2013年04月26日

昨日の出来事 〜相手と自分は違うと理解するには?〜

昨日、ちょくちょくたこの木に寄る当事者。
入ってくるなり全開で話し始める。

彼の言葉の中に散りばめられている「普通」「常識」「当然」という言葉。

「普通は、〜でしょう」
「〜って常識だよ!」
「〜は当然でしょう」等々。

私の一番了解不能な言葉は「普通」
常に疑っているのが「常識」
なかなか納得出来ない「当然」と言う事。

とにかく、
「普通」「常識」「当然」という言葉が出るたびに、
「それってどういう事?」
「それは、あなたの考え方だよね?」
「そうは思わないよ」と突っ込む私。

彼は、いかに「普通か」「常識か」「「当然か」を力説する。
私はその度に、「立場を変えてみたら?」「違うケースもあるよ」「当然と思うのはあなたでしょ?」と力説する。

ようするに、
「あなたと私」「あなたとあなたの周囲の人達」は必ずしも同じ意見・同じ想いではないので、
初めから思い込まずにやり取りするほうが良いのでは?という話になる。

一時期たこの木の中で流行った「対人相互関係」という言葉を思い起こす。
そこに、何らかの困難さがあって、そのことに気づかずに事を進めるが故に、
ある時は良くて、ある時は駄目になる。
その事が理解できない彼。

「普通物を売る時は、大きな声で売らないと売れないよねぇ〜」という彼。
「大きな声で挨拶するのは常識でしょ!」
「お客さんが来たら当然お茶を出すよね〜」という彼。

その事自体間違っているわけではない。
でも、時と場合による。相手によっても受け止め方は違う。
そのことを知る私達とそのことに気づかない彼。

ある時は「元気いいえ〜!」と褒められ
ある時は「うるさいよ!」と叱られる。

彼にとってはわけがわからないのも実は当然。

「相手の身になって考えることが大切だよね」という彼だけど、
「相手の身になんてなれない」と思う私。

「相手の気持ちなんてわからないよね〜」と言えば、
「そんなの顔を見ればわかるよ」と言い切る彼。

「でも、私が仕事で忙しくしている時も、ちょっと息抜きしている時も、変わらず話しかけてくるあなたがいるよね〜?」
「今日だって原稿書いていて、頭の中は原稿のことでいっぱいだったということを解ったかな?」

と聞けば、「・・・・・・」

「一言、今話しできる?と聞くだけでも、相手はあなたに対する印象が変わるかもよ」という話をするも、

多分理解してないだろうと思う。

なので、たこの木を出て行く時、「さようなら〜!!!」「ありがとうございました〜!!!」と
マンション中に響き渡る大声で挨拶して帰っていった。



posted by 岩ちゃん at 09:00| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月24日

固定化しているのは当事者ではなくこっちかも?

ヘルパーコーディネーターから電話が入った。
「利用者が、押し入れの天袋に濡れたバスタオルをしまっている」
「そのままにしておくと、押し入れの床が腐ってしまうので、どのように対処すれば良いか?」
と言うもの。

私がまず思った事は、
「なぜ?天袋に?濡れた(濡らした)バスタオル?」という「???」だらけ。
そして、
「どのように対処すれば良いか?」と言う問いに、
利用者の行為の理由やなぜそのような行為に至ったかが解らない中で、対処方法を求められても答えが出ないと言う事。

でも、
現実を放置するわけにはいかない。
「止めてください」と言っても、本人は混乱し暴れだす。
丁寧に言葉かけしても、聞こうとしない。
それは、彼が想い描いている事を抜きに、一方的にこちらの意図を押しつけているだけなので、
暴れても当然。声かけを聞こうとしなくてもどこかあたりまえだと思う。

だからと言って、
そのままにしておけない。
なので、本人が見ていない所でこっそりと処理をする。
と言う手もなくはない。
でも、
そのようなその場しのぎの対応をしてきたから・・・、
彼が天袋と言う「普段ヘルパーが目にしない場所」に置いたと言うのは、ヘルパーがそのような対応を普段しているのを見て真似たのだろうも想像する。

と言う事で、
彼の行為の理由を理解した上で、解決する方法を見出しやり取りしなければならないと思うのだが・・・

「なぜ?」と言う疑問が解決しない中、どうして良いものか?途方に暮れる。

そこで、
まずは、問題となっている点は、
「濡れたバスタオルをそのまま天袋に入れておくことで床が腐ってしまう」と言う事。
ならば、
「濡れたバスタオルを天袋の床に直に置かないように工夫すると言うのはどうだろうか?」と提案してみた。

すなわち
「彼は天袋に濡れたバスタオルを置きたい」
「濡れたバスタオルを置かれたくないと言うヘルパー」
と言う両者が折りを合う方法を考えて欲しいと伝えた。

すると、
「洗濯籠とかを置けばよいですかね〜?」とコーディネーターが言うので、私は「そうだね」と答える。
「でも、それだとその行為が固定化されてしまうのでは?」という彼。

「う〜ん・・・」
確かに相手が、「それならいいんだ」と思ってしまわれると、濡れたバスタオルを常に押し入れに入れてしまう。
床はすぐには腐らないが、押し入れ内に湿気はたまりやはりよろしくないだろう。

でも・・・
彼が言うところの「固定化」と言う言葉が気になった。

私は、当事者の「なぜ」が解らないから、とりあえず洗濯籠を置くなり、彼の「濡れたバスタオルを置きたい」と言う行為と「置かれては困る」と言う折り合いを見出す事から始めたいと思う。
それは、決してこちらから一方的に追いつけたものではなく「折り合う」事から始めたいと思う。

その事により、「何を言っても聞かない」と評価するヘルパーの側と「ダメとした言わないヘルパー」と言う彼の評価を、
互いに改める対応でもあると考える。

なので、決して「固定化」するものではない「とりあえず」の事。

しかし、
コーディネーターが言うところの「固定化してしまうのでは」と言う疑問は、
たぶん、その事によって「とりあえずの解決」でしかない事が、「解決した」と言う結論にしてしまうところにあると思う。

「解決した」ならば、ヘルパーはそれ以上の事はやらない。
それ以上の事を求めなければ、本人は「それで良い」と思ってしまうのは当然。

その先で起こる不具合については、また別の不具合になってしまう。

自閉症の当事者たちの構造化だとか、決まった段取りを作ってやり取りする事は、本人たちにとっても楽な面があると思う。
なので、そのような対応も必要だと思う。

しかし、「なぜ?」と言う本人の意思や経験等々を抜きにこちらが勝手にそれを枠づけしても、たぶんその先において再び問題が起こってくるように思う。

ならば、相手の「なぜ?」が解らない、当事者本人もこちらの意図が解らない。
お互い解らない者同士、まずは折を合わせ、その事によりやり取りできる関係を生み出し、
お互いに持つ「なぜ?」を明らかにする作業と明らかになった事から新たな対応(新たな折り合い)をお互いが見出し続ける事が必要なんだろうと思う。

自閉症故に「固定化」してしまうのではなく、
私たち支援者の方が「固定化した支援」になってしまってはいないかを考えなければと思った。
posted by 岩ちゃん at 10:20| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月08日

昨日の出来事 〜詰めて入るから解る事/たまに会うから解る事〜

昨年9月から自立生活を始めた重度知的当事者。
その当初は、週に3〜4日泊まり介助や日中の介助に入っていた。
連続3日というのもしばしばあり、彼の自立生活が始まったと同時に私も市外へ転出した感じでほとんど毎日彼と付き合っていた。

そんな状態がいつまでも続かないし、様々な人との関わりによって見えてくる当事者の想いを考え、
今年に入り徐々に他の事業所ヘルパーを入れ、今日概ね週1回程度の泊まり介助になった。

彼の家を訪ねると「久しぶり〜」と言う感じ。
1週間前に訪ねているのだけど、2〜3週間ぶりの感じ。

2日に1回入っていた時は、
彼自身の暮らしぶりが見えていなかった事もあり、たくさん入る事で見えてくるものがたくさんあった。

今は、
週1回となり、見えなくなってしまった面もあるのだが、
週1回入る事で微妙な変化は増幅されているので、逆に見えやすい。

つまりは、
「親はわが子の日々の成長には疎くとも、他人の子どもはすぐに大きくなる」と言う感じ。

ただ、問題なのは
重度知的ゆえに、
変化を感じつつも、それが何なのかがわからない。
聞いても何も語ってくれない。
こちらが推し量るしかないんだけど・・・

何が変化したか?
なぜ変化したか?
それは、本人にとってよい変化?悪い変化?
今後どう変化するのかしないのか?
そのために私は何を支援すれば良いのだろうか?

本人の想いを知るためには詰めて入らなければならないと思う。
詰めてはいる事で見えなくなっていた事も、昨日から今日にかけて気づいた。

その両方は担えないという矛盾。

さてさて、どうしたものか?

posted by 岩ちゃん at 10:24| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月05日

<一つの妄想>市民後見をさらに進めて、市内後見ってどうだろう?

ある朝目覚めた時、夢うつつの中で浮かんできた言葉が「市民後見」ならぬ「市内後見」

後見人の新たな展開として「市民による後見」というのが「市民後見と私は理解している。
それに対して、
市内(すなわち当事者の生活空間)に限って後見業務をになのが「市内後見」と言う妄想。

成年後見制度の大きな問題は、本人の権利を守るための制度でありながら、本人の意思決定の支援が不十分な中、「本人の意思」として後見人が当事者の「代理権・同意見・取消権」をもってしまうという点。
市民後見は、専門性をもった人たちが後見人になっていくのではなく、もっと市民感情や市民常識に照らし、本人に近いところにいる人が後見人となっていく事なんだろうけどそれでも「本人の意思」が見えない中でその職務を実行する事については、本当に本人の権利を守る事になるのだろうか?
逆に、多くの市民が描く障がい当事者に対する偏見を市民後見人も同様にもつ中で、判断してはいないかとさえ思う場面があったりする。

先日の学習会でも語った事だが、
「本人の意思決定支援」とセットでなければ、今の後見制度はどこまで行っても、本人に成り代わる制度でしかない。
そして、誰も本人に成り代わる事はできないのに、それがやってのけてしまう今の後見制度はいろいろ恐ろしい面があり「使えない」と言うのが私の立場。

そこで、思い描いたのが「市内後見」
当事者が暮らす生活空間に限り、後見人の役を担うというもの。
生活上必要となってくる、行政や銀行やサービス提供事業所等とのやり取り。
それを市内に限り、後見人が行う。

どういう事かと言えば、
お互い目に見える関係の中で、「市内後見人」を選出し、その人を選出した人たちで支えていく。
又、その人が判断する事の妥当性をみんなで考える。

まったく付き合いのない当事者の意思なんて、どれだけ専門性を身につけても誰にもわからない。
でも、普段付き合いのあるもの達なら、何の専門性がなくても日々のやり取りの中から当事者の様々な面を知っていて、そこから推測される本人の意思は、より近いところにあるように思う。

契約行為についても、見ず知らずの後見人がある日突然やってきたら、それを証明するには多大な手続きが必要となる。
しかし、地域の人たちで選んだ顔見知りの人であれば、さほど労力をかける事なく様々なやり取りができるように思う。

たこの木を介し自立生活している重度知的当事者たちは、後見制度を使ていない。
当事者に判断不能な場面も、後見人がいない家族と住んでいない中で、当事者を介し私と相手とで事を進めるための様々な手法を生みだしてきた。
その手法は、当事者と私と相手との関係の中で成り立つだけであって、それを一般化していく事の危険性は常にはらんでいる。

それでも、本人の意思に即した支援を担わなければならない場面が日常生活の中で起こっている。

ならば、個と個の関係を周囲が認める、生活空間と言う限定された中で、「市内後見」と言うのはありなのではないかと、
勝手に妄想している。

posted by 岩ちゃん at 12:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月02日

昨日の出来事 〜当事者が叶えたい想いに支援者が賛同できなかったら?〜

昨日は、午後から事務仕事をしながら当事者とのメールのやり取りが6時間近く続いた。

自分の想いを実現するために相談に乗って欲しいというものなのだが・・・。

その想い、ぜひ実現すれば良いと思うのだけど、私自身はその想いに賛同できない。
賛同できないからと言って、彼の想いを否定するというのは違うと思う。

でも、彼はどうやら私の他に相談できる人がいない。(もしかしたら、相談しても「無理」の一言で相手にされていないのかもしれない)
なので、「一人では無理なので・・・」とメールを送ってくるのだが、どうにも私は祖の想いには乗れない。

だからと言って、彼の想いを否定できるものではない。

だからと言って、私が彼の想いに付き合うと言う事も私自身も他に展開しなければならない事がたくさんあって、付き合う事も出来ない。

でも、付き合わないと言う事は、彼の想いを否定する事になる。

相手は、こちらの葛藤などまったく関係なくメールを送ってくる。
そのメールを無視する事も出来るのだけど、それをやってはならないとあれやこれやと返信する。

正直、私と一緒に実現して欲しいと言う想いが見えてくる。
「よし!!一緒にやろう!!」と言うのは簡単だけど、やる気もやるための時間もない中そんな事は言えない。

「当事者の自己実現の支援」とかっこよく言っても、
実のところ、支援者の思惑に沿ったもののみが「自己実現の支援」となっていく事をみてきた私。
自分は、そうありたくないと思うので、何度も何度も彼のメールを交わし、彼自身が展開するための方法を見出そうと考える。

でも、
「一緒にやって」と言う想いがにじみ出てくる。
それを「あなたが展開するために」と押し返す。

決して、否定はしない。
「だったら辞めます」と言うメールが入ってもしつこく手を変え品を変え切り返す。

でも、本心はやり取りに行き詰って他へ行ってくれれば良いと願う。

自分の中で、矛盾した想いが錯そうしつつ、
とにもかくにも、やり取りはこの先も続くのだろう〜。

そして、再び「辞めます」と言うメール。

「辞めてどうするの?」と送り、
「やるにしても辞めるにしても、いづれも仲間を集めないとね!」と送り、メールが途絶える。

やっぱり、こちらの乗り気のなさを感じ取ったか?
それとも面倒な奴だと思われたか?

どう考えても私の中には彼が想い描く自己実現は入っていない。
だからと言って、彼の想いは否定するものではない。
結局は、彼の想いに賛同する人をいかに集めるかと言う点に終始する私。
でも、その事自体も彼一人ではできない。

ただただ、
賛同する人が現れこの先を展開してもらいたいと願っている。


posted by 岩ちゃん at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月31日

夜中のガイヘルは是か非か?

ガイヘル制度ができた頃、
それ以前よりずっと行きたかった真夜中のイベントに出かけられるようになった当事者。

ところがここ最近、「ガイヘルで真夜中のイベントに出かけるのはいかがなものか?」と言う声が支援者から上がっている。
その理由は、真夜中に出かける事で本人の日中活動に支障をきたしているかららしい。

ガイヘルを使って真夜中に出かけている本人の姿からは、その事が実感としてない派遣側。

なので、日中活動に支障をきたしていると言う情報はありがたいと思う。

だからといって利用を制限すると言うのはどうかと思う。

なぜなら、ヘルパーを伴って出かける事の必要がない私たちは、いつでも出かけられるわけだから、当然のごとく当事者も出かければ良いし、出かけられるための制度保障が必要だと思う。

しかし、制限した方がよいと考える支援者は、
「本人に翌日の状態まで把握して判断できる能力がないのに、本人の依頼だからといって引き受ける派遣事業所はいかがなものか?」と言う理由らしい。

ならば、ガイヘル利用を制限するのではなく、翌日の状態も含め本人が考え判断する支援を担えば良いと私は考える。
その支援の方法が見出せない事を振り返ることなく、「支障をきたしているから利用を控える」と言うのは違うように思う。

又、
もしかしたら、普段ちょっとの支援があればかなりの場所に一人で行ける彼としては、ガイヘル=夜中の外出と思い込んでいるのかもしれない。
ならば、夜中のガイヘル利用に代わる提案を周囲の人たちがすると言う事も必要かもしれない。

又、本人に「なぜ夜中のガイヘルか?」を聞いていくと、実は別の理由があるような気もしてくる。
ならば、彼の中にある別の理由を可決すれば、自ずと夜中のガイヘルは必要なくなったりする。

又、同じく夜中に出かけるにしても、日中活動に支障をきたさない出かけ方を考える事もあるだろう。
又、休みを取ると言う事もあるかもしれない。

ただただ、日中活動に支障をきたしている事を理由に、制限をかければ、
本人は「(周囲に)ダメと言われたから」と言うだけの理由で受け止め、
本来解決できていない事柄が、実は違った形で現れるかもしれない。

当事者たちは周囲の者が見えた事柄の中で評価・判断される場面が多いように思う。
周囲の決め事の中で暮らすことを強いられていると、そのストレスは他の場所に出てくるように思う。

私がいつも心がけている事の一つは、
『本人の実感』と言う事。
そして、
その実感と周囲との『折り合い』

ガイヘルを派遣している事業所側からすれば、楽しんでいる当事者を制限するのは腑に落ちなだろう。
日中活動を支援する事業所は、自らの場だけを見ていたら「支障をきたしている」事だけしか見えないだろう。
また、彼と長年関わっている人にとっては、その他の事柄も目にする中、何とかならないものかと悶々と悩み続けるしかないかもしれない。

さらに、
昨今のサービス提供は出来高制となっている事が、支援者間の不信感を抱かせる。
なぜなら、ガイヘルを提供する側は、「派遣してなんぼ」の世界。
日中活動の場は、「休めばその日の給付費が降りない」世界。
ヘルパー派遣の側が「次の日休めば良い」とは単純に言えないし、
日中活動の場が、制限をかけたくなる理由も解る。
そして、結局は本人にとって必要となる支援をみんなで考えるのではなく、個々のサービス提供の中で本人の暮らしを考えざるを得なくなってしまう。
そんな、制度上の問題点も見え隠れする。

でも、
お互いが見えているものを出し合い、それぞれが抱えている状況を知り、その中で当事者が想い描いているものを明らかにしていけば、
きっとそれぞれの場だけでは解決できなかった事柄が解決できるように思う。
本人が安心してサービスを受ける事ができれば、様々な事柄が好転していくようにも思う。
好転すれば、日々の当事者との関わりが楽になり、楽になればとてもありがたい利用者にもなったりする。

そのためにも、
まず、制限ありきではなく、取り組んでいきたいし、
制限なくやり取りする中で出てくる課題や見えてくる課題を
ともに考え展開できればと願う。
posted by 岩ちゃん at 06:00| 東京 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月27日

重度訪問介護の対象者拡大は望んできたが…

重度知的当事者の自立生活において、
身体介護・家事援助・移動支援と言う類型をもって日々の暮らしの支援を担っていく事は非常にややこしく、様々な制限もあったりする。
そんな事はず〜っと以前から思っていた事なので、一日も早く重度訪問介護を知的当事者にも拡大して欲しいと願ってきた。

そして、
総合支援法なるものの中で、その事が認められるようになり、あと一年後には使える事になるだろう。

しかし、
「身体の障害はあるがそれだけでは対象とならないが、重度知的と合わせて前倒しで重度訪問介護を申請したらどうか」という相談支援事業所から提案があり、行政の側も重度訪問介護で支給で来るならば歓迎と言う話になった。

さて、
それをどのように受け止めようか?
長年願ってきた事である。
でも、
すんなりとその提案に乗れない私がいる。

煩雑な事務や入院時の派遣等を考えると一日も早く切り替えたいと思う。

しかし、当事者にとって必要となる支援が何なのかの議論がまだまだできていない中で、
単純化された類型による派遣を担っても、何か大きな見落としをしそうで怖い。
「重訪すなわち身体当事者にのみ認められる制度を使うと入院時の派遣を認める」って何?
それさえも、長年の交渉の結果生み出してきたもので、あたかも初めから認められているような印象を抱く言い方がうさん臭い。
その事自体は認められているので良いのだけど、

この先知的当事者に重訪が拡大された時に起こる様々な不具合は、いったい誰が修正していくと言うのか?
身体当事者の人たちは自分たちで修正のための戦いに参戦できる。

しかし、重度知的当事者の場合は、どうしても周囲の取り組み方に大きな影響を受ける。
現時点で拡大は認められたけど、その中身の議論は何もされていない。

行動援護だって、重度訪問介護の知的版と言われていた時期があったが、結局はまったく別物となった。

まだまだ、どうなるか解らない中で、
今見えている事柄だけで判断して良いのかどうか?

すでに、身体障害もある重度知的当事者で重度訪問介護を使っている人たちはいる。
その中身がなかなか見えてこないのは、本人が語れないから支援する人たちがいかに語るかが問われるも、語っていないから見えない。

又、重訪はお金の面から言えば
身体介護で24時間支給すると莫大な費用がかかるから、間を取った類型として設定された状況もある。
安め設定する代わりに、資格や「見守り介護」と言ったものも緩やかになったり新たな支給決定の概念を生んだ。

しかし、
そもそも知的当事者は家事援助が中心の人が多い。
同じ時間を重訪にすれば、費用が膨らむ。
そんな状況の中で、何をどのように規制してくるかちょっと恐ろしい。

複数事業所と組んでやり取りしていると、どこの事業所がどの類型で何時間請求するかと言うのは、余分な手間を生んでいるので、
類型が一つになるとありがたいし、楽になる分いろんな事を展開できると思う。
又、先行して活用する事で来るべき日には、すでに様々な経験を積んでいる事にもなり、今後様々な提案ができるのかもしれない。

でも、残る不安。
なので、
望んできたが・・・
となる。
posted by 岩ちゃん at 07:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月19日

成年後見人をつけなければ・・・

本人の権利を守るために成年後見制度。
しかし、日々重度知的当事者の自立生活支援を担っていると、成年後見制度の仕組み自体が当事者の権利を奪ってしまっている現実に多々ぶつかる。

たこの木を介し自立生活を始めた当事者のほとんどが成年後見人をつけていない。
(保佐とか補助とかあるが、重度の人たちが多いため、審査にかければほとんどが後見相当となってしまう)

いろんな課題にぶち当たる時、先方が言う事は
「後見人はついていないのか?」と言う。
「ついていません」と言えば、決まって「ならば親御さんに」と言う話になる。

私たちは、数々の修羅場をくぐってきたので、
「実際、後見人はついていないし成人した人であるわけだから、本人と向き合うしかないでしょ」と言い、これまでの解決方法を例に出しつつその先のやり取りを進める。

しかし、
時に、強固に「後見人がついていないなら親御さんの同意が必要」と言う人たちがいる。

自立生活を始めれば、日々の暮らしについて親御さんは解らない。
日々の暮らしにおける様々な判断を親御さんに同意を求めても判断のしようがない。
それでも、執拗に求めてくる。

それに対し「今は、親御さんが生きているから、求めれば同意を得る事はできるだろうが、将来親御さんが亡くなったら、その時はどうするのか?」と聞く。

すると大概は、うなってしまう。
中には、「今親御さんがいるんだから、将来の事は将来考える」と言う答えをする人もいる。

「将来考えるなら、今考えろ!」と言う事と相成るのだが・・・

そんなやり取りを親御さんが聞けばどう思うだろう?
自分の子どもの困難な状況に対し、親として口を出したいだろうし、シノゴノ言わずにサクサクと同意できる事は同意もしたいだろう。
それの方がどれだけ楽かと想い描きつつ、それでも子どもの将来を想い描きグッとこらえる。

こらえていただいている事の大きさなんか先方は露とも理解していない。
そこにあるのは只々、自分たちの側の責任と論理のみ。

それは、とにもかくにも突っ張り続けていくと、先方も考えざるを得なくなる。
とにかく、本人の権利をいかに守るかにおいて、みんなで議論し、先を生み出すしかなくなる。

結局はそうやって切り開けてきた事も多々ある。
すると、結局は「親御さんの同意」「後見人をつける」と言うのは、ややこしい事を考えたくない。一つ一つの事柄を自らが当事者と向き合い解決するよりも、誰かが決めて、決めた人の乗っかりたいだけの話。

本来は当事者の権利を守るための成年後見制度。
しかし、何が当事者の権利なのかさえ明確になっていない現在。

成年後見制度をもっと活用したいと思う。
しかし、その事ですべてをそこに委ね、考え作る事を辞めてしまう相手。

まだまだ考え作っていかなければならない現実の中で、後見人をつけると第3者である私は蚊帳の外におかれ、
私たちが長年かけて生み出してきた事も、先方の意にそぐわなければ、一人後見人や親御さんを説得すれば、先方の意のままになってしまう。

なので、
今の今、後見制度を利用する事はしたくはない。
親御さんに出てきてもらい、様々な同意を得ると言う事もしない。

そして、
その事で巻き起こる本人の自己決定の保障。
その支援の不十分さを様々な人と考えていきたい。

「そんな事はない」と言う後見人はいるだろうし、うまく活用されている方たちもいる。
それを決して否定するつもりはない。
しかし、多くの当事者は後見人の判断一つで生活に大きな影響を受けている。

後見人となる人の問題ではなく、
後見人に決定権が集中し、周囲のものが考える事を止めてしまうその現実を何とかしなければ、
後見人の存在は、当事者の権利を脅かすものでしかなくなる。

もう一つの現実として、
後見人をつけないでいると最後の最後、私の判断によって当事者の暮らしが実質影響されている。
私には何の権限もない分、周囲に求められても周囲に返すしかない。
でも、様々な事柄をみんなで考えていく状況はまだまだ不十分。

私だけではなく、当事者を取り巻く様々な人がそれぞれの立場から一緒になって本人の自己決定を明らかにしていく支援を模索していくことを始めて欲しいと願っている。

posted by 岩ちゃん at 19:09| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月18日

当事者支援の会議には当事者も参加が大原則!でも、実際は・・・

「当事者抜きに当事者の事を決めるな」と言う当事者たち。
至極もっともな事だと思う。

しかし、
もっともな事でも、自閉症を伴う重度知的当事者の場合にはそうはいかない面がある。
会議の場に参加する事で混乱する当事者。
「当事者の前では言えない」と言う支援者たち。

ある事業所の長が私たちが開いた支援会議に参加した際、
本人が同席しているのを見て、憤慨して帰った事があった。
彼曰く「本人が聞きたくないことだってあるのに、本人がいては何も言えない」と。

当事者支援を真剣に向き合っている方だと私は思っている。
当事者にとって有効となる支援を常に模索し、様々な準備を重ね当事者が幾多のステップを積み重ね、当事者自身が豊かに暮らせる事を願って日々活動されている方だと思っている。

しかし、
憤慨して帰るお方に。
「私たちは私たちの支援が本当に正しい事なのかはわからない。それ故に、本人が同席する事で想い描けるものがたくさんあると思っている。本人が決して語らなくても、本人と個々に集まった人たちとの関係はその場に現れるので、そこから日々それぞれの場の支援がつながりやすくなるように思う」等と言って理解を求めたように記憶している。

そんな真剣な方とはまた別に、
「本人が周囲に困らせている事を本人の前では言えない」と言う人もいた。
又、
複数で話をする事が苦手で、支援者一同が会した会議に初めて参加した当事者は、混乱し大暴れをした。

普段目の前にいる支援者に合わせた振る舞いをしている当事者は、みんなが集まると誰に合わせて良いか解らず混乱し、その混乱を見た支援者が、「本人がいない方が本人のためでもある」と言い、本人参加の会議を否定していた事もあった。

いろいろ他にも本人も含めた会議のあり様を否定する理由はたくさんあるだろう。

自分たちだってすべての支援会議に当事者がいるわけではないので偉そうなことは言えない。

しかし、当事者が参加している所で支援会議を開くというのは大原則と言う気持ちは揺るがない。

それは、個々の当事者の事と言うよりも、
当事者も参加する会議に、私たち自身がまだまだ慣れていない。
どのように進行して良いのか解らない。
どのように決めて良いか解らない。
当事者と一緒に議論するとはどういう事か?

まだまだ、当事者も含め会議を開く場が少なすぎる。

当事者抜きに、手っ取り早く進めてしまう場があまりにも多すぎる。

当事者が参加する事でいろいろ不具合はあるだろう。
又、当事者が支援者たちに囲まれて言いたい事が言えないと言う事もあるだろう。

支援者も当事者もまだまだ一緒に会議をすると言う事の経験が少ない中、
だからと言って、当事者抜きに事を進めても良いとはならないと思う。

至らない支援者として、まだまだ精進しなければと思う。

と言う事で、これから支援会議。
posted by 岩ちゃん at 19:53| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月15日

昨日の出来事 〜医療行為に対する本人の同意〜

昨日(正確に言えば一昨日のすいいち企画から)は未明から日付が変わるまでかなりハードなやり取りがあった。
一人暮らしをする重度知的当事者が体調を崩し、嘔吐を繰り返す中救急車で病院に運ばれ、最後の最後は医師や看護師や支援者や親の思惑を裏切り、自らの意思で退院できたと言うもの。

そのドラマをしっかりと書き留めておかなければと思うのだが、正直本人の意思決定と医師との間に立ち、ほとほと疲れ果ててしまったので、何を書き綴るのか自分でもまだまとまりがない。
なので、
又日を改めてどこかに書きとどめたいと思っている。

ただ一つ、
自立生活を始めた重度知的当事者が病院に運ばれ、医師が求める検査の同意を巡っては、
親御さんが私の判断にすべてを委ねてくれた事。
その事によって、本人を取り巻く様々な事に力を注げる状況が生まれた事は、心より親御さんに感謝している。

そして、
瞬時に求められる判断について、決して私一人ではなく、
当事者を取り巻く一人ひとりが、一緒に事柄にあたってくれた事が、私が当事者にとって最善ん選択を決断できた事を心より感謝している。

「検査にあたっての同意は、法的責任が取れる人として親か後見人の同意が必要」
と言ってきた医師。

でも、
現実に、親が法的に責任が取れるのだろうか?
「親が下した判断だから親は文句を言わない」と言うだけかも。
「後見人の同意」と言うが、医療行為に対し後見人は判断をしないので同意もしない(できない)。

今回の結果は大事でなかったが、本人の状態を見ると命に関わる事かもしれないと想い描いても不思議ではない。
その可能性が否定できない中での様々な判断。
ちょっとでも揺るぐとたちまち日々「本人の自己決定」とか「意思決定支援」と偉そうに行ってても、実際の場面で自らが行ってきた事のすべてを自らが否定する行動をとったかもしれない。

でも、
親に委ねられ、
当事者を取り巻く様々な立場の人に支えられ得た今回の経験は、
ぜひ、次に生かしたいと思う。

次回は、もっと大変な状況かもしれないが、
いきなり困難な状況下でやり取りするよりも、今回の経験の上でやり取りする方がかなり楽だと思う。

と言う事で、
何がどうしてどうなったかの中身もない記事だけど、
本日もその後処理に終われ、これがなかったらサクサク進められてたことを結果追われるという状況の中、
この程度でお許しを


posted by 岩ちゃん at 18:44| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 支援を模索する | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする