2013年05月29日

支援者間が分断されないために

「制度が進むと当事者の暮らしが輪切りにされる」そんな事を重度知的当事者の自立生活支援を担っていると感じる。24時間365日。何らかの支援を必要とする重度知的当事者の自立生活。
重度身体当事者は、24時間の介助保障を求め、長時間支給される重度訪問介護等を自らが使っているので、
「制度が進むと暮らしが輪切りにされる」と言う感覚を抱かないかもしれない。

しかし、意思決定やコミュニケーションに困難さがある重度知的当事者たちにとっては、
24時間支援者が目の前にいても、その支援者に何をどのように伝えればよいか解らなかったり、伝え方が解らなかったりする場面が多い。
言葉と言う道具を持たない当事者たちは、支援者からの質問に「Yes/No」で答えることはできるだろう。
でも、支援の側が質問しなければ、答えようがない。
保留とか、ちょっとだけとか、後にするといったことを「YesかNo」で答える事は非常に難しく、
結局は、その折々に現れる支援者の意図の中で暮らしを余儀なくされる。

ならばと、
支援者間で情報を共有することを求めてきた。
前にいた介助者や後を引く継ぐ介助者とあれこれ当事者のことや支援のことをめぐり、介助時間以上の時間をかけて支援者間でつなげることをしたり、
介助ノートでそれぞれが担っている場面を知ったり、
事業所間で支援会議を開き、お互いの情報交換や支援のありようを共に考えたりもしている。

24時間365日同じ人が支援する訳にはいかないので、そのつながりをいかに持っていくかと長年考えてきた。

しかし、
単につながりを持てば支援者間が分断されず、当事者の暮らしが分断されないのだろうかと考えこんでしまった。

つながろうとする支援者たちの意思や何をもって共有する情報とするのか等々を考えてきたのだけど・・・

今朝、
交代したヘルパーが
「彼と一緒に飲もうと思って昨夜ドリップコーヒーを持ってきて、彼の前で淹れて飲んだんですよ」と。
「でも、淹れ終わったコーヒーかすとヤカンを自室に持って行ってしまったんですよ」と言う。

実はその当事者、
コーヒーが大好き。
以前はドリップコーヒーをよく飲んでいた。
しかし、飲み終わったコーヒーかすの処理に戸惑い、捨てることができなくなり、それが溜まりに溜まって生活に支障をきたすまでになった事がある。
当時、彼の行動の意味が解らず、支障をきたす状況にドリップコーヒーを買うことをやめ、そのことで生活に支障をきたすことはなくなった。

その事を知ってか知らずか、その時代にいなかった介助者は、彼との新たな関係や新たな事柄を求めコーヒーを用意した。

以前とは違い、今は彼が当時支障を来すまでに至った理由が何となく解っているので、介助者にとっての新たな踏み出しは、歓迎しつつ、彼が混乱するかもしれない事柄も伝えることで、事はすんなりと進んだ。

もし、彼が混乱する理由を知らずにただ単に自分との関係だけで介助者が踏み込んだとしたら・・・
たぶん、その後を引き継ぐ介助者は訳の分からない中で、当事者の混乱した状態だけ引き継ぐ事となる。
そんな大変なことになった理由は探るだろう。
それがコーヒーを飲んだことによるとすれば、
「そんなことやめてくれ」となるかもしれない。

誰しも面倒なことはしたくない。
同じ介助に入るならば、穏やかに事がすぎることを望む。
新たな事柄も介助者が納得行くものであれば良いが、納得のいかないことや面倒なこと踏み出したことで大騒動に発展することは自粛する方向に向かうだろう。

それらはすべて、介助者や支援者の手の内の中で当事者の暮らしを組み立てているだけ。
騒動はなくなるかもしれないが、当事者本人の暮らしはどんどん縮小する。

できないこととして諦められれば良いが、諦められないことは違った形で騒動となり、
そのことで、本人が何に混乱し何に行き詰まり、どういった支援が必要なのかが見えなくなる。

情報の共有やともに課題を担うことは常に考えることは必要。

しかし、
一人の介助者が踏み出すことで広がる本人の生活。
生活が広がれば当然混乱することは増える。
増えた混乱をみんなで支援する。
本人の生活が広がっている実感が、更に本人の生活を広げるための個々の介助者の踏み出しを生む。

そういうことを意識しなければ、お互いの自粛の中でことを進め、
一旦事が起こると誰かの責任にする。
責任を問われたくないから「いらぬことはしない」と言う連鎖が生まれ、
同じく支援者の立場でありながら、
当事者と向き合うのではなく支援者間の評価のみに向き合うことになってしまうような気がする。

と言う事で、
「彼と一緒にコーヒーが飲みたくて」と踏み出た介助者はすごいと称賛!!
その後、ドタバタ当事者が暴れたとしても。




posted by 岩ちゃん at 15:17| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月26日

昨日の出来事 〜ノープランのガイヘルは・・・〜

重度知的当事者の親御さんから、「今日一日よろしく」と言われガイヘルとして出かけることは多々ある。
その日のガイヘル時間とガイヘル時に使える費用を預かり当事者とともにお出かけ。

「さて、どこへでかけようか?」と本人と向い合っても行き先は示してくれない。
親御さんから「この子は◯◯が好きだからそこへ連れて行ってくれれば・・・」と頼まれればありがたい。
でも、出かけた先で親御さんが言うほど楽しい所ではなかったりすると、余る時間をどのように使えば良いか?
頭を抱える。

時には、
私自身が楽しいと思えるところに出かけ本人の様子を見る。
時には、
私の用事に付き合ってもらい、当然相手もいつか同じ用事をこなす時の予行演習的に出かける機会を作ったりもする。
時には、
ただただ本人が行く方向へついていくこともあるが、本人は何を求めているのか解らずに時間が終わる。

いろんな提案をしながら、いろんな事を試し、その折々で当事者たちの様子を伺いつつ、与えられた時間を過ごす。

時には、親御さんの都合でお出かけしているだけのように思えてきて、
それなら家に帰ってのんびり過ごそうか?と提案したいところだけど、
家には入れない。

結局のところ、
重度知的当事者の人と出かける時って、どこか本人の想いを探る事はあっても、本人の要望に即してお出かけしていないのではと言う疑問を常に抱きつつ出かける。

なので、私の提案がフィットした時はとても嬉しかったりする。

では、軽度の人のお出かけはどうだろうか?

本人と話はできるし、やり取りもする。
大概は、なにか目的があっての依頼なんだけど・・・

「朝、外でモーニングセットを食べて・・・。後は決めていないけど◯時から9時間のガイヘルお願いします」と頼まれ出かけていった。

男二人で朝ごはん。
それほど会話が弾むわけでもない。
改めて、
「今日の予定は?」と聞いてみると
「う〜ん。決めていない」と言う。
それでもどうにかこうにか話を繋ぐと、
「新宿に行って映画を見に行こう」と言われ、「これはシメタ!!」と思った。

ところが、
何の映画を見るかは決めていない。
私は今上映中の映画に詳しくない。
新宿の映画館なんて知らない。

彼は、以前行ったことのあるであろう映画館に向かってスタコラサッサと足早に歩く。
しかし、ただ今工事中なのか?閉館したのか?
以前行ったであろう映画館がなくなっていて、更に今ある映画館では見たい映画なない。

ならばと、
ネットで映画情報を調べ、とりあえず新宿界隈の映画館を探す。
そして、映画のポスターを見ながら、見たい映画を選び、でも上映時間の関係で、
第2候補の映画に決めて一緒に見ることとなった。

それでも、9時間のガイヘルというは、まだまだ時間を余す。

とりあえず食事。
彼も私も新宿界隈のお店を知らない。
「ご飯にしますか?麺にしますか?中華?和風?イタリアン?お肉がいい?お魚がいい?予算は?・・・」
とあれこれ聞かれるも聞かれること事態煩わしい様子。

こんな時、
重度知的当事者だったら、普段持っている情報から勝手にこちらが決めることもしているのだが、
やり取りできる当事者だと、本人の意向を懸命に聞き出そうとする私。
でも、要望が出てこない。

それは、選択肢が不足しているから。
選択肢の中から決める手立てを知らないから。
選んだ結果がどうなるのか予測がつかずに決められないから。
などとあれこれ詮索し、声をかければかけるほど、
何も決められず。

結局は、よく知っている某牛丼屋を選択。

その後、「どうしようか〜」と言う彼に、
「新宿界隈をブラブラしてなにか面白いものがないか探してみましょうか」と声をかける。
本人は「そうだね」とは言うが、
この面白いものの基準が私と彼では明らかに違う。
明らかに違うことは知っているが、では彼の面白さの基準は解らず、
ブラブラ使用にもぶらぶらできず。

結局彼の後に付いて行くと駅まで戻ることになり、
そのまま帰ってきて、2時間ほど早くにガイヘルは終了となった。

別に無理して出かけることはない。とは思う。
でも、ノープランのガイヘルに何ら提供できなかった自分を後悔する。

でも、本人の要望に応えるのがガイヘル。と言い訳がましく自分自身を納得させる。
でも、私たちだって何の目的もなく街をぶらつくことはあるし、ぶらつく中で発見する楽しみもあったりするが、
そういう楽しみを知る以前の彼は、そんな要望を出せるわけがない。
ならば、そこは支援の方の課題だろう!
と我が身を責めたりもする。

まぁ〜。
映画自体は面白かったようなので、それは良しとしつつ、

ノープランのガイヘル。
あれこれ考えさせられた。

みなさんは
こんな状況の時はどうしているのだろうか?



posted by 岩ちゃん at 08:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月25日

昨日の出来事 〜ズレを目にした当事者は・・・〜

知的/発達の当事者と話していると、こちらの「想いが届かない」と言う場面によく出会う。多弁な当事者ほど、こちらの想いを伝えようとすればするほど話がドンドンズレてくる。

ここ最近、
こちらの想いが「どうにも届いていない」と思った時、
とりあえず、相手の想いを飲み込む事にしている。
それがたとえ自分の納得の行かないことであり、
まさにそのことを指摘したいがために話をしたいと思っていることであったとしても、
とにかく「あなたは、そう想うんだね」と言葉を付け加えつつ聞くようにしている。

すると、いろいろなことが見えてくる。
ただただ、言いたかっただけで、「それさえ言わせてもらえれば後はなんでも聞くよ」という人がいる。
相手が話しているのは、昔のその時点の話で、それを話せたら次の「今の話ができる」と言う人もいる。
自分が言っていることではなく、他の人が言っていたことを言っているだけで、自分自身の意見は別のところにあると言うことがわかったりすることもある。

スッキリ、
「そういうことかぁ〜」と思えることも、相手の話を一旦飲み込むことで見える場合もあるが、
聞けば聞くほどわけがわからない場面もある。
又、変に私も同じ意見と誤解されることもある。

なので、
「あなたは」「そういう想いなんだね」と主語を確認しながら、
私の意見は違っていた時には、「私は」「違うけど」「あなたはそうなんだね」とやり取りする。

そういうことで、
自分は何を相手とやり取りしているかと振り返れば、
相手の想いと私の想いのズレを明らかにしようとしている。
ズレに気づかないまま話を進めても、どこかその先でお互いが行き詰まってしまう。
ならば、想いという目には見えない見えないものについて、
「あなたは」「わたしは」ということで、確認し合いつつ話を積み重ね、ずれていると思えば再度確認しながら修正をかけ(言い方を変え)遣り取りをするめる。

しかし、それはどこか私の方が懸命にズレをなくそうとしているだけであって、
相手はそもそもズレているとは思っていない中、懸命に理解を求め話がずれたまま話をさらに進めようとしたり、そのためますますこちらも何がどうしてどうなっているのかがわからなくなり、
そのうち、いたたまれなくなって「相手は理解しようとしない人」等と評価をしてしまう。

このズレ。
一人では生じない。
二人がいるから生じるもの。
ズレを修正するにはズレに気づかなければならない。
そして、ズレに気づくのは大概は支援の側で、その修正に努める。
ところがそういった一方が担うことは、気づいた側は自らの間違いには気づかない(気づきにくい)。
ズレという双方の関係の中に生まれるものなのに、
相手(当事者)が間違っているとなりがち。

なので、当事者自身も双方の関係の中で話がズレているということに気づいていく事は大切。
お互いにズレていると気づけば、そこからお互いに修正をかけられる。

そんなことを考えるのだけど、
それは、二人で話をしていてもなかなか知る機会には至らない。

ところが、
昨日は3人で話をした。
支援者2人に当事者1人。

大概は支援者2人が一致してで当事者1人に対して話しを展開する。
しかし、昨日は私ともう一人の支援者との話がズレてしまった。

当事者が語ることの意味の解釈をめぐり、
私ともう一人の支援者が違う受け止め方をした。
私も相手も、自分の受け止めたことの正しさをめぐり当事者を意識しないで話を交わした。

自分の受けたことの方が正しい。
それをあれこれお互いに主張する。

ふと気づきと、
当事者は私たち二人の話を黙って聞いていた。
彼も自己主張が強い人なので、彼が黙って聞いている姿に気づいた時、
私は我に返り、
「ねっ!人と人が話をして話しがズレるってこういうことなんだよ」と彼に投げかけた。

すると、次は「僕が話す番」と普段ならなにか言い出す彼なのだが、
この時は、黙ってうなずく彼がいた。

多分、二人が言っている事のどちらかが彼の想う通りのことだったのだと思う。
そして、もう一人の方はそれとは違う事を話していたのだと思う。

それを見た彼は、
そこに「話がズレている」と言う事「ズレるとこういうことになる」というのを実際に目にしたのだろう。

私たちは、「当事者が混乱しないように」と支援者間で事前に打ち合わせをして当事者と向き合うということをする。
当事者にしてみれば、誰に聞いても誰と話しても同じ話ということでは安心するだろう。
しかし、それは打ち合わせをした支援者間のみの話。
地域で暮らしていれば、別の意見に出会うこともある。
別の行動を取る人もいる。
なので、別の意見や行動にであった時、一旦「みんな同じ」と安心した分、そのギャップは大きい。
そして、当事者が描いた「みんな」とは違うものに対し抵抗する。

「みんな同じ意見」なんてありえないというのは私たちは知っている。
でも、
当事者はそういう機会に出会えない。

でも、彼は昨日人はそれぞれ違う見方違う意見を持っている。
それを話し合う時に、お互いがずれた話をしているということを目にした。

そんな彼に気づくと、
私たちは、当事者の個を認めるためにまずは私自身の個を認め、
さらに相手の個を認め、
その中で、いかに個と個の違いを明らかにしつつ、お互いで新たなものを作り出すかを、
当事者も含め積み重ねなければと思った。

posted by 岩ちゃん at 08:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月23日

騒動はいかに次に活かすか?

突然、179円を差し出した当事者。
この後買い物に行くのかと思い描きつつその時を待っていると、
「町田の◯◯◯(コンビニ)に行く!」と要望してきた。
自宅から15分ぐらいのところにあるコンビニ。
お金を預かり、本人が明確に依頼するならそれが要望だと応えるのがヘルパーの勤め。
でも・・・

「町田のコンビニって、その先に行く◯◯作業所に行きたいってことではないの?」と聞く。
「はい!」と言う彼。

実は、彼は過去その作業所で大騒動を起こした。
彼が務める職場の用事で出かけた際、取っ組み合いの状態になり、危険を感じた先方から「彼が今後も出入りするなら契約を切る」とまで言われ、それ以来彼は出入り禁止となっていた。

当時その話しを聞いて、彼にも彼なりの何らかの理由があってのことだと思った。
そして、今回と同様の依頼があった時、
「仕事として出かけるのではなく、生活の場で支援する私とならば話は別」だろうと、その時の彼なりの理由を探る意味も込め出かけていった。
でも、それを知った職場からは、それさえも強く否定された。

彼と私が「出入り禁止(私はあくまでも職務上と思っていたのだが)」出かけていったことに強く抗議される。
でも、
「彼を行かせないようにはできない」(私が拒否をすれば、自分一人でこっそり行く可能性がある)
「万一介助者の目を盗み行くことになればそちらの方が大変なことになる」
「なので、介助者の中でそれなり彼の事を理解している私がやり取りするしかない」と主張。
それでも、受け入れてもらいなかったほどの大騒動であった。

そんな過去の出来事があっての今回の「コンビニに行く!」と言う久しぶりの要望。

「コンビニではなく作業所に行きたいんでしょ?」と言えば
「そ~っと!」「はい」と応える彼。
その彼の言葉に、彼は彼なりに考えていると直感で思った。

そこで、
「あなたは、作業所の外にある水道と倉庫前のコンクリを触りたいんだよね?」と聞いてみた。
(これは、以前意を決して彼と行った時に見た彼の行動から推測した彼の目的)

すると、
「はい!」と言う。
「ならば、そのことを伝えて見ましょう。ただ、それだけなら大丈夫だと思うけど、建物内には入れないよ」と言えば、
「はい!」と応える彼。

以前行った時の緊張感はまったく抱かず、
彼と出かけていった。

その手前にあるコンビニはスルー。
(やはりコンビニではなく作業所に行くのが目的と確認)
そして、作業所内に一緒に入る。(ちょっと緊張する私)
作業していた職員に、
「すみません。この人そこの水道とあちらのコンクリをちょこんと触りたいみたいなんで良いですか?」と聞いた。
先方も、重度の自閉症の人たちとやり取りしているので、
「あぁ〜。そうですか〜。どうぞ」とあっさり了承。

その旨を伝えて初めて彼は動いて、水道とコンクリを触りに向かう。

そして、目的が達せられるとすぐさま帰ろうとする彼。

なるほどなるほど。
これぞ以前大騒動になった原因である彼と作業所とのズレ。
そのことに気づかぬまま対応した支援のズレ。
それが今回は全く無い中でのスムーズなやり取りなんだと思い描いた。

それは、
彼はただ単に、ちょこんと触りたかっただけ。
でも、彼の普段の行動を目にしている人たちは、その目的が解らず走りだす彼を止めに入る。
彼は彼で、過去何度も止められつらい想いをしてきたから必死になってさわろうとする。
必死になればなるほど、「この人はやばい」と思い描く周囲。

結果お互いがずれたまま必死になることで、大騒動へと発展したのだと思う。

でも、実はなんてことなかった話。
対応した職員は、どうやら彼のことを知らない人で、「そうですか」と言う対応し、何ら問題を感じていないだろう。
それほど穏やかなやり取り。

終わってみれば、なんてことない話なんだけど、
たぶん、私だって当時渦中にいれば同じような状態を招いてしまったかもしれない。

でも、その時の状況をしっかりと考え、時が経ち同じ状況となった時に、
あの考えた事が活かされるのおだと思った。

それ故、
再度の挑戦。
もし、あの時ただ単に騒動を招く人とだけ見ていたら、
今回の状況は生まれなかっただろう。

なので、
又、再び別の件で大騒動が起こった時、
その時はどうしようもない大変な自体になったとしても、
そこに起こっている事柄を考え続け、
その次に活かすことが大事なんだと改めて思った。

とは言っても、
なかなか渦中にいるとできないものですが・・・


posted by 岩ちゃん at 13:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月16日

昨日の出来事 〜話題はある日突然に〜

昨日はすいいち企画。水曜日の午後に皆さん勝手気ままに集まってきます。
その日その日によってまるで雰囲気が異なる会もそうそうないのではと思います。

皆さん勝手気ままにやり取りしているのがベースの会なのですが、
実は、そうでもない場面が・・・

昨日やってきた当事者と私が交わした話は、
コミュニケーションにまつわる話。(想いが行き違ってしまうのはなぜ?)
制度申請の話(これまで利用していなかった制度をいかに申請するか?)
ガイヘル利用の段取り。
当事者の表現方法をめぐる話。
等々。今から思いつかないぐらいその他あれやこれやとありました。

時には、当事者の権利、時には哲学的な話、時には街情報や若者情報等々。
あれやこれやとあっという間に時が過ぎていくのです。

では、
それを当事者と面と向かってやり取りすればどうなるか?
たぶん、こちらは質問する側で、彼らは応える側。
こちらは大切と思っていることでも、彼らはその時点では実感がないその話を聞かなければならない。

ワイワイと雑談に花咲く場面で、
「そう言えば・・・」と話題を振ることもありますが、
昨日の話題は、
何気ない当事者の会話からあれこれ話が発展してのこと。

人の話を聞いて、「そう言えば、その話題私にも関係する」と改めての話を始める人がいたりする。

どこから、どんな話題が始まるか?
振られた話題にどこまでこちらは対応できるか?
支援を担うものとしては、あれこれ試される場であったりします。

そんな偉そうに言っても、
たぶん私が見えた範囲でしか理解していないだろうと思います。
理解しないままやり過ごしている事も多々あると思います。

でも、
相談室で、会話するだけではなく、みんなの雑談や雑踏の中で現れる当事者の想い。

そんな耳の傾け方もあるのだと思いました。
posted by 岩ちゃん at 09:58| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月11日

当事者が落ち着いているならいっているで・・・

自立生活をしている知的当事者の支援会議。日々関わりのある事業所コーディネーターが集まって開くものもあれば、
現場のヘルパーさんを交えて開くものもあれば、
行政や相談支援事業所も含めて開くものもある。

そして、当然そこには本人も参加する事を前提としている。
が、本人の状態や周囲の思惑の中で本人が現時点では参加できていない場合もあったりする。
(なので、私としてはいづれの日にか本人も含めての会議にしたいと常に狙っている)

そんな支援会議が毎月に6件ぐらいある。

大概は、様々な課題の方が多くて目の前で起こっている難問奇問に、ない知恵をみんなで絞って日々の当事者の暮らしを支援している。
その内容は様々なのだが、生活が回らない現状や本人の暮らしが危ぶまれたり、周囲が困っていることに関しては、大概の支援者たちは必死に考える。
いかに本人が安定し、いかに本人の暮らしが充実し、地域の中で暮らす上で様々な人との関係がいかに有効に回るかなど、
そのままにしておけば、いづれ生活が破綻してしまう事柄については皆必死に考える。

しかし、
毎月毎月会議を開いていると、
ふと「最近落ち着いているね〜」と言う状況が2〜3ヶ月続くことがある。
その間2〜3回の会議を開くことになるのだが、
本人が落ち着き、本人の暮らしがそれなりに回っていると、
会議そのものもゆったりとした雰囲気で、さしたる課題もないので「今日は早めに終わろうか?」と言う事にもなる。

でもでも待って!
2〜3ヶ月落ち着いていたとしても、再び落ち着きをなくし、落ち着きが無い中で騒動が巻き起こることを何度も経験している。
落ち着いていた時があって、そこから落ち着かなくなると、
「何が原因か?」と必死に考える。
でも、
「それ以前に何故落ち着いているのか?なぜ落ち着いたのか?」を必死に考える必要があると思う。

当事者自身、何かを引き受けられるようになった。何かが理解できた。何らかの落とし所を見出した。
落ち着く理由は数々あるはず。
そこを落ち着かなくなった原因を探る以上に探っていけば、
たぶん、再び落ち着きをなくした時の大きな財産になるように思う。

でも、
これがなかなかできない。
なぜなら、当事者が招く騒動はあまりにも凄まじく、
落ち着いている期間は、今後再び起こる大騒動に備えて一休み期間だったりするから。

そんな各支援者の気持ちや我が身も振り返りつつ、
それでも、
落ち着いた原因を探ることを常に忘れずにいたいと思う。



posted by 岩ちゃん at 08:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月09日

行き違いは共同作業

当事者たちと話をしていると、時折行き違うことがある。こちらの意図が伝わらず、話をすればするほどあらぬ方向へと進んでいく。

それはどれだけ丁寧に話をしても一旦行き違うと、
「なんでそんなことも解らないのか!!」と怒鳴りたくもなる。

そんな時、「相手もそう思っているのかも」と想像してみる。
大きな声で懸命に話を展開する相手、
興奮して何が言いたいのかますます解らなくなる相手の言葉。

それは、その中身や意味がどうこう言う前に、
「お前、なんで俺の言ってることが解らないのか!」と必死に怒鳴っているだけかもしれない。
相手は自分の感覚の中で「丁寧にわかりやすく」話しているのに伝わらず、
懸命に伝えようとして自分の感覚の中での言葉を駆使し、伝えようとしているのかもと想像する。

相手がこちらのことを理解しようとしていない。
と同様に、相手もこちらに対し理解しようとしていないと思っているのだろうと想像する。

すると、話せば話すほど行き違っていくのはあたりまえ。
行き違いは、一人では行き違わない。
相手がいるから行き違う。
行き違うのは、相手が行き違っているとも言えるが、
自分も行き違っているとも言える。

言うなれば、
行き違いは、双方による共同作業(?)
決して一人ではできない。

そんなことを思い描きつつ、
行き違ったままでは辛いばかり。
大切なやり取りが行き違ったままでは、さらにつらい状況が膨らんでくる。

知的や発達の当事者たちは、常に相互関係によって生まれる行き違いを
一方的に当事者の側に押し付けられている。
押し付けられ続けてきたから、ますます必死に自己主張する。
しかし、その自己主張さえ、当事者の世界観や価値観や概念等々を理解していない私達にしてみると、
間違ったこととして、当事者たちへ一方的に行き違いを押し付ける。

それでは、何ら解決しないだろう。
当事者にしてみれば、一緒に考えると常に否定されるから、自分一人で考えるしかないと思い描くだろう。
一人で考え一人で思い描けば、当然うまくいかない時もある。
うまく行けば、その人の勝手と放ったらかし。
うまくいかなければ責められる。
そんな事が日々起こっているけど気づかない私達。

ならば、
たとえ相手に否があると思っても、
相手の言うことを一旦引き取る。
どうしても引き取れなければ、
「それはあなたの考えですね」と言う形で引き取ってみる。

すると、
必死になって主張していたことは、
実は、話の前振りでしかなかったり、
以前話したことの確認であったりする。

引き取ってみると、
実は、その次に本当の本題が語られだしたりする。

例えば、
講演会などで、主催者の挨拶を聞いていると、
時節柄の言葉があったり、労をねぎらう言葉があったりする。
それは講演の内容とは関係ない話。
でも、そのことによってこれからの講演に期待を寄せたりする。
でも、その挨拶が長々続くと私たちは壁壁する。

当事者たちとのやり取りはどこかそれの拡大版?
なんて思うことも出てくる。

行き違いはとっても嫌なこと。
でも行き違ってしまうならば、
どちらかが、一旦立ち止まってみる方が解決の早道。
それを当事者側に一方的に求めるのではなく、自らが立ち止まるほうが意外と簡単な話だと思う。

posted by 岩ちゃん at 09:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月30日

当事者と支援者との相性を考える

人には、相性というものがある。
なんとなく波長の合う人/なんとなく波長が合わない人。

私も当然そういう人がいる。
また、当事者にだってそういう人がいてもおかしくはない。

ただ、
私にとってなんとなく波長が合わないと感じる人は、無意識のうちに距離をとっているし、距離をとっているからこそそれなりに付き合うことも出来る。
本当に相性が悪く、顔を合わせばけんか腰になってしまう人とは、それなりに構えて付き合うか、そもそもつい合わないようにするかという対応を、無意識に近いレベルでやっていたりする。
それでも、同じ当事者に対し支援を担うものであれば事務的にサクサクと付き合うこともなくはない。

私にとって相性の悪い人とは、結局距離をとって付き合うし、
「なぜ相性が悪いのか?」などと問うこともなかったりする。

では、当事者にとって相性の悪い人の場合は?
日常生活においては、私と何ら変わらずあって良いと思うし、人それぞれの付き合い方をしていると思う。

ただ、その相手がヘルパーとか支援者という人であった時はどうだろうか?

自立生活をしている身体当事者が語る「介助者の手足論」や
「自立とは何か?依存先を増やすことにあるのではないか?(熊谷晋一郎さん)」など
そこにある関係は、非常に語りだせば出すほど複雑怪奇な状況があったりする。

ある面では私達と同じといえるのだけど、
ある面では私達とは異なると言わざるを得ない事柄がたくさんあったりする。

それは、「支援/介助」というものなくして暮らしが成り立たない障害当事者の状況があるから。

その中で起こる、当事者と支援者との相性。
ある事業所では「相性の悪いケースでは、本人の希望に応じてヘルパーを代える」という。
ある事業所では「相性の悪さがどこから生まれてくるのか?漠然とした相性だったり、現場で起こる個々の事柄だけではヘルパーを代えることはせず、コーディネーターが当事者とヘルパーとの間に入り、徹底的にその関係を考える」という。

それらは、多分ケースバイケースだと思う。

どちらの対応も、過度に進めば辛く・息苦しくもなる。
「当事者の希望に応じてヘルパーを代える」と言っても、利用者の求めに応じるのも限界があり、限界を超えると「私の所では応えきれません」と契約を切ってしまうこともある。
自立生活支援をしていると契約を着るというわけにも行かないので、
徹底的にその関係を考える事をするが、そんな日常は息苦しい。

そこそこの関係というのが必要になると思うが、
当事者にしてみればかなり切実なことでもあったりする。
また、生活の場面においては相対としては相性が悪くても、スポット的には助かるという人もいる。
また、逆にスポット的に了解できずとも全体的には心地良いという人もいたりする。

そんなこんなを考えてみると、
「相性」という話は、私達とは違う様々な事があるのだろうと思う。

ちなみに、
私の周囲にいる当事者たちは、
そのことを言葉でやり取りしたり伝えたりできない人たちが多いので、常にこちらがわからの想像による見立てになってしまう。
また、「相性」という目には見えない。しかし、何らかの不快感故に全く別のところに影響が出てくる自閉症の人たちがいたりする。

彼らに聞いたりストレートにやり取りできない分、
更に私自身あれこれ考えなければと思ったりする。
posted by 岩ちゃん at 14:23| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月29日

何かと制約の多いガイドヘルプだけでど・・・

ガイドヘルプすなわち移動支援。
地域生活支援事業になって以降、各自治体でその運用はまちまちだけど、
ガイドヘルプを家(ホーム)の外での支援と考えれば様々な制約がある。

・プールに出かけ、着替えるところまでは良いが一緒にプールには入れない。
・映画館や遊園地へ一緒に行くことは良いが、一緒に映画を見るのは認めない。
・講演を聞きに行くことは良いが、会場内は認めない等々。

その理由が、「社会参加を保障するための移動を支援することが目的であり、ガイドヘルパーは利用者と一緒に楽しむものではない」という事らしい。

私たちは、「移動を支援することもその一つだが、知的当事者の社会参加は移動のみで実現するものではない」という理由を持って行政の制約に抗してきた。

しかし、私達が想像する以上に当事者が置かれている状況は狭く厳しい。

「社会参加」という話の前に、
そもそも過去の「お出かけ」は、家族に連れられていくか「集団(例えば学校や作業所)」でお出かけする経験ばかり。
自らが出かける事を求めても家族の都合によるかボランティアさんばかり。
そんな中で、自らの想いを実現するためにガイヘルを使うということは、全くもっと当事者の想像を超えるところにあるように思う。

なので、
親と同様に自分を制限する人と捉える当事者がいたりする。
ヘルパーとボランティアの区別がつかずに、ひたすらヘルパーに気を使う人がいたりする。

これまでガイヘルを使ったことのない当事者に対しては、その人が持つ背景も含めやり取りしなければ、決して自己実現や社会参加の保障のためのガイドヘルプにはならないと思っている。

さらに、
ガイドヘルパーは、家族でもなくボランティアでもなく自らの想いを実現するための支援を担ってくれる人と思い描けるようになると、次に出てくるのが「ガイヘルさんと楽しむ」というもの。
「ガイヘルさんと遊園地に行く」
「ガイヘルさんとコンサートに行く」
「ガイヘルさんと映画を見る」
「ガイヘルさんと楽しむ」事を求めてくる当事者たち。

これまで自身の楽しみに付き合ってくれる人がいない中で、「一緒に誰かと出かけて楽しみたい」という想いの実現はそれなりに必要なことだと思う。
しかし、
「移動支援はガイドヘルパーと楽しむものではない」という行政の制約。
でも、その制約は制度上だけに限るものではなく、当事者とヘルパーの相性の問題も考えると、常に楽しく過ごせるヘルパーが派遣できるとは限らない。
当事者の側にある面どのヘルパーであっても良いということが必要となる。

視覚当事者のガイドヘルパーならば、多少の相性の悪さがあっても技術面で良しとできるならそれなりの利用はできる。
しかし、関係性に困難さを抱える知的当事者の人達にとっては、関係性の不具合は次の機会を閉ざしてしまう事もあったりする。

とは言っても、すべてのヘルパーがすべての当事者に対応できるわけではない。

そこで出てくるのが「ガイヘルはヘルパーと楽しむものではない」と言う事。
ヘルパーと楽しむのではなく、当事者が他の人と楽しめるようにヘルプする。

例えば、
「映画にヘルパーと行く」のではなく
「誰か(友達とか仲間とか知人と)一緒に行くため」にガイドヘルプを使う。
例えば、
「ヘルパーさんと親しくなる」のではなく、
「新たに親しくなる人を見つけに行く」ためにガイドヘルプを使う。
という発想が必要になる。

関係性に困難さを抱える知的当事者のガイドヘルプは、
その当初、ヘルパーとの関係性を生み出す手立てとして利用していくことも必要だと思う。
その中にはヘルパーと楽しむということがあっても良いと思うしとても重要なことだと思う。
さらに
それが実現できたなら、
ガイヘルを使って新たな人との出会いを見つける。
ガイヘルを使って仲間たちと楽しむ。
そんなことができたら、
当事者たちの世界はガイヘルを使うことでさらに広がっていくように思う。

それは、
決して当事者のスキルを上げるということではなく、
実は、ガイヘルを担う人たちのスキルを上げることだと思う。

私の周りには会議に参加する当事者がいる。
当事者たちが会議を開くためのスキルをアップするということもなくはないが、
様々な議題の中身を当事者自身のみで展開することは非常に難しい。
そこへ、ヘルパーを伴ってやってくる人もいるが、毎回違うヘルパーに会議を支援することは難しい。
でも、
ヘルパーが本人のみを支援するのではなく、本人を取り巻く人達との関係をつなげていくことを意識していれば、それなりの支援はできるように思う。

ヘルパーの役割を今一度考え直していきたいし、その中で何が必要になってくるのかを考えたいと思う。
posted by 岩ちゃん at 08:48| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月26日

昨日の出来事 〜相手と自分は違うと理解するには?〜

昨日、ちょくちょくたこの木に寄る当事者。
入ってくるなり全開で話し始める。

彼の言葉の中に散りばめられている「普通」「常識」「当然」という言葉。

「普通は、〜でしょう」
「〜って常識だよ!」
「〜は当然でしょう」等々。

私の一番了解不能な言葉は「普通」
常に疑っているのが「常識」
なかなか納得出来ない「当然」と言う事。

とにかく、
「普通」「常識」「当然」という言葉が出るたびに、
「それってどういう事?」
「それは、あなたの考え方だよね?」
「そうは思わないよ」と突っ込む私。

彼は、いかに「普通か」「常識か」「「当然か」を力説する。
私はその度に、「立場を変えてみたら?」「違うケースもあるよ」「当然と思うのはあなたでしょ?」と力説する。

ようするに、
「あなたと私」「あなたとあなたの周囲の人達」は必ずしも同じ意見・同じ想いではないので、
初めから思い込まずにやり取りするほうが良いのでは?という話になる。

一時期たこの木の中で流行った「対人相互関係」という言葉を思い起こす。
そこに、何らかの困難さがあって、そのことに気づかずに事を進めるが故に、
ある時は良くて、ある時は駄目になる。
その事が理解できない彼。

「普通物を売る時は、大きな声で売らないと売れないよねぇ〜」という彼。
「大きな声で挨拶するのは常識でしょ!」
「お客さんが来たら当然お茶を出すよね〜」という彼。

その事自体間違っているわけではない。
でも、時と場合による。相手によっても受け止め方は違う。
そのことを知る私達とそのことに気づかない彼。

ある時は「元気いいえ〜!」と褒められ
ある時は「うるさいよ!」と叱られる。

彼にとってはわけがわからないのも実は当然。

「相手の身になって考えることが大切だよね」という彼だけど、
「相手の身になんてなれない」と思う私。

「相手の気持ちなんてわからないよね〜」と言えば、
「そんなの顔を見ればわかるよ」と言い切る彼。

「でも、私が仕事で忙しくしている時も、ちょっと息抜きしている時も、変わらず話しかけてくるあなたがいるよね〜?」
「今日だって原稿書いていて、頭の中は原稿のことでいっぱいだったということを解ったかな?」

と聞けば、「・・・・・・」

「一言、今話しできる?と聞くだけでも、相手はあなたに対する印象が変わるかもよ」という話をするも、

多分理解してないだろうと思う。

なので、たこの木を出て行く時、「さようなら〜!!!」「ありがとうございました〜!!!」と
マンション中に響き渡る大声で挨拶して帰っていった。



posted by 岩ちゃん at 09:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする