」と又怒られる。

当事者たちは、物事ができない人ではない。物事そのものが理解できない人でもない。
ただ、どこまでやっていいのか?が解らないだけかもしれない。

その解らなさ故に当事者たちは「問題行動」と称される行動を起こす。

「やって良い」と言う人と「やってはいけない」と言う人がいれば、
「いったいどっちなの!!」と本当ならば起こって当然なんだと思うが、
怒られる対象となり、
理解できない対象となる。

多分、専門家の皆さんに言わせれば、
「そういうあいまいさが本人を辛くさせてしまうから、物事の構造化を図り、本人に枠組みを与え、その中で本人とやり取りする事が望ましい」と言うかもしれない。

確かに、
枠を作り、そこに本人を入れ、その中で本人とやり取りすると落ち着いていく当事者たちはいる。

私自身も「構造化とは本人にとっての解り易さ」と思う。
他の人と比べ当事者たちとそれなりにやり取りできたり、やり取りの取っ掛かりを持てるのは、
どこか同様の事を無意識にしているからと思う。

でも、
何かが違う。

入所施設や家庭や学校や職場と言う限られた空間や人間関係ならばそれでも良いのかもしれない。

私だって、家に帰る度に物のありかの場所が変わっていたら落ち着かない。
「いつも同じ場所にある」という事が安心できる我が家になるのだと思う。

これが、
社会と言う不特定多数とやり取りする場合を考えると・・・

実は、当事者の身近にいる人や専門家がどれほど枠組みを作り、本人をそこに入れてやり取りできたとしても、
それと同様のやり取りを世の中すべての人がやってくれるわけではない。
世の中の「暗黙知」にさらされる当事者たちは、やっぱりその「暗黙知」=「何を持って過ぎたると言うのか」が解らず混乱する。

ならば、
「本人にとっての解り易さ」=「構造化」の作業は、
周囲が本人をそこへ入れ込むというよりも、
本人と一緒につくる(構造化する)作業から始める必要があるのではないだろうかと思う。

長い年月当事者の自立生活に関わる介助者や支援者たちを見ていると、決してお決まりの関わり方を当事者としているわけではない。
それ以上に、自分らしく当事者と付き合っている。
様々な人が存在するその一人一人と当事者はつきあえているのは、
もしかしたら、時間をかけて個々の関係における構造化をなし終えているからかもしれない。
それは、世間一般が了解するものとは真逆の事かもしれないが、
当事者本人にとっては、相手のとの付き合いの中から見出したものだから、多少の事では揺るがない。

そして、
それさえもそれほど多くはない介助者や支援者たちなので、それ以外の社会一般の人の方が多い。
なので、
様々な人と関わる当事者を見ることで、本人自身がいかに人との「付き合い」と言う目には見えない物を利用介できているかを知る事で、当事者を知らない人たちとの橋渡しについてもやり易くなるのではないかと考える。

又、ある人にとっては過ぎたることも、ある人にとってはまだまだ余裕という事はしばしばある。
そんな事も当事者たちは見抜く力を持っているように思う。

その力を奪っているのは、私たちの側で、
一旦奪っておいて、こちらが意図するものを当事者たちに教えているような気がする。

大切なのは、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」を当事者に理解させることではなく、
何を基準にするかを一緒に考える機会をどのように持つかという事ではないだろうかと思う。

posted by 岩ちゃん at 16:31| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月20日

「障害者だから許される」わけではない

触法障害者を巡る話でよく耳にするのは、
「障害者だからと言って罪を許されるというのはおかしい」と言う声。
実は、私自身もそう思っている。
それは、「障害者だから」とした時に人を障害者と非障害者に分けてしまうから。
「同じ人間。罪を犯せば、罪を償う・刑に服すのは当然」と私も思う。

では、
「おかしい」とする人たちは、障害の有無に関わらず罪を犯し刑を終え社会に復帰した人に対してどのように接しているのだろうか?
「前科者」というレッテルを貼り、「危険人物」「要注意人物」として「扱い」「遠ざけ」ているのではないだろうか?
そもそも、刑に服し出所してきた人と出会う確率はほとんどない。
又、刑に服た事を隠し通す(そうせらるを得ない)人たちは、自らの過去を語れないし、
その結果、服役と言う経験を持っていたとしても私たちは知らないままにつきあっているかもしれない。

それは、一旦罪を犯してしまった人が一生背負っていく事とするならば、
そこも障がいの有無で分ける事はせず、
罪を犯してしまった人は、私たちの場から遠ざけられ関わる事を拒否され、一人で一生罪を背負って行くのだろう。

しかし、
地域で暮らす障害者たちは、自らの力のみで暮らす事は障害のない人以上に厳しい。
障害の故に支援が必要。
支援を使って地域で暮らすという事が巷で言われるようになってきた。
自らが招いた罪は確かにあると思う。
しかし、それ以上に「害」あるものとして罪を犯す前も、刑に服し地域に戻ってきた後も社会から一方的に負わされているものが想像以上にあると思う。
その事に対して支援と言うものが必要なのだろうと思う。

ここ数年私は「触法障害者」と呼ばれる人たちを巡るのやり取りが増えている。
その中でいつも思うことは、
「障害者」だから関わっているのではなく、
「障害」というものを「者」に対し私たちが一方的に負わせている事。
その事によって起こる触法行為について、
私たちの側の問題や課題を見出し取り組まなければならないと思っている。

私自身は知人が罪を犯した事に始まり、
その直後からその罪について関わる事になった。
現在、刑が確定し刑に服している。
その人は、公判に至る中で「自閉性障害」と言う障害がある事が明らかになった。
又、長年「その人をその人」として付き合ってきた私だが、
その人が描く世界観や価値観が実は私たちとはまるで違うところにあることを知る。
しかし、その事に気づかないまま私たちの世界観や価値観の中で、その人と過ごしていた事を知る。
何も理解しないままの付き合いは、結果私たちのあずかり知らないところで事が起きてしまった。

事の真相が明らかになる中で、その人に対し「悪いものは悪い」「罪を犯せば罰せられる」「自らの行為を反省しろ」と想い描き口にもする。
しかし、世界観や価値観が私たちとは違っているとして改めてこれまでの事を振り返ると、
「悪いもの」とは?
何をもって罰せられているか?
本人にとっての反省とは?
それらはあくまでもこちら側が描くものでしかない事に気づく。
その中には、多数の側に道理がある場合も多い。
しかし、その道理を互いに共有することなく、共有しないまま表層で付き合っていたように思う。

互いの違いが解らないまま過ごしてきた関係。
互いの違いを解らないまま刑を終えたとしても、この社会では再び同じ過ちを犯す可能性は高い。

違いが解らないのは、決してその人だけではない。
私たち自身もその人との違いを解っていない。

しかし、
大多数の側に位置する私たちは問われず、
少数の側に位置するその人のみが問われる。

私の関わりのきっかけはその人すなわち「者」ではあるが、
課題としなければならない事は「者」ではなく「障害」という事。
そして、
「障害」が双方の間に存在しているはずなのに、一方的に相手に負わせてしまっている事を問わなければならないと思っている。

でも、
加害者がいれば被害者が存在する。
何時私も被害者になったらと考える。
「あなたが被害者ならそんな風には言えない」と言う声もある。
確かにそうだと思う。

実際被害に会われた方から言われれば、
何も言えない。

しかし、
私と同様被害者でも加害者でもない者が語る時、
それはどこか被害者の側に立って事を考えようとしない方便に聞こえる。

加害者となった当事者の側に立つのは、
被害者の側に立つ、被害者の感情を利用している人たちが多いと思うからこそ、
加害者の側にいるだけ。

弁護士が被害者の側に立つ場合も加害者の側に立つ場合もあるのと同様、
被害/加害の当事者でない私たちは、
そこにある様々な問題や課題をどちらの立場からであっても問い担い続けていくものだと思う。

それは、単に当事者の事ではなく、
私たちの社会に対しそれぞれが追い求めていくものなのだろうと思う。

とは言っても、
実際その渦中にいれば何をどのように捉え向き合い担えば良いか見えない。

だからこそ、
遠くから近くから様々な人とともに考えていきたいと願っている。


posted by 岩ちゃん at 14:40| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月26日

我が家の常識はいかに?

人それぞれに我が家の常識と言うものがある。
それは時に、まったく意識がないので、他人の家の常識を見た時、
「あれ?」と思う事もある。
又、一旦それが「我が家のみ」だと気づけば、他人の家の常識はいかようになっているかを意識し、
相手に失礼のないように努めたりする。(相手の常識が解らず戸惑う事もある)
 
そして、
我が家の常識と言うものも一旦その家を離れ一人暮らしや結婚等他の人と暮らすようになれば、
自ずと変化していく。
一人暮らしなら知らず知らずの内にすりこまれた常識のままに同じくやっている事もあるだろう。
実際の暮らしに即して、どんどん変化もするだろう。
又、家族の常識が嫌で、一人になった途端その常識を捨てて、新たな常識を作り上げていく事もあったりする。
結婚等、これまで暮らしを異にしていた人と一緒に暮らすとなれば、お互いの常識を出しあうこともあれば、
一方的に受け入れると言う事もあるだろう。
新たな発見に喜んだり、新たな事が受け入れられず一緒に新たな常識を生み出す事もあるだろう。
 
常識と言う言い方をしているが、
すなわち、無意識でやっている事、自然の流れでやっている事と言うものが、
家族等の生活や一人暮らしの場面においてもそれぞれに持っていて、
普段は意識の上に登って来ない事柄。
 
そんな我が家の常識について、
介助者(ヘルパー)を使い自立生活をしている重度障害者たちはどうなんだろうかと考えてみた。
 
重度の当事者のお宅に介助に入ると、
私たちと同様にその家ならではの常識と言うものがある。
 
重度身体当事者の家に伺えば、
本人から指示される内容に、時折「あれ?」と思う事がある。
言われるままにするのがヘルパーの職務とは思う。
只々指示のみで動く事が嫌な私としては、自分の描いているものとの違いを出しつつ、
当事者から出される指示の意味を考えたり背景を知ろうとする。
すると、「なるほど〜」と思う事がしばしばあったりする。
時間単位や内容単位で介助していると気づかない、当事者本人の暮らし全体の中で、私に対し指示されている事を知る。
「こうしたら良いよ」「あ〜したら良いよ」と言いたくなる気持ちも、
その人の暮らし全体の中では余計なお世話で、
「そこだけ見ればそうかもしれないが、その後の事を考えるとこうしてもらわないと困る」と言う指摘は、介助を始めた頃結構当事者の方たちからあった。
又、あるお宅で指示され担った事が、実にもっともな事だと想い、別の家でそれを実践しようものなら、
「俺とあいつは違う!」「勝手なことするな!」と怒られもした。
 
まさに、それぞれのお宅にそれぞれの常識があり、その常識に則り介助をする。
ヘルパーの基本と言えば基本なんだけど・・・
 
ここからが本題。
では、一人暮らしをする重度知的当事者のお宅ではこの常識はどうなんだろうか?
様々な当事者の一人暮らしを見てくると、その人なりの常識と言うものを感じる。
私の場合、当事者の幼い頃を知っていて、家族ぐるみの関わりをしてきたので、
その人が家族の中にいた時の様子を知っている。
だから、個々の当事者が個々の家族内で常識としてきた事をそのまま一人暮らしの中で展開ていたり、
それが嫌で一人暮らしが始まれば大きく変化するかも?と比較検討できたりする。
 
とは言っても、そこにはうまく言っていれば良しとし、うまくいかなければ何かが違う程度のもので、
その人(家庭)にとっての常識と言うものがはっきりとわかるというものではない。
 
個々のお宅にある常識。
それが意識せずとも流れていくものであったなら、
それに対しヘルパーはいかに関わるのか?
 
重度身体当事者たちのように、私の担い方を指摘したり、怒ったりはしない重度知的当事者たち。
不穏当な行動を見せれば、さすがにヘルパーも他のヘルパーたちと話する中で本人が望んでいないと言う事に気づくかもしれない。
 
でも、ヘルパーに逆らわず、言うがままにやり取りできてしまう当事者の場合は?
 
一つには、自立生活を始めた当事者たちと長年付き合っていると、何となく「この人の家では」と言うものが生まれてくる。
それは、本人にとってもしかしたら不本意な事かもしれないが、介助者を使って暮らす暮らしの中で生み出し、それなりの自らの暮らしを組み立てていく中で生まれる「我が家の常識」。
 
・洗濯は朝にするか夜にするか?
・朝はパン?orごはん?
・朝にガッツリ食べる?or夜にガッツリ食べる?
・休日の過ごし方は?(行動派?orのんびり派?)
・お金は毎日決まった額でやり取りする?or宵越しの金は持たない主義?or貯めてから使う?
・食後すぐに歯磨き。寝る前に歯磨き。入浴中に歯磨き?
 
本人が指示を出してくれればそれなりに動くヘルパーたち。
でも、指示がない中では本人とのやり取りで決めて担うしかないが、
本人とのやり取りでは決まらない事は、ヘルパーの意向に即してやるしかなかったりする。
 
それも、長年定期的に恒常的にやってくるヘルパーならば、何となく理解していて何となく担えていたりする。
でも、昨今事業所派遣となり、事業所が派遣する人を決めていく状況の中、
ある日突然見知らぬ人がやってきてその後の派遣を担うとか、
誰でも良いみたいなので、いろんな人がヘルパーとしてやってきたりとかする場合が増えてきた。
 
事業所は、本人に負担がないよう新しいヘルパーには様々な事を引き継いでいく。
ヘルパーが代わったからと言って内容の質が変わり、本人に負担がかからないように努めもする。
 
でも、
「我が家の常識」という意識下に上らない事まで微に入り細に入り引き継がれていかない。
なので、ヘルパーが代わると本人が変化する。
ヘルパーが代わるとそれまで自分でやっていた事ができなくなったりする。
(逆にできるようになる事もあるんでややこしいのだが)
 
毎週定期的に私が入っていると、その辺り新しいヘルパーが入る事で現れる当事者の変化も何となく知れる。
変化を知る事ができれば、それを支援者たちに伝え、その変化が妥当なものなのか?本人に負担がかかっているのかも考える機会になる。
でも、私が入らないと・・・
 
何となくやっている「当事者宅の常識」
そこには、介助者が絡んでくるが、介助者は介助者なりに持っている「常識」の中で当事者とやり取りするしかなくなる。
それが「自分の常識」として意識しているならばまだしも、「これが常識」と決められ関わられている当事者にしてみれば、
当事者自らの常識は当然無視されていく。
それでも、長年かかわっていれば当事者と介助者とで生まれてくる新たな常識もできてくるだろう。
しかし、
事業所による派遣となっている昨今、
「当事者宅の常識」は個々の「ヘルパーの常識」に埋没し、個々の「ヘルパーの常識」はそれぞれが入っている他の場面を知らないが故に、
結果、本人は個々の「ヘルパーの常識」に合わせて暮らしを余儀なくされる。
 
さてさて、
「我が家の常識」は「我が家の常識」である事をいかに私たちは意識しつつ介助を担っているだろうか?
意識下に上らない事がらの中で、「私の常識」を当事者に押し付けてはいないか?
 
「私の常識」に対し、当事者が言葉や行動で「否」を唱えてくれれば解り易い。
でも、多くは「私の常識」に合わせて暮らす当事者がいて、私に合わせるという事は、他のヘルパーの常識にも合わせているだろう。
そして、「我が家(その人)の常識」を奪われる中で、重度知的当事者たちは暮らしているのかもしれないと想像した。
 
 
 
 
ところが、
これが最近付き合い始めたヘルパーだとどうだろうか?
 
 
posted by 岩ちゃん at 17:18| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月15日

重度知的当事者の生活費の管理 その2

2013年7月12日の記事(http://takonoki-p.seesaa.net/article/369043602.html )のその後は、
結局、社協が担っている権利擁護事業では、
「重度の知的障害者の場合、契約する事ができないため権利擁護事業を使ってお金の管理をする事はできない」と言う結論が出された。

「では、どうすれば良いのか?」と問えば、ひたすら「成年後見制度の活用」のみを言うばかり。
私が現状の成年後見制度では、危なっかしくて使えないという立場にいる事を知っているため、
何が何でも「成年後見制度」と言う話にはならないが、この問題も解決されないままです。
(重度知的当事者が権利擁護事業を使っている情報があれば、ぜひ教えてください)

なので、この人のサービス利用計画案を作る際に、
「この1年かけて、お金の管理について検討する」と言う項目を入れさせ、
本人や支援者の問題だけでなく、社協や行政も巻き込んだ当事者支援を担う人たちみんなの課題とするよう文字に残した。

そんな折、
又別の重度知的当事者のお金の管理を巡り、新たな展開が出てきた。

その人のこれまでの状況は、
週に一度、1週間分の生活費を本人に渡し、
本人はそれをお財布に入れて持ち歩いていた。
本人は、お金の計算ができないばかりか、
そもそも金の概念さえ持ち合わせていない。
なので、介助者やその周辺にいる人たちが使った分のお金を記録し、
その次にお金を使う場面になった人が、前の所持金を確認するという方法をとってきた。
(ただ、最近は120円と言う不明金がしばしば現れ、本人一人でいる時に自販機等でジュースを買い始めたみたい)

当然週に1回お金を補充した次の日は、大金を持つことになる。
(大金と言って十数万円とかいう額ではないけど)
彼の通う職場(就労B型)の人数がここ最近増えてきて、
1週間分の生活費を財布に入れて持ち歩くことに不安が生じ、
普段持ち歩くお金と自宅において日々補充するお金を分ける事になった。

毎朝、数千円程度(彼のこれまでに実績からその程度あれば一日は事足りる額)になるように、お金を補充する。
補充するのは夜に入る入るヘルパーさん。
そして、朝彼を職場に送り出すヘルパーは、彼の所持金がきちんと補充されているかを確認する。
ある程度のお金を家に置く事になる。

毎日お金を補充するという作業が生まれる中、
夜に入るヘルパーと朝に入るヘルパーとは、別の事業所の人。
夜に入るヘルパーがその日一日使ったお金のチェックと補充を行い、
朝のヘルパーが確認することで、
本人はよくお金の事を理解できていなくても、
なんとかヘルパー間でチェックし合える。

又、週に一度私も介助に入っているので、
1週間分のお金のチェックを私が担う。

現実、お金の不具合は何かと不信感につながり易いので、そういう形でお互いに間違いが起こらないようにと言う管理方法に変更した。

他の当事者たちの中には、
そもそもお金を持つとすぐに使ってしまうと言う人もいれば、
1円単位まで合わないと気が収まらず、人にお金を預けられない等、
様々いるので、それぞれに管理方法は異なる。

ただ、
当事者のお金を管理するという点での悩みはどこにでもある。

そして、
先の当事者も、最終チェックをしているのは私なので、
私が何か間違いを犯せばたちまち大事になってしまう。
そうならないためには、私をチェックしてくれる立場の人が必要。

とは言うものの、
チェック・チェック。管理・管理と強調すればお互いの関係がぎくしゃくする。
又、自分を振り返れば結構どんぶり勘定だし、1円単位でお金を把握するなんてしていない。

人のお金を触る時に生まれる課題。

結局は、信頼関係と折り合いでしかないと思うのだが、
本人が何も言わない知的当事者の一人暮らしの場面では、
非常に悩ましい。
posted by 岩ちゃん at 12:52| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月13日

何が待っているかわからない知的当事者の自立生活の介助

前回介助に入った時、突然「お母さんに会いに行く」と言い出した当事者。
昨日は、まったくそんな話は出なかった。
その代わり、前の介助者と交代した後すぐに「出かけるモード」になり、
「どこ行くの?(どこか出かけようの意)」となり、出かける事になった。

そして、ちょっと遠出するつもりが、普段は夕方早めに帰ってくる彼が、
ぐったりするぐらいまでウロウロして暗くなっての帰宅となった。

別の日には、一日家の中でダラダラしている事もあったり、
ちょこっと出かけDVDを借り、家でマッタリ見続けていたときもある。

本人は、明確に「あれがしたい」「これがしたい」言えない。
又、言えたとしても暮らしの中で、その日は無理という事もある。

逆にチャンスは何度でもあったりするし、
お試しでやってみる事もあれば、
気に入って、マイブームと化すこともある。

本人のもとには、毎日違う介助者、
介助者は、その日その日の介助を担っている。

他の当事者の介助ノートを見ると、
「今日は、いつも通りでした」と書き込む介助者がしばしばいるが、
それを見るたびに本当?
と疑ってしまう。

なぜなら、
私が介助に入ると、何がしかいつもと違う当事者が現れるから。

なぜ、他のヘルパーのときには「いつもの当事者」が現れ、
私の時には「いつもと違う当事者」が現れるのだろうか?と考えてみると、

たぶん、
「いつもの当事者」が現れる事を無意識に介助者は思い描き接しているから、
その期待通りの当事者がそこにいるのだと思う。
それは、私ににも言える。
「いつもと違う当事者がいて当然」と思う私に対し、その期待通りの当事者がそこにいる。

なので、
いつも通りが良いか
いつもと違う方が良いか?
という話ではなく、

いつも通りであっても、いつも通りでなくても良い。

ただ、介助者の方は、
いつも通りがあたりまえになっていくと、
何かを見落とすだろうと思う。
又、いつも違う行動に、
いつも通りにそろえてしまおうとする。

なので、
介助をする側は、
いつも違ってあたりまえと思っている方が、
何があってもすぐに対応できるのではないだろうかと思う。


posted by 岩ちゃん at 12:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月05日

互いの「解らない」が解っていない

「岩ちゃんは、解らないっていったじゃぁん」と言う当事者。見に覚えのない私。
でも、彼がそういうなら申し訳ないがそうなんだろうと思う。
そして、何を「解らない」といったかをあれこれ伺う。

すると、
僕が紹介した雑誌の内容について私が「解らない」と言ったという事だと解る。
でも、
私が「解らない」と言ったのは、なぜ彼は、そのような事を言い出したのか「解らない」と言った事を思い出した。

雑誌のタイトルを見れば、そこに書かれている内容は解る。
私の頭の中は「誰にでも解ること」としてスルーし、
私の頭の中は「なぜ、そのような事を聞くのだろうか?」と巡らしていた。

でも彼は違った。
彼は、自分でも見たことがない雑誌だったので、その中身がどういうものかを知りたかったのだ。
それに対して私が「解らない」と言ったと受け止めていたらしい。

「解らない」事が悪い事ではない。
「解らないままにするのが悪い」と人は言う。

でも、相手が「解らない」事をこちらが「解らなければ」、
どれだけ相手とやり取りしても、何も解決されない。
逆に解決されない苛立ちを、当事者の側にぶつける。

相手もこちらが「解っていない」事が解っていないから、やり取りを重ねれば重ねるほど苛立ちを募らせるだろう。
そして、募らせた苛立ちはよからぬ行為に至ると、
そもそもお互いの「解らない」と言う課題は、すべてなくなってしまい、
良からぬ行為を起こした当事者のみが責めを受ける事になる。

互いの「解らない」事が解っていないということは、
「解るまで」気づかないもの。
だから、そういうことがあることを常に頭の隅においておきたい。
posted by 岩ちゃん at 07:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月09日

重度訪問介護が24時間認められたとして

昨夜とまり介助に入った重度知的当事者は、私が介助に入るとなぜか淡々としている。
別の介助者に聞くと、
その人の時はいつもテンション上げ上げらしい。

昨日も、一緒に帰宅すると本人は自室に入りTVをつけCDを聞いている。
私は夕食を作り終え、彼に声かけするとおもむろにテーブルにつき食事を摂ってすぐさま自室へ。
しかも、ベッドにあがりこみ眠そうにしているので、「寝ますか?」と聞けば「ウン!」と言う。
そして、しばらくベッドに横たわっておしゃべりしている間に寝てしまった。

そんな当事者と私の関係をなんと捉えれば良いだろうか?

私の取り組みを知る人たちは、
「当事者はあなたに安心しきって、自分のペースでやれているからすごいね」と言うかもしれない。
でも、他のヘルパーと同様に見る人は
「当事者は、あなたに何も頼めないのでは?」
「あなたに気を使って何も言わないのでは?」
「もしかしたら、あなたは当事者に何も言わせないようにしているのでは?」と言われるかもしれない。

当事者と私の二人っきりの密室。

そこで何がどのように行われているかを、
重度知的当事者は語らない。
態度に表れていたとしても、
それを何とでも介助者が違う解釈で周囲に伝えるかもしれない。

24時間介助者がいれば、
日常を廻す事はそれなりにできるだろう。
又、掃除や洗濯やごみ捨てと言ったことは、
24時間介助者が入ることで、お互いに目がつくので不具合があったり、改善が必要と思うことはそれなりに共有できる。

しかし、休日どのように過ごすか?
平日帰宅した後どのように過ごすか?
と言った点に現れる、本人の暮らしを拡げる・豊かにすると言った点においては、
本人が語らない分、本人が求めない分、
とりあえず24時間介助者がいると言うのみに留まってしまう可能性が大きいように思う。

それでも、地域から奪われなければ次に何らかの展開が生まれるとは思う。

しかし、
24時間の重訪の派遣を一事業所だけで担ったとしたら・・・

24時間一対一の密室の関係の中で当事者は暮らし続けることになるのではないかと危惧する。

当事者の中には、人との出会いや新たなことに手がけることが苦手な人たちがいる。
そのような人の場合、ただひたすら本人の安定さを求め、人との出会いや新たな展開を当事者に提案するよりも、
毎日を淡々と過ごす。当事者を小さな世界の中に閉じ込めてしまう。

重度知的当事者にとっての24時間の介助保障は、
それが実現した暁には、その中身も問うていかなければ、当事者たちは逆に大変な状況に置かれてしまうかもしれないと思う。

今はまだ、
知的当事者の自立生活を支援し続けている人たちが、重度訪問介護の拡大を願ってきたし、必要となる支援が十分に見えているから、
行政に対しても24時間の保障を追い求めている。

しかし、制度が整う中で、
当事者支援よりも事業所のための人材確保の材料として囲い込みが始まるかもしれない。
24時間の支給量が出なくても、一日10時間ぐらい出れば、ヘルパーの人件費はまかなえるだろう。
事業所の費用が出なくても、人を恒常的に抱え込める費用が入るなら、
他の利用者で利益を得ると言うことも可能になる。

私たちは、当事者支援とそれを担うための担い手の支援の両方を考えなければならないと思っている。

しかし、制度化されると当事者支援はさておき、担い手の支援・事業所の存続のみを考える人たちも出てくるように思う。

まぁ〜。
それでも、当事者が地域から奪われないと言うことにおいては良しとしたいが、
そういう事業所は、出会った当事者なら誰でも受け入れるのではなく、
自分たちの都合の良い当事者ばかりを受け止める傾向があったりする。
すると、大変な人たちはその影で誰も引き受けてがいないということになったり、
それでも担い続けようと思うと支援の側が多大な負担になったりする。

そんなことにならないための何かを
あれこれ考えていかないといけない。
でも、それは実に線引きが難しいように思う。

posted by 岩ちゃん at 19:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月28日

リスク回避とリスク排除は違うよね。

知的・発達の当事者たちは、その障がい故に様々なリスクを抱えているのは確かだと思う。そのリスクは時に、社会的な問題になったりもするし、日常的にもトラブルと称される不具合を発生させる。

そもそも、そのリスクは何も当事者本人が抱えているのではなく、当事者に対し私たちの側が押し付けていると想っている。

だた、そのリスクがどちらにあろうが、その事によって巻き起こる事柄はたくさんある。

なので、そこにあるリスクは何とか解決しなければならない。

私たちにも失敗というものは常にある。
しかし、私たちは失敗を反省し、次に活かす事も含め再び招かないようにする。
(昨今の国の状況は、反省したことにして、再び導こうとしているけど)

しかし、本人の意思がなかなか見えない知的や発達の当事者が、
一度失敗を起こしてしまうと、再び起こしてしまうのではないか?という周囲の想いから、当事者のリスクとしてその後の対応が求められる。

精神当事者たちの状況を見ていると、
将来に渡って再び起こるかもしれないリスクを回避するために、社会的入院を余儀なくされている。
たまたま起こしてしまった事であっても、その内容が大きかったり周囲の理解を得られないと、「再び起こすのではないか」と描かれ、
起こさないために入院と言う手だてが講じられているように思う。

実は、そこには当事者が持つリスクとしてそのリスクを回避すると言うが、再び起こさないようにリスクとなる事(この場合は、社会で生きる事)を排除しているように思う。

私は、前々からリスク回避と言いつつリスク管理=本人を管理する事について想い描いてきた。

なので「リスクを回避する必要性」を説く人たちを警戒してきた。
しかし、現実に起こってくる事柄はたくさんあり、私の中にも当事者に抱え込ませているリスクを回避する事を考えなければ先が続かないと思い、悶々としながらも、回避が管理にならない事を意識しつつ考えてきた。

リスク回避の行き過ぎが本人管理につながるという点については何と整理すれば良いのか?
どこまでが回避で、どこからが管理なのかという明確な線引きはできない中、慎重にしなければならないと想い描くにとどまっていた。

しかし、
リスク回避の行き過ぎが本人管理ではなく、
そもそも、
リスク回避とリスク排除は違うのではないかと言う事を想い描き始めている。

例えば、
電車が好きな当事者と電車に乗りに出かける。
何も問題がなければ、その人の能力として周囲から称賛される。
しかし、一度大きな失敗をすると、
たちまち、周囲は彼が一人で電車で出かける事に躊躇する。
事の内容によっては、乗る事を許可しない。
一人で黙って出かけていくなら、外出さえも許可しなくなる。
という事があったりする。

リスクは失敗をする前も後も同様にあるのに、一旦失敗してしまうとリスクのみが強調され
それを回避するために、電車に乗らない事を求める。
そして、電車にさえ乗らなけれあ失敗は招かない。
しかし、それはリスクの回避したのではなくリスクの排除。
リスクを排除するために、好きな電車に乗れなくなってしまう。
もし、好きな電車に乗れなくなってしまったことで、新たなリスクが生まれるかもしれない。
その新たなリスクも排除し続ければ、結局は「地域では暮らせない人」になってしまう。

例えば、
一人で出かけての失敗だからどうしても本人にその失敗の原因を求めてしまう。
しかし、もしかしたらその時であった人の側に問題があったかもしれない。
(例えば、駅員に邪険にされたとか、間違って買ってしまったキップを咎められ対処できなかったとか)
再び起こるかもしれないリスクは、一度失敗すればリスクばかりが目についてしまう。
でも、リスクはリスクとしつつも、それを排除するのではなく、
リスク以外のうまく回っている事を明らかにし、うまく回っている事を強調する事でリスクは下がる事もしばしばある。

このケースの場合には、
ガイドヘルパーを使い一緒に出かける事で、
何が失敗の原因だったかを実際の場面で周囲が知るという事もあるだろう。
失敗しないための方法を当事者と一緒に考える事もできるだろう。
当事者の存在を相手に理解してもらうという事もある。

リスクをは排除する事とリスクを回避する事を明確に分け、
後者を求めるのであれば、
それは何も本人だけの問題とせず、様々な人とのつながりも含めて課題とし、
リスクを下げていく事は、いろんな手立てが各々の当事者に対してあるように思う。

リスク回避ではなく、リスク排除を求めていたとしたら、
リスクを排除するとともにリスクでない面も同時に排除する事になってしまう。
それに応じるか応じないかと言う話になって、
応じないならば、次なるものを提示するか提示できないかになり、
提示できないとなれば、あきらめるしかない。

リスクを排除するのではなく、リスクを回避するとは、
リスクとも付き合うという事であり、
それは支援の側にいるととても面倒な事だけど、
リスクと折がついた時には、新たな当事者との展開が始まっていく。

そんな事をあれこれ想う今日です。



posted by 岩ちゃん at 12:55| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月27日

先をつなぐ支援と先を描く支援

障がい当事者たちの多くは、どうも「先をつなぐ支援」ばかりを与えられているような気がする。

「親亡き後」というのは、まさに「親が亡くなった先の支援」
又、
支援学級や支援学校をすすめる人たちは「子どもの将来を考えて」と先へとつなぐために今を支援(教育)する。
又、
支援計画というものも、1ヶ月も先の予定まで立てる。
年単位の本人目標を立て、それに対する支援を立てる。
そこで、「1年後に放浪の旅にでたい」等と当事者がいっても誰も聞き入れず、
「その後はどうするのか?」と聞かれ、
たとえ「煮詰まっているから旅にでて色々見聞したい」といっても、
「それでどうするのか?」と言われて閉ざされるのが落ちだと思う。

私たちも、将来を見越して取り組むことはある。
でも、結果方向転換することはある。
思い描いていたことと実際とが違うことはしばしばあって、
それでも継続するか?やめにするか?と考えつつ、判断することもある。

でも、当事者たちは止めする選択は、周囲が了解した時のみで、
本人がとりあえずやめにしたいといっても、「それでは先につながらない」から否定される。

発達保障論なるものは、
日々発達する子ども達に対し、日々の発達に応じた支援の必要性を解く。
でも、
ことさら発達することを強調されては息が詰まるし、
私たちの場合、振り返ってみれば確かに発達(成長や変化)しているが、それは後付で気づくことがしばしばある。

でも、当事者たちはリスクの方にばかり目がいき、何が起こるかわからない将来に対し常にその先その先を考えさせられるし、又そのための支援ばかりがあてがわれる。

では、当事者自身が「先を描く支援」というのはどうだろうか?
何を考えているかを明らかにすることが自体が困難た知的当事者たち。
表現しても聞き入れられない重度知的当事者たち。

彼らにも、先を描くことはあると思う。
でも、先につなぐ支援ばかりがあてがわれ、
先を描くための支援がなされない。

先を見通すのは周囲の人々。
本人に代わって見通すこともあるだろう。

それはそれで、必要な場面があるかもしれないが、
それにもまして、当事者自身が先を描く支援をもっと考えても良いのではないだろうか?

それは、決して周囲の人が納得行くものとは限らない。

何をどのようにすればそういう支援ができるか?
私には皆目検討がつかない。

それでも、当事者たちが先を描く支援というのはとても重要だと思う。
posted by 岩ちゃん at 18:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月26日

地域福祉権利擁護事業は、成年後見制度の補完事業ではないと思う

今日、某市の社協に出かけ地域福祉権利擁護事業を担当する職員と話をしてきた。

事の発端は、一人暮らしをする重度知的当事者の金銭管理を巡る話から。
日常的な管理や通帳等の管理は私が担っているが、第3者の目が必要と感じている私としては、
行政の間違った指摘をきっかけとして、なんとか切り開けないものかと思って出向いていった。

某市の者教職員。
当事者が一人暮らしをする際にいろいろ尽力いただいた方で、その後数ヶ月前に事業の担当に異動となった方。
なので、知的当事者の自立生活に背を向けようとする人たちが多い中で、信頼をおいて話ができる方です。

どの方との話。
制度を仕切る側としては、どうしても制度の枠組みの中でしか展開できない。
「利用の対象は」「事理弁識能力がない方は」「事業の中身的にはそこまでやれない」と言うネガティブな発言が続く。

それに対し、「でも現実必要となる事柄なんだからどうにかしないといけない」と私がいえば、

「成年後見制度の被後見相当の方なので、そちらを利用しては?」と言う。

私が現状の後見制度には様々な問題があるので、現段階で使うつもりはない事を知っている担当は、
ある程度把握している問題点について、あれこれボジティブな改善方法をあれこれ言う。

でも、権利擁護事業と同様に改善できていないわけだから、後見制度の話ではなく後見制度と同様に権利擁護事業を改善していく事を求める私。
そして、それは後見制度とは違い実施者として上部団体にものを言える立場にもいるわけだから頑張って欲しいとエールを送る。

そんなやり取りの中でできてきた話。
「地域福祉権利擁護事業は、成年後見に至らない人たちや被保佐人や被補助人となった人が、保佐人や補助人では担いきれない面を担う事業」と言う。
又、「現状成年後見に至らない方も年齢とともに成年後見になっていくと思う」と言う。
すなわち、地域福祉権利擁護事業は、成年後見制度を補完する事業であって、本道は成年後見制度の方と言いたいらしい。

でも、そうだろうか?

彼は「成年後見制度の隙間を埋めるのが地域福祉権利擁護事業」だという。
それに対して私は「地域福祉権利擁護事業は、成年後見制度の入り口であったり、成年後見制度の前にある制度だと思う」と切り返した。

成年後見制度は、後見・保佐・補助という類型がありながらも、
様々な理由から制度利用者の7割(未確認)が後見申請をするらしい。

自らの権利を人に委ねることで自らの権利を守る成年後見制度。
何を人に委ねるかを一つ一つ検討し決定していく保佐や補助は、何かと面倒で、
先々何が起こるかわからないから一様に後見で申請する事をすすめる周囲の状況。

まさに白紙委任状を欠かされるのが後見申請ではないかと思えてくる。

でも、実際暮らしの中では様々な事が起こる。
思わぬ事態に遭遇し、先が閉ざされようとする場面もあったりする。

だからといって、白紙委任では恐ろしい。

そこで、
地域福祉権利擁護事業の登場。
後見相当の人であってもそうでなくても、とにかく本人にとって必要な支援がどこにあるのか?
本人だけに委ねると奪われてしまう権利が何かを、当事者や支援者と一緒になってやりとりしてみる。
その中で、本当になんともならないものは成年後見制度を使っていく。

そうする事で、
被補佐・非補助人相当の人も、一つ一つの事柄について実生活の中から考えるきっかけになる。
又、非後見相当の人も全部まとめてではなく、その人その人にとって必要なことを確認した上で後見申請(後見申請と思っていたけど、状況の中で保佐や補助申請にする)ということにも繋がる。

意思決定支援の必要性を国が言い始めている。
しかし、その内実は成年後見制度の利用。
そして、ややこしい当事者と向き合うのではなく、後見人となった人とやりとりしようとしている。

後見人となる人は、人の暮らしの全体を一人で把握することはできず不安になる。
でも、その必要性を感じ引き受けるのだろうが、実際当事者の暮らし全体には関わりきれず、
結果書面上の話や数字の管理に追われる。

でも、
もし、地域福祉権利擁護事業がその前にあり、そこで培った様々な関係や様々な課題を担ってきた経験者たちとつながり後見を担うならば、
どれほど心強いことか。

社協の職員は、
「銀行から預金を引き出そうとする時、本人に委託されたといってもあなたは何者?って顔をされる場面があったりする。」
「各銀行機関に地域福祉権利擁護事業の存在を周知するように務めているがなかなか厳しい」という。

だから「後見制度で」ではなく、
まさに、個々の当事者を支援している状況を様々な人が理解し地域で暮らすための福祉を充実していくことが必要。
「後見人です」と言う書面一つあれば事足りるというものではなく、
「後見人」と言う立場の人でなければ、許されない様々な状況を明らかにし、そこで生まれる課題を様々な立場の人達と考え解決していく。

地域福祉権利擁護事業は、
すでに明らかになり形ある権利の保障だけではなく、まだまだ課題として認められていない事柄を個々の当事者とともに明らかにし、
明らかなになった課題を様々な形で解決していく事業としてあってほしいと願う。
そのために、社協という場が事業委託しているとも私は考える。

そして、
「いづれは成年後見制度で」ではなく、
様々な課題を様々な人と解決する中で、
当事者の権利を「委託する」成年後見制度ではなく、当事者の権利をともに守る権利擁護事業の充実と利用の広がりに期待している。

とりあえず、
職員の方は、
他の社協の利用実態を調べる中で、課題の抽出から始めていきたいということで、
前向きな話しにつながるだろうと思って時間もないので話を終えた。

posted by 岩ちゃん at 13:08| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする