2013年08月10日

昨日の出来事 〜落ち着いているからこそ、その原因を考える〜

昨日、一人暮らしをしている自閉を伴う重度知的当事者の支援会議があった。関わる事業所の人たちと日々の様子や対応等を話する。

この一ヶ月の様子を伺うと、
「概ね落ち着いている」と言う報告。
当事者の彼が、落ち着いていない時は関わる事業所の存続が危ぶまれるほど激しいので、
「概ね」であっても「落ち着いている」というのは、本当に嬉しい報告であり安堵をうむ。

彼が落ち着かない時季は、皆懸命にその理由や対処を考える。
自分が担っている場ややり取りに問題がないか?だけでなく、
その前後や一週間・一ヶ月に渡る連続性の中で本人を理解することに努め、
様々な手立てを真剣に考える。

何らかの手立てがなければ、事業所の存続が危ぶまれるから必死になる。

しかし、
落ち着いているとさほど考えることがない。
と言うか、それ以前の大変さをこの時期に一息つくと言う感じ。

でも、
こういう時だからこそ、あれこれ考えてみる。
「彼はなぜ落ち着いているのか?」
「なぜ、こだわり行動が収まったのか?」
「どういうところで喜んでいるのか?」等々。

そこが見えてくると、
再び落ち着かなくなった時に役立つ。

大概は、何かに混乱した結果として激しい行動を起こしている彼。
何に混乱するのか?しやすいのか?

それは、混乱している時期をみて、落ち着いている時期を見ていくことで混乱要因を明らかに出来れば、
再び混乱し暴れだしても、ひたすら抑止するだけではない違った対処ができるように思う。

そんな事を考えつつ、
各事業所の報告を伺い、
どこに何があるのかを考える。

結局明確なものは何もでないけど、
そういうことを意識しつつ、長い年月をかけてやり取りするしかないのだろうと思った。



posted by 岩ちゃん at 10:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月26日

被後見人の選挙権が回復したなら

先の参議院選挙から「被後見人の選挙権が回復した」らしい。

「らしい」というのは、裁判で勝訴したからその時期がいつからなのかを調べあぐねていたのと、
そもそも、私が日々付き合っている重度知的当事者たちは後見制度を利用していないので、選挙権が奪われる事実がなかったから。

で、
実際どのように選挙権が回復できたのだろうか?
後見制度を利用していない側としては、
実際の投票に至る様々な事を日々悶々と考えているので、
具体的に選挙権が回復した今、どのように支援を受け、自らが選んだ人に投票できたかが気になっている。

そして、それ以上に気になることは、
選挙権が認められたなら、その他の当事者の意思も認められて当然だということ。

ところが、
保佐人や補助人に課せられる「同意権」というものは
後見人にはないという。
後見業務として、保佐人や補助人は裁判所を介し、「同意権」「取消権」「代理権」というものが取り決められる。
それも、具体的に決められるので決められていないものは、すべて本人のものだから保佐人や補助人であっても手が出せない。
それは、後見人も同じだろうと思っていたら、
「同意権はない」と聞く。
そもそも「本人には意思がない」わけだから、「同意」することもない。
そして、「取消権」や「代理権」も本人の意思に基づき取り決めるのではなく、後見人になれば「もれなくついてくる」らしい。

そんな状態の成年後見制度。
選挙権が認められたということは、「本人の意思」が認められたということであり、
それは単に選挙というだけではなく、意思がある人として存在しているわけだから「同意権」というものもあって良い。
そして、保佐人や補助人と同様に、事細かく取り決めていく必要があると思う。

でも、そんな動きは聞こえてこない。
「選挙の方法は?」「不正投票が行われないように」等と言う投票支援の話はそれなりに聞こえてくるも、
「本人の意思・決定権が回復した」という話は聞こえてこない。

ところが、
成年後見制度が意思決定支援の切り札のような話は高まっているように思う。
「懸案だった選挙権が回復したのだから、皆さん安心して成年後見制度を活用してください」と言う感じで。

私は、重度知的当事者にだって本人の明確な意思はあると思っている。
ただ、本人にとって明確であってもそれを受け取る私たちの側に様々な課題があり、
その課題が解決できていないから本人の意思が理解できないと考える。

そもそも、
成年後見制度では被後見人となる人の意思というものは、すべて後見人に委ねられている。
私自身は成年後見制度を否定していないが利用を勧めないのは、特定個人の判断がその人の意思とされてしまう点が大きい。

なので、
「選挙権を認める」=「本人の意思を認める」⇒「認めたなら、その意思が明らかになるための支援」を考える必要がある。

その辺り、
どなたか展開されていないだろうか?

情報がありましたらどうぞよろしくお願いします。

posted by 岩ちゃん at 17:18| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

本当に予定外の事には苦手なのか?

昨夕、事務所を留守にしようとしたタイミングで、自閉を伴う重度知的当事者が訪ねてきた。彼は、毎週決まった行動として事務所にやって来る。
昨日も、ヘルパーよりもはるかに早く自宅から事務所にやってきた。

自閉症と言うことで、一つの決まったパターンとして毎週事務所に来ているといえる。
事務所に来れば、しばし休んだ後にコーヒーを入れて飲んだり、事務所を拠点に買い物に出たり入ったりする。
そこに思わぬことが起きるととても激しく暴れまわるということも過去にあった。

そんな彼が、ちょうど出かけるタイミングでやっていた。
その彼に「ゴメン!これからみんなでかけるので、あと10分したら(事務所を)出てね」と伝える。
本人はあっさりと「はい!」と応え、その時を待っているかのように思えた。

ところが、
その時間になっても出る気配がない。
言葉よりも視覚で伝える方がわかりやすいだろうと、
私がカバンを持って出ると、中から鍵を閉められた。

ベルを鳴らすと開けてはくれるが出ようとはしない。
先方との約束の時間が迫る中、少々焦るも、
彼がでない理由は、「事務所でコーヒーが飲みたい」という要望があるから。

でも、そうは言ってもと言う感じで、始めは「ゴメン!そろそろ出てね」
「ゴメン!もう行くから出てよ」などと声掛けする。
でも、出ようとしないので、

そこで玄関の外から「コーヒーが飲みたいんでしょ!だったら早く(作って)飲んでくれる」といってみた。
すると、「はい」と言って再び鍵を閉められる。
こちらは鍵を持っているので締め出されることはないが、
ドアをノックしたりベルを鳴らしたりしつつ、本人の様子を伺い、
再び「コーヒーが飲みたいのは解ったから早くしてね」と伝えると、
鍵を閉めることはなくなり、懸命にコーヒーを作っている姿がそこにあった。

そして、出来上がったコーヒーを懸命に早く飲み干そうとする彼がいて、
飲み終わるとすぐに外に出てきた。

そして、私は「ごめんね〜。急かしちゃって」「ありがとね!」と言って鍵を閉めた。

そこに彼が暴れる姿はなく、ニコニコしながらお互いエントランスを出てサクサクと別れました。

「何時何分のバスに乗って」
「所持金は◯円持って」
「帰りのバスは◯時◯分」ということまできっちりと決めている彼。

今日、突然事務所にいられなくなるという段取りはない。
でも、すんなりとこちらのお願いに答えてくれる彼。

私たちは自閉の人たちのこだわりにこだわり、暴れだす相手には予定外の事を求めないよう最新の注意を払ってやり取りしたりする。
でも、今日の彼を見ていると、それだけだろうか?

彼の要望(コーヒーが飲みたい)をこちらが理解し、
こちらの要望(これから出かける)をきちんと彼に伝え、
お互いの要望の中、その折り合い(早く作ってサクサク飲んで外に出る)を見出す。

それができれば、なんてことはない話しだし、
予定通りでなくても良いのかもしれない。

ただ、
今回はお互いわかりやすい要望だったので上手く折り合えたと思う。
でも、いつも上手く折り合えるわけではない。(実際には折り合えない方が絶対数多い)
だからといって、こちらの要望(予定の変更)のみを押し付けるのではなく、
折り合う事を常に忘れないようにしたいと思った。


posted by 岩ちゃん at 08:00| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月18日

重度訪問介護へ先行切り替え?

先日、相談支援事業所の相談員から、「身体障害者手帳を取って、重度訪問介護に切り替えたら?」と言う提案を受けた。
「市の職員も重度訪問介護になったら、(時間数の確保に)頑張るみたいだよ」とも言われた。

重度知的当事者で身体的な障がいもある当事者。
重度知的と言う事で療育手帳は取得しているが、身体障害者手帳は取得していない。
よって、現段階では家事・身体介護・移動と言う類型で居宅介護を受けている。
身体的な障がいだけ取ってみれば、重度訪問介護は利用できないけど、
「その合わせ技で行政は、身体障害者手帳を取得すれば重度訪問介護の支給も可能」と言っている。

ならば、
すぐにでも身体障害者手帳をと取得して重度訪問介護の支給をしてもらうと言う手もありかと思う。

しかし、躊躇する私がいる。

なぜならその手法は、「彼に限って」と言う手法でしかないから。

それでも、本人の支援を考えれば重度訪問介護に切り替える事は、本人を思えば思うほどありだと思う。

しかし、
重度訪問介護がまもなく重度身体当事者以外にも対象を拡大しようとするこの時期、
その実施のタイミングをもって切り替えるというのもありかと思う。
それはその時期、具体的に行政とやり取りしながら当事者自身(実際は支援者たち)が重度訪問介護を使いこなしていくためのやり取りをする必要があるからと思ったりする。

そのためには、
今の時期、各事業所が様々な類型を組み合わせて自立生活を支援している状況下をきっちりと体感し、
何故、重度訪問介護が必要なのかを意識できる経験を積んで欲しいとも願っている。

「そんな考えは、支援者の勝手だ!」と言う声もある。
確かに個々だけを見れば、当事者の暮らしを支援の展開のために使っているように私自身も思う。

でも、
私は私なりに、他の部分(例えば、支給量を上回る派遣とか、事業所派遣では認められない支援を担ったり、本人が関係する団体や各機関との連携等)で「支援の勝手」の穴埋めをしている。
それにあぐらをかくつもりはないけど、至らない支援者のとしての取り組みを当事者に許しを乞いつつ、先々の暮らしが成り立っていくことを願い取り組んでいる。

と言う事で、
まもなく重度訪問介護が重度身体当事者以外にも対象を拡大されようとする中、
先行切り替えをしない分、真剣にあれこれ考えていきたいと思う。
posted by 岩ちゃん at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月12日

重度知的当事者の生活費の管理

重度知的当事者のお金の管理は非常に難しい。
本人が計算できないとか計画的に使えないと言う問題も大きいが、
実際に動くお金を誰が、どのように、管理していくのか?と言う問題について考えてみたい。

というのは、先月下旬生活保護担当者から「預金通帳と出納帳を見たが、不明なお金があるので説明して欲しい」という連絡があった。
「不明ってどういうことですか?」と聞けば、
「不明な収入がある」との事。

「不明な収入?」「そんなものはあるはずがない」と思う私は、電話で説明を求めたが、
「これは、生活保護費に関わることなので、電話でやり取りできるものではないし、資料を作ったので役所まで来て欲しい」と言われた。

一旦一番近い日で時間が取れる日を調整した。
しかし、その日急用が入ったため、「今日は急用のため行けなくなったので日を改めて欲しい」と連絡をいれた。
すると「私としてはきちんとした説明さえしてくれれば良いので、来てもらわなければ困る(大変なことになる)」と言う。
私としては、まったく身に覚えのないことであったが、
知的当事者が自立生活を始める時には、お金の事もさることながら他にいろいろやらなければならない事柄があるため、
何らかのタイムラグがあったかもしれない。
又、ドタバタしている中で保護費が支給されるまでの期間の生活費を建て替えたのを忘れていたかもしれないとあれこれ考え伝えた。

「そんな額ではない!」「電話では何だからとにかく来て欲しい」とその口調は、「もし報告していないお金があれば返還してもらう」という勢いに受け取った。

それでも、身に覚えがない私。
忙しさもあって何ら記録を確認することなく役所を訪ねた。

担当者が作成した資料を見ながら説明を受ける。
職員「この◯万円のお金は?」
私「これはたぶん、当時ドタバタの中申請から保護費支給までの間お金がないため立て替えたお金だと思う」
職員「なるほど、でもこちらは?そんな額ではない」と言う。
まったく身に覚えない私。
職員「ねぇ。あなたがきちんとしていないとあなたが疑われるのよ」
「あなただけではなく、あなたがやっている会自体が疑われるとたとえ良い働きをしていても全部否定されるのよ!きっちりとして!」
「疑っているわけではないけど、こういうずさんな管理にならないためには成年後見制度とか権利擁護事業を使うとかしないと」と言われた。

まったく身に覚えがないけど数字としては出てきているわけで、こちらも気持ちが悪いので真剣に確認し明らかにすることを約束。
そのために、「生保申請時の現金と預金の金額を教えて欲しい」と伝える。
すると職員は自席に戻り資料を探す。
そして帰ってきた時。
「ごめん!私が間違っていた!ごめん!」
「初めに現金で渡した保護費が月をまたいでいたので、もう一つの方を確認していなかった」との事。

すなわち、記帳されていた入金額は、開始月とその月末に翌月分とを足した額で、私は保護費を受け取りまとめて通帳に入金した額と一致した。
私も、入金した額の横に「保護費◯月分」と書いておけば良かったのだけど、その他の収入は入金先が印字されているので書き込むことを忘れていた。

あらぬ疑いをかけられ、半ば「不正があれば返還を求める」勢いで言っていた職員。
私も当事者からお金を預っている立場。そして、私はお金の管理が非常に苦手。何か間違いがあるかもと自分を疑ってしまう。

だからといって、後見人をつけるということはそれ以上に本人の暮らしとかけ離れてしまう危機感を抱いている。
又、委ねられる他の制度があるわけではない。
結局苦手なお金の管理を自分がやるしかない。

公正さを求められる時、私も同様に思う。
しかし、公正さを担保に当事者の暮らしを制限される状況を幾度も見てきた私。
どこか、私が責められても本人の利益は守る。と開き直る。
でも、私一人が開き直っても、私がいなくなればどうなるのかとも考える。

とりあえずとりあえずと進めているが、何らかの形を作らなければならないと思うが、いろんなジレンマがある。

そんな中で、以前から考えていたことは、
権利擁護事業が活用できないか?と言う事。

本人の資産を預かり必要に応じ、当事者の状況においてお金の出し入れをする。
その利用について求めたことも過去あるが、
そのためには「契約」が必要となり、「重度知的当事者の場合は契約能力がないため、権利擁護事業は使えない」「重度知的当事者の場合は後見人を使って」と言われてきた。

でも、
大きな資産があるわけではない、「生活保護・年金・手当」といった月々の収入は決まっていて、
その範囲でやりくりするしかない人の場合、
後見人でなくても日々のお金の管理はさほど難しい話ではないはず。

「家賃・光熱費」を自動振込みにし、不測の事態に備え月々残しておくお金を決め、
残りを日々の生活費にして、日常を担う支援者に渡して管理してもらう。
月々貯まったお金の使い道は、支援会議やモニタリング会議等でみんなで検討して使う。
そんなところで、それぞれがそれぞれに管理しあう。
日々のお金の管理は、複数事業所からヘルパーが入っているので、お互いがお互いおチェックできる。
(日々管理していて、不正ではなく単に帳面へのつけ落ちなどが他のヘルパーのい指摘で気づく経験多数)
万一不正が何処かにあってリスクはこれでかなり回避できる。

何も、後見人がいなくても回せるし、後見制度の他の不具合を考えると見軽にかつ間違いなくやり取りできると思う。

生活保護担当者から帳簿と通帳のコピーを求められた時、一瞬行政にその管理をお願いすればと思い、
帳簿と通帳のコピーの提出に応じたけど、
支給している側が当事者のお金をチェックするということは、他者にチェックをお願いするのとはわけが違うと今回の出来事で解った。

なので、
私に対し謝罪する職員に対し「これを機に、重度知的当事者に対しても権利擁護事業が使えるよう行政サイドからの働きかけを」と言い、
役所を出て事業を担う側に対して「ぜひとも実現して欲しい」と伝えて帰ってきた。

その結論については、又後日。

※重度知的の方で、後見ではなく権利擁護事業を活用されている方がいましたら、ぜひ情報をください!!

posted by 岩ちゃん at 18:31| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月05日

「確認すること」

皆さんは当事者から
「今度大会には◯◯さんと一緒に行きます」と当事者からメールが来たらなんと捉えるでしょうか?
なんと返事をするでしょうか?

多くの人は、「へぇ〜。良かったね!!」と送り返すのではないでしょうか?

それは「行きます」という言葉から「事が決まって良かった」と言う思いだからと思います。

でも・・・
本人は決まったことの報告としてメールを送っているのではなく、
「(私の希望としては)今度の大会には◯◯さんと一緒に行き(たいと思ってい)ます」だったとしたら?

人と人とが約束をするということには、様々な手順や判断が伴う。
(相手の様子も含め)情報をを集める事や提案し合う中で調整するといったこともある。

それはなかなか難しいことなのだけど、
私たちは、その手順というのをなんとなく理解しているので、親しい仲であればあるほど様々な事を端折って結果を導き出している。

例えば、
先方と始めてやり取りする時、その相手が有名人であったり忙しい人であったら、それなりの丁寧さをもってお願いする。
又、まったく見ず知らずの人からお願いされた時には、相手が何者かも含めやり取りした上で、本題へと入って行ったりする。
又、間に人を立てて事を進めるということもあったりする。

それは、こちらの想いや状況とあちらの想いや状況が見えない中、手順を踏んで距離を縮め事の実現に向けて丁寧に一つ一つをクリアしていると思う。

では、
知的や発達の当事者たちの場合はどうだろうか?
相手には、状況や想いやその中での判断があると言うことが、理解し難いという人はしばしば見かける。
その中で、まずは自分の側の想いや意見を伝えることから始めると言う人たちがいる。

先のメールについても、
そんな想いで出したことかもしれない。
又、「私はそういう希望なので、その調整を手伝って欲しい」ということかもしれない。

その事を確認なしに、
「良かったね」と済まされてしまっては、本人はその先へは進めないかもしれない。
又、私たちが勝手に想い描いたように、当事者も「良かったね」の声を聞いたために、「自分の希望が通った」と誤解をさらに上積みしたかもしれない。

そして、
こちらはすでに決まったものとして捉え、
当事者は希望がかなったものとして捉える。
そのような互いが持つ誤解の中で、期日が迫る。

すると、
こちらは、決まっいなかったと当事者を責める。
当事者は、希望を叶えてもらっていた人から責められることの意味がわからず戸惑う。
戸惑う側は方便ができなずに、否定される。

これを繰り返していくと、
周囲は、
「この人の言うことは信用できない」
「妄想癖がある」
「どうせ、言っているだけだから」
等と、その人の存在の評価までしていく。

でも、
先のメールに対し、
「それって、決まったことなのかな?あなたの希望なのかな?」と確認してみる。
「決まったこと」というならば、相手にも確認してみる。
相手が「そうでない」と言うならば、
再度、「相手は、あなたと同様に受け取ってはいないみたい」と伝え、
「その人に言って欲しいのかな?」と確認してみる。
一つ一つを確認して行くことで、誤解を最小限に抑える。

「希望です」となれば、その希望に即した対応も可能となるし、
先方が無理となれば、次の代替え案を提案し当事者と詰めることだってできる。

私たちは、暗黙の了解や無意識の確認をしている。
でも、まったく見ず知らずの人や例えば外国人だったら、その人の背景や文化に至るまでどこか確認しながら事を進めたりする。

まったく私たちと違う世界観の中で暮らす知的や発達の当事者たちとのやり取りは、
まさに、暗黙の了解として進めるのではなく、私たちの側が無意識に確認していることを意識的に確認する等、
一つ一つやり取りを積み重ねなければ、事が先に進む中で大きな誤解となり、
誤解の原因がお互いの関係の中にあったとしても、私達の世界観とは違う少数派の方を一方的に否定する。
さらに進んで、その人の人格さえも否定してしまう。

そうならないためにも、
一つ一つの事柄について互いに確認しあっていくことがとても重要だと思う。

ただ、問題なのは、
そういうことをどこか日常的に想い描き実践していると、
いわゆる一般の人からは、「岩ちゃんはくどい」「「しつこい」といわれるのでなんともややこしい。

posted by 岩ちゃん at 08:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月04日

「混乱」故に暴れるなら、「暴れる」ことより「混乱」を明らかにしてみる

突然バタバタ落ち着かなくなってしまう当事者。何が何だかわけもわからない中ひたすら静止することに努める介助者。

自閉症の当事者たちの世界観はまったくといっていいほど解らない。
解らないけど、私たちと違う世界観があり、
その世界観の違いから意味もなく「バタバタ落ち着かなくなる」というのではなく、
何らかの「混乱」が彼を襲っているのだろうということだけは最近ようやく理解できるようになってきた。

でも、
何に「混乱」しているのか?
「混乱」の中身事態は未だ解らない。
解らないままでは、「混乱」が「大騒動になる」事もあり、「止める」ということしか手立てがなくなる。

そんな事を繰り返していては、生活が成り立たないから「混乱しない状況を作る」ということが大きな課題となることは何となく解る。

でも、
限定された人との関係や限定された空間だけで過ごしているならば、
「混乱要因」を「排除する」ということも可能だろう。

しかし、
地域で暮らす当事者たち。
いつ何が起こるかわからない。
当事者自身がきっちり段取りをして外に出て、
介助者も「混乱する場面」を避けて道を選び出かけ先を選んでみても、
「ばったり」人に会うことはある。
お店が臨時休業することもある。
いつも買っているものが品切れということもある。

「何が起こるかわからないから人生は楽しい」などという想いは、
私自身もそう思うのだけど、「何が起こるか解らない」のは自閉の当事者たちにとっては一番不安で辛いことなんだと感じる。

それでも、地域の中で暮らし続ける当事者たち。
安定さだけを求めれば施設入所の方が良い。
でも、様々な出来事や様々な出会いの中で、当事者たちは自らが自らの世界を広げている。
その姿を感じれば、施設入所なんて違うと思う。
すごく大変な想いをしつつも、懸命に暮らすことの凄さを感じる。

突然ドタバタ暴れだす当事者。
そのちょっと前までごきげんだったのに・・・

突然暴れだした事を止めるのも必要なんだけど、
その理由が「混乱」にあるとするならば、何に「混乱」しているのかを探る。

突然暴れだした時の共通項を探ったり、その後落ち着く時の共通項を探る。
何度も何度もその人とやり取りしたり、他者のやり取りを見て取ったり、
こうかもしれない。あぁかもしれないと試してみたり。

「混乱」の中身を探ってみると・・・、

自分の前を横切る人が
「ちょっとごめん」と横切った。
「ごめん」という言葉が、
「ごめんなさいと言いなさい」と迫られていると想い描き、何を謝らなければならないのか混乱している当事者。

「手を洗わせて」という人に、すんなり譲るも
その人が手を洗いは終わった途端にバタバタする当事者。
「手を洗わせて」には了解できたけど「それがいつ終わるのか?」と混乱した?

「用があったら言ってください」とヘルパーがいうと
「用事を作らなければならない」「でも用事がない」どうしようと混乱した?

などなど。
こちらは露とも思わない事柄に混乱する当事者。
露とも思わないから気づかない。
見えるのは「暴れる姿」のみ。

でも、混乱が混乱でなくなれば・・・
「そこ通して」「ありがとう」
「手を洗わせて」「終わったよ。ありがとう」
「〈用があったらではなく)これやりますよ」だったり、

混乱しなければ、
暴れる必要もないし、暴れる人でなければ余裕を持って付き合える支援者たち。

確かに止めることも必要なんだけど、
暴れる必要のないやり取りが自分たちに求められているのだろうと思う。

でも、
その答えは、なかなかでない。

posted by 岩ちゃん at 09:00| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月03日

一本100円か二本で100円かを選択する

当事者と一緒にドライバーを買いに行った。

100円ショップに行くと、
1本100円のドライバーがあり、プラスとマイナスを買うと200円。
「これにしましょう」と言ってかごに入れると、
隣りに2本セットで100円の物があった。

何がどのように違うのかを見比べる。
1本100円の方は、先にマグネットが付いているのと持ち手がラバーになっている。
2本100円の方は、マグネットはついていないし、持ち手は木になっていた。

使い勝手を考えると前者の方が良いと思う。
そうそう使うこともないので、安さを取れば後者。

本人は、重度の知的当事者のため自分でドライバーを使うことはないし、
使い勝手も解らない。
なので、安い方を選ぶということもあるだろう。
もしかしたら、介助者に委ね自分は関知しないということもいうこともあるだろう。

彼の場合は、
迷わず2本で100円の方を選んだ。
その選び方に何の躊躇もなかったので突っ込みどころを逸してそれを買ったんだけど・・・

私の経験上は、
1本100円の方が良いと思う。
自分なら迷わずそれを買う。
でも、そんなにしょっちゅう使うものではないから2本で100円という選択もなくはない。
本人のお金だから、口出しできないとも思う。
でも、使い勝手が悪い物を使って時間をかけるより、使い勝手の良い物を使いサクサク事を済ませるということもある。
サクサク済ませて浮いた時間を別の支援に使うこともあるだろう。
でも、特段別の支援も必要ない時には、時間をかけようが何しようが安い方を選ぶということもあるだろう。

「何を100円ごときであれこれ言うか」と言う人もいるだろうけど、
これが、1万円の物と2万円の物だったらどうだろうか?
「それぐらいのことで」等と言えないだろうから、
「100円」について同じく考えたい。

1本100円か?
2本で100円か?

そこには、様々な選択するための判断材料があって出てくる結果。
又、様々な情報を持って選んだとしても、実際使ってみて「失敗した〜」と思い描けば、
次の時に活かされる。

でも、
様々な判断材料を持ち合わせていない当事者。
情報があっても自らが使わなければ実感が無いので、介助者が「失敗した〜」となっても本人の経験としては入っていかず、
次も同じ物を選ぶかもしれない。

サクサクと介助者が決めてしまえば良い。とも思う。
じっくりゆっくりその場に留まり、本人が納得して選べるような支援をした上で決めるということもあるかもしれない。

さてさて、
自分だったらどっちを選ぶか?
それは、なぜそっちを選ばなかったか?であり、

他人はどういう選択をするのだろうか?
その選択の理由は?

その事をあれこれ考えていくと、
当事者が思い描くこと(思い描けないこと)が何なのかが見えてくるかも。
そのことによって、介助というものの中身が変わってくるように思う。



posted by 岩ちゃん at 14:59| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月16日

昨日の出来事 〜日程調整の支援はまだまだ不十分〜

昨日は、スタッフと一緒に新しくヘルパー登録されたヘルパーさんを連れてケアホームを訪問。言うなれば、ガイドヘルプの営業。

新しく登録したヘルパーを紹介すると言う名目で、ガイヘルをもっと活用してもらうための下心をもって出かけていった。

ケアホームを利用する3人の当事者。
共同生活と言えども個々人それぞれの都合があるだろうと事前に日程を調整し、時間を決めて伺った。

付き合いも長くなったケアホーム利用の方々、ある程度みなさん個々の暮らしを知っているので、
たぶん了承してもらえる曜日を伝え、その中で都合の良い時間を調整し伺った。

あれこれ皆さんと話しを始める。
ここまでは順調と思っていたのだが・・・

実は、3人のうち一人は午後からうちのヘルパーを使ってお出かけする予定が入っていた。
なので、午前中に訪問することにしていたのだけど・・・

私は、彼女のお出かけの時間を気にしつつ話を進めていたのだけど、
その時間になっても出かける素振りを見せない彼女。
話に夢中で時間を忘れているかと思って、
「そろそろ時間だよね〜?大丈夫なの?」と聞いた。

すると、
「お腹が痛くなったので昨日のうちにキャンセルした」と言う。
「お腹が痛い?」そんな素振りもない彼女。
すぐさまそれは「今日の話し合いが気になり、先に自分だけでかけてしまうことを嫌って、キャンセルした」ということだと気づいた。

ケアホームのスタッフの人曰く
「何か都合が悪くなるとすぐお腹が痛くなったりするんだよね〜」
「そうそうドタキャンしていると、ヘルパーさんにも悪いよ」と
たぶん私の事業所のヘルパーさんを気遣ってのこととは思うし、確かにそう思う。

こちらとしては、みなさんの都合を伺い皆さんが揃うところに合わせ、彼女の時間も気にしつつ話を終えようと思っていた。
それなりに彼女にも気遣い、折を合わせたつもりでいた。

しかし、
想像するに彼女としては、
何人もの人が訪ねてくれば、その時間では話は終わらず、自分一人出かけることになるだろうと想像したと思う。
(こちらはそれ以前に話を終えるつもりでいても)、想像そうした彼女としては自分一人が抜けるのは嫌なんだと思う。
又、自分が抜けた後に盛り上がるかもしれないと不安になったかもしれない。

そして、
彼女が取った行動は、ガイヘルをキャンセルすると言う事。
ガイヘルをキャンセルすれば、先の想像は解消される。
又、自分が想像したことをうまく相手に伝えられないし、うまく伝えられない時にあれこれ聞かれると、
結果、キャンセルできなくなるかもしれないと慮り、
「お腹が痛くてキャンセル」と言う方法をとったのだと思う。

「体調不良ならば仕方ないね」と言う経験は何度もしてきた彼女としては、
その日の訪問者と楽しみたい想いを実現するためには、とても有効でうまくいったと思っただろう。

でも、
彼女は知らない。
さらにもっとうまくいく方法を。

すなわち、4人の訪問者と一同に介し話をする機会を昨日の午前中ではなく別の日に設定すれば、
お出かけもできるし、楽しく話もできるということを。

でも、そのためには予定を調整しなければならない。
ケアホーム利用者3人の予定、ヘルパーさんの予定、こちらのスタッフの予定、ケアホームスタッフの予定等々。
彼女でなくてもその調整は大変なことだと思う。
こちら側のスタッフやヘルパーの予定は、あくまでも利用者主導と考えるので、こちらの問題として調整はこちらでできる。
でも彼女には、その区別もないかもしれない。
又、他の人がOKなのに、自分一人が合わないと何を言われるかわからないと思ったかもしれない。
又、きっちりと代替え案を出せなければ、調整は進まない。

そんな事を考えれば、
一つの予定の方を諦めるというのが手っ取り早い。
いや、諦めたなら次はどうするかと言う話になるけど、
諦めたのではなく、二つの内の一つを彼女は選んだんだと思う。

それは、自己選択といえるのだろうか?
たぶんそうではない。
そこには、「調整する」と言う支援がないために、
彼女は選ばざるを得なかったのだろうと思う。

さらに、深く考えれば
そもそも当事者たちは、提供されるものに対しYESかNOの選択しか許されていないように思う。
それが二つも提供されれば、当然二つの提供に対し体一つそれぞれにYESとNOで応えただけなんだと思う。

そこには、「調整」するという概念もなければ、その手法もない。

私は、これまで選択肢を提供することで当事者の自己選択・自己決定が保障されるのだと考えてきた。
それ故に、様々な事柄が障がいの故に閉ざされることに対し、「それもあなたの選択にかかる」としてきたし、選ぶための支援をしてきたつもり。

でも、「調整」すれば、どちらも取れると言う事を当事者自身が気づき、
どちらもとるための「調整」する方法の支援をどこまで担ってきただろうか?

一つの目的に向かって、どちらにするか/どれにするかと言う話は多々あるが、
両方こなすための方法というものはほとんど担えていないと思う。

昨日の出来事。
「なぜ、キャンセルしたの?することないじゃん!」というのは簡単だけど、
そうではない支援を考えると、考えきれていなかった気づいてもいなかった私の側の責任は非常に大きいと思う。



posted by 岩ちゃん at 14:37| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月29日

支援者間が分断されないために

「制度が進むと当事者の暮らしが輪切りにされる」そんな事を重度知的当事者の自立生活支援を担っていると感じる。24時間365日。何らかの支援を必要とする重度知的当事者の自立生活。
重度身体当事者は、24時間の介助保障を求め、長時間支給される重度訪問介護等を自らが使っているので、
「制度が進むと暮らしが輪切りにされる」と言う感覚を抱かないかもしれない。

しかし、意思決定やコミュニケーションに困難さがある重度知的当事者たちにとっては、
24時間支援者が目の前にいても、その支援者に何をどのように伝えればよいか解らなかったり、伝え方が解らなかったりする場面が多い。
言葉と言う道具を持たない当事者たちは、支援者からの質問に「Yes/No」で答えることはできるだろう。
でも、支援の側が質問しなければ、答えようがない。
保留とか、ちょっとだけとか、後にするといったことを「YesかNo」で答える事は非常に難しく、
結局は、その折々に現れる支援者の意図の中で暮らしを余儀なくされる。

ならばと、
支援者間で情報を共有することを求めてきた。
前にいた介助者や後を引く継ぐ介助者とあれこれ当事者のことや支援のことをめぐり、介助時間以上の時間をかけて支援者間でつなげることをしたり、
介助ノートでそれぞれが担っている場面を知ったり、
事業所間で支援会議を開き、お互いの情報交換や支援のありようを共に考えたりもしている。

24時間365日同じ人が支援する訳にはいかないので、そのつながりをいかに持っていくかと長年考えてきた。

しかし、
単につながりを持てば支援者間が分断されず、当事者の暮らしが分断されないのだろうかと考えこんでしまった。

つながろうとする支援者たちの意思や何をもって共有する情報とするのか等々を考えてきたのだけど・・・

今朝、
交代したヘルパーが
「彼と一緒に飲もうと思って昨夜ドリップコーヒーを持ってきて、彼の前で淹れて飲んだんですよ」と。
「でも、淹れ終わったコーヒーかすとヤカンを自室に持って行ってしまったんですよ」と言う。

実はその当事者、
コーヒーが大好き。
以前はドリップコーヒーをよく飲んでいた。
しかし、飲み終わったコーヒーかすの処理に戸惑い、捨てることができなくなり、それが溜まりに溜まって生活に支障をきたすまでになった事がある。
当時、彼の行動の意味が解らず、支障をきたす状況にドリップコーヒーを買うことをやめ、そのことで生活に支障をきたすことはなくなった。

その事を知ってか知らずか、その時代にいなかった介助者は、彼との新たな関係や新たな事柄を求めコーヒーを用意した。

以前とは違い、今は彼が当時支障を来すまでに至った理由が何となく解っているので、介助者にとっての新たな踏み出しは、歓迎しつつ、彼が混乱するかもしれない事柄も伝えることで、事はすんなりと進んだ。

もし、彼が混乱する理由を知らずにただ単に自分との関係だけで介助者が踏み込んだとしたら・・・
たぶん、その後を引き継ぐ介助者は訳の分からない中で、当事者の混乱した状態だけ引き継ぐ事となる。
そんな大変なことになった理由は探るだろう。
それがコーヒーを飲んだことによるとすれば、
「そんなことやめてくれ」となるかもしれない。

誰しも面倒なことはしたくない。
同じ介助に入るならば、穏やかに事がすぎることを望む。
新たな事柄も介助者が納得行くものであれば良いが、納得のいかないことや面倒なこと踏み出したことで大騒動に発展することは自粛する方向に向かうだろう。

それらはすべて、介助者や支援者の手の内の中で当事者の暮らしを組み立てているだけ。
騒動はなくなるかもしれないが、当事者本人の暮らしはどんどん縮小する。

できないこととして諦められれば良いが、諦められないことは違った形で騒動となり、
そのことで、本人が何に混乱し何に行き詰まり、どういった支援が必要なのかが見えなくなる。

情報の共有やともに課題を担うことは常に考えることは必要。

しかし、
一人の介助者が踏み出すことで広がる本人の生活。
生活が広がれば当然混乱することは増える。
増えた混乱をみんなで支援する。
本人の生活が広がっている実感が、更に本人の生活を広げるための個々の介助者の踏み出しを生む。

そういうことを意識しなければ、お互いの自粛の中でことを進め、
一旦事が起こると誰かの責任にする。
責任を問われたくないから「いらぬことはしない」と言う連鎖が生まれ、
同じく支援者の立場でありながら、
当事者と向き合うのではなく支援者間の評価のみに向き合うことになってしまうような気がする。

と言う事で、
「彼と一緒にコーヒーが飲みたくて」と踏み出た介助者はすごいと称賛!!
その後、ドタバタ当事者が暴れたとしても。




posted by 岩ちゃん at 15:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする