2009年04月06日

人は何をもって客観的現実とするか? その2

 最近週に1〜2回とある施設に行って知的当事者の話をする機会が続いている。

 彼は、お父さんやお母さんのダメな点をいろいろ口にする。逆に自分の行動についてはすべて肯定するのだが、その理由を聞いてもほとんどつじつまが合わない。

 当初は、彼の話を聞けば聞くほど「彼は身勝手で自分の都合ばかりを人に押し付ける人」に見えて、話を聞き続ける事でイライラがつのる私自身がいた。

 では、なぜ私ははイライラがつのるのだろうか?と考えてみた。
 すると、私自身彼に対して「それはおかしい」と評価し、「彼はなぜそう思うのか?」と私が納得する答えを導き出そうとしている事に気づいた。

 それで、そういう自分を一旦横において彼との話を続けてみた。
「そういうお父さんやお母さんが嫌いなんだ〜」
「あなたはそう考えるんだ〜」

そして、
「私はお父さんやお母さんが好きだけど、あなたは嫌いなんだよね」
「私はそう思わないけど、あなたはそう思うんだよね」と
彼が想い描く世界を認めつつ、私が描く事の違いを伝えてみた。

 行きつ戻りつの話。どうしても許せないと言う発言はありつつ、
 「彼は今この話がしたいんだ」「彼の世界ではそうなんだ」と耳を傾け、彼の世界知る事に努めた。

 すると、「お父さん・お母さんが嫌い」と言う想いを伝えるために暴言とまで取れる話をしていた彼が、実はそうではないのではないだろうか?と言う疑問がわいてきた。
 何度目かの話の時に「本当はお父さんとお母さんの事が好きなのでは?」と聞いてみた。
 すると、「いや!」と否定しつつ懸命に「嫌いの理由」を語りだす彼に、

 「そういうお父さんやお母さんが嫌いなんだよね」と認めつつ、「では、そうでないお父さんとお母さんはどうなの?」と聞けば、これまでとは打って変わって静かな雰囲気になって言った。
 そして「じゃあ、今はお父さんとお母さんの事が嫌いだけど、好きだった時の話を聞かせてよ」と問いかけると、以前とは違い拒否することなくどこか「考えてみる」という表情を見せた。

 それから数週間。
最近では「嫌いなお父さんやお母さんの話」ではなく、「好きだったお父さんの話」をするようになった。
 
 そのような状況で、再び「お父さんとお母さんの事が本当は好きなんだよね!」と伝えるとまったく否定せず、「その事がお父さんやお母さんに伝わらなかったんだよね?」とたずねるとこれまた否定しない彼がいた。

 軽度の知的当事者であるが故に、様々な言葉を持っている。そしてその言葉を駆使して自らの想いを伝えようともする。
 しかし、多くの言葉を持っているが故になかなか本当の想いが伝えられない。
 決して語っている事がそのまま本当の想いではないとも思う。しかし、本当の想いを伝えるためには、その前に伝えておかなければならない事が彼の中にたくさんある。

 お父さんの事が大嫌い⇒お父さんのココが大嫌い⇒お父さんの事が心配⇒自分は心配しているのにやめないお父さん⇒お父さんは大嫌い⇒絶対やめさせてやる⇒お父さんが心配⇒お父さんが大嫌い⇒お父さんが好きだから

 そこに至るためには、周囲が彼の語る一つ一つの事柄を肯定しなければ、彼自身その先を伝えられない。
 彼にしてみれば、幼い頃から周囲に否定され続けてきた面がある。何度も「身勝手な彼」と評されたり表面的な言論を否定されてきたのだろうと思う。
 「本当はそこが言いたいのではない」のに、周囲は彼の言葉や行動から彼を否定し続けてきた。
 それ故にわが身を守るわが身を認めてもらうために更なるバージョンアップをせざるを得なくなる。
 しかし、そこが彼にとって語りたい理解してもらいたい事ではないのだろうと思う。
 しかし、彼自身の世界ではそうしなければ自分の言いたい事が言えない。
 でも、本当はそこでやり取りする話ではないことも本人はわかっているようにも思うが、そうできないのが彼のハンディなのではないだろうか?

 私たちが描く視覚障害者に対する困難さと生まれる前から目が見えなかった中で描く自身の困難さには大きなずれがあると聞く。
 それと同様の事が彼にも言えるのではないだろうか?
 そして、私たちはこれまで彼が言葉で語る事の後ろにある彼が伝えたい事とどれだけ向き合ってきただろうかと考える。

 私たち当初描いたイライラは、私たちが描く社会の常識と言うものにこだわっているから。
 それは誰しもが持つあたりまえの事であるが故に否定されるのは彼自身。
 私たちが描くあたりまえの世界は、大多数が想い描く客観的現実で正しい事。
 しかし、彼にとってもまた客観的現実に基づき言葉を組み立て人とのコミュニケーションを図ろうとする。その事を単純に正しくない事としてしまってはその先へはすすめない。
 
 本来は、幼い頃から彼が想い描く客観的現実と周囲が描く客観的現実とをお互いに交換し合い、お互いに作りだしていかなければならないものだと思う。
 しかし、私たちは彼らのような人たちを排除し、すべての人に通じる現実として作り上げてきた。

 そんな風に考えて行くと、イライラしていた私は、ワクワクしている自分に気づく。
 すなわち、彼の持つ現実がどこにあるのか?それは何なのか?自分と共有可能なことなのか?何を自分は排除してきたのか?等々
 傍で見ていると頓珍漢な話もしばしばあるのだが、障がい当事者を排除する私たちの世界のおかしさをいろいろと考えさせられる。


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2009年04月05日

人は何をもって客観的現実とするか?

 今朝夢の中でふと思い描いた。

 最近、事務所用品のカタログ販売のセールスがしばしばやってくる。

「うちの商品は他社さんより安いですよ!」
どこの会社もと言う。

 では本当に安い会社はどこか?ととりあえずカタログを受け取る。

 例えば、ひろばでよく使うコピー用紙で比べてみると、A社の方がB社より安い。さらにC社の方がもっと安かったりする。

 「安い」と言う現実はそのカタログに書かれてある数値を見れば明らかである。
 では、価格という数値をもって客観的現実とし、常に財政危機のたこの木としては、一番安いC社に決めるか?

 いやいや、C社を利用したことのある人が、「確かに紙は安いが紙質が悪いのでやめた方が良い」「同じ紙質で考えるとA社の方が安い」という情報があった。
 「フムフム」である。

 又、最低注文個数と言うのがあって、まとめ買いしないと安くならない。大手企業ならいざ知らず、私たちが紙をよく使うと言ってもたかだか知れている。
 ボールペン100本・スティックのり100個なんて誰が使うのか?必要な個数を注文しようとするとB社が安かったりする。

 そして、あれやこれやと見ていくと近所の大手文具屋の値段と変わらない(逆に特売で安かったり)場合もある。(配達してもらえる手間は助かるけど)

で、
冒頭の「うちの商品は他社さんより安いですよ!」
と言うセールスマンの話にもどろう。
「安い」という客観的現実については、
一つにはカタログを隅から隅を読み比較することで明らかになることもある。
しかし、
紙の質と言うのはどうだろうか?
使う用途や印刷機との相性や使う人の好みにも関わってくる。そんなことはカタログには書いていない。

「安物買いの銭うしない」という言葉があるが、
受け取った商品を見て「安い買い物をしたかどうかの判断も実は人それぞれに違ってくるだろう」
なので、どの会社から商品を購入するか?と言うことから「安い」と言うきゃかん的現実を明らかにしようとすると実際には、「口コミ」「複数の人たちからの評価」によって、「個々の会社の商品は(お得で)安い」と言うことになる。

「口コミ」と言うのは、すでに利用している人たちである。又複数の人たちの評価も「クイズ100人に聞きました」などと言う見ず知らずの人の評価ではなく、普段付き合いのある人たち数人の中での判断である。

「安い」と言う客観的現実は、カタログの比較によって数値化し明らかになるのではなく、信頼のおける人たちの評価の積み重ねの中で明らかになり、客観的現実すなわち商品を購入すると言う現実に至るのではないかと思った。


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